婚約破棄?はい、喜んで!――つきましては、こちらの請求書をご確認ください。

小梅りこ

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「……はぁ。今日も一日、ブラシを振りすぎて右腕の筋肉が資産価値を失いそうだ」

深夜。大浴場の掃除を終えたユリウス王子は、月明かりの下で情けなく嘆いていた。

そこへ、建物の影から一人の男がひっそりと姿を現した。
王都の旧保守派貴族の一員、ヴィル卿である。

「……殿下、ようやくお一人になられましたな。このような場所で泥にまみれる生活、もう終わりにいたしましょう」

「……ヴィル卿か。なぜ、こんな辺境まで?」

「王都には、未だ殿下を支持する者が大勢おります。あの冷酷なエーミ嬢による『経済的独裁』に耐えかねた者たちが、殿下を中心としたクーデターを画策しているのです!」

ヴィル卿は熱を込めて、ユリウスの手を握った。
王宮を追放同然で追い出されたユリウスにとって、それは甘い誘惑に聞こえた。

「ク、クーデターだと……!? 私が、再び王都の頂点に戻れるのか?」

「もちろんです! あのような計算高い女に、王族が顎で使われるなどあってはならないこと。さあ、今すぐ私と共に――」

「――失礼いたします。その作戦、初期費用はいくらで見積もっていますの?」

暗闇から、カチリと算盤の弾かれる音が響いた。
冷ややかな声と共に現れたのは、夜会用ではない、夜間警備用のシックなドレスを纏ったエーミだった。

「エ、エーミ!? いつからそこに!」

「ヴィル卿が不法侵入した一分三十二秒後からですわ。……さて、ヴィル卿。クーデターには、兵士の動員費、兵糧、情報の隠蔽工作費……最低でも金貨三万枚は必要ですが、その資金源はどちらかしら?」

エーミは懐から一通の書類を取り出し、月光に透かして見せた。

「あなたが支援者だとおっしゃる貴族たちの多くは、現在、我がグラナード公爵家……いえ、この温泉宿の債権(さいけん)の下にありますわ。つまり、反乱を起こそうにも、彼らには武器を買う現金すら残っていないはずですが?」

「な、何だと……!?」

「ヴィル卿、あなたの家も、先月『特注のバラ園』を造るために、私の関連会社から多額の融資を受けていましたわね? 反乱を起こした瞬間に、その借金を一括返済していただきますけれど……よろしいかしら?」

ヴィル卿の顔から、一気に血の気が引いていく。
彼は、自分たちがエーミという名の巨大な「金融網」に囚われていることに、今さら気づいたのだ。

「……う、うるさい! 金などなくとも、正義は我らにある!」

「正義で腹は膨れませんわよ。……ラインハルト、お願いします」

背後の木々から、沈黙を保っていたラインハルトが静かに歩み出た。
抜身の剣は持っていないが、その威圧感だけでヴィル卿は腰を抜かした。

「……ヴィル卿。俺の領地で不穏な動きをするのは勝手だが、この場所の管理権はエーミにある。……お前のその『正義』とやら、俺の騎士団の維持費とぶつけてみるか?」

「ひ、ひいいいっ! た、助けてくれえええ!」

ヴィル卿は、クーデターの呼びかけなど忘れたように、脱兎のごとく夜の闇へと消えていった。

残されたユリウスは、地面にへたり込んだまま、震える声で呟いた。

「……エーミ。私は、また……利用されようとしていたのか」

「ええ、殿下。彼らはあなたを担ぎ上げて、私に取られた『贅沢(ぜいたく)する権利』を取り戻したかっただけよ。……今のあなたに、王としての価値があると思っての行動ではないわ」

エーミは屈み込み、ユリウスの目を見つめた。
その瞳には、以前のような冷徹な拒絶ではなく、少しだけ「教育者」に近い色が混じっている。

「……でも、殿下。あなたはさっき、彼の誘いにすぐには乗らなかったわね。三秒ほど迷った。それは、今日の掃除の結果である『磨き上げた床』の価値を、自分なりに認めていたからではないかしら?」

「……。……私は、ただ。せっかく綺麗にした床が、軍靴(ぐんか)で汚されるのが嫌だっただけだ」

ユリウスがぶつぶつと不器用な返答をすると、エーミはふっと微笑んだ。

「素晴らしいわ。それが『当事者意識』という名の、最も価値ある資産よ。……さあ、夜食の麦粥(むぎがゆ)ができているわ。アンナに多めに作らせたから、しっかり食べて、明日の大浴場清掃に備えなさい」

「……ああ。……食べるよ」

ユリウスはよろよろと立ち上がり、厨房の方へと歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、ラインハルトが呟く。

「……お前、あいつを本当に『王』にするつもりか?」

「まさか。私はただ、彼を『赤字垂れ流しのバカ王子』から、『採算の取れる人間』に変えようとしているだけよ。……あ、でもラインハルト。さっきの助け、非常に効率的だったわ。報酬として、後で私の『特製マッサージ』の利用権を一回分差し上げるわね」

「……マッサージだと!? ……あ、いや、そんなものは……別に欲しくはないが……」

「あら。じゃあ、アンナに譲ってもいいかしら?」

「……いや! ……もらっておこう。……契約だ」

ラインハルトが顔を背けて早歩きで去っていくのを、エーミは不思議そうに見送った。

「……アンナ。ラインハルトの心拍数、またバグを起こしているみたいだけど、何か悪いものでも食べたのかしら?」

「お嬢様。……それは、マッサージの内容を想像して脳内資産が爆発しているだけですわ。放置しておきましょう」

エーミの周囲では、経済も、恋も、確実に「過熱」し始めていた。
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