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ノックス辺境伯領の居城、黒鉄城。
その一室にある執務室には、私の背丈ほども積み上げられた「負の遺産」――すなわち、過去数年分の帳簿が鎮座していた。
私はそれらを一瞥し、深く、深くため息をついた。
「カシアン様。これ、本当に帳簿だと思って管理していらっしゃったのですか?」
「……何が言いたい。領地の文官たちが心血を注いで記録したものだぞ」
カシアン様は腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せた。
私は一冊の帳簿を指先で弾き、その惨状を突きつける。
「これは帳簿ではなく、『なんとなく使ったお金のメモ帳』ですわ。見てください、この『雑費』の項目。金額の三割がここに放り込まれています。中身を精査したところ、五割が騎士団の飲み代、残りの五割が用途不明の寄付金。……穴だらけどころか、もはやザルですわね」
「……。騎士たちの士気を維持するには、適度な酒も必要だろう」
「その『適度』の定義が、この領地では『浴びるほど』になっているようですわ。それにこの寄付金、送り先が王都の宗教団体ですが……カシアン様、貴方は神の救いを買う前に、領民のパンを買うべきでしたわね」
私の容赦ない指摘に、後ろで控えていた文官たちが「ひ、ひえぇ……」と顔を青くして震え上がる。
「カシアン様、少し席を外していただけますか? ここにいる文官たちも全員。……今のままだと、私のそろばんの珠が彼らの額に飛んでいきそうですもの」
「……。分かった。三時間後にまた来る」
カシアン様が困惑気味に退室すると、私は即座に戦闘態勢に入った。
髪を高い位置で結び直し、袖をまくり上げる。
「さて、セバス。計算機の用意を。ここからは、一分たりとも無駄にできないわ」
「かしこまりました。お嬢様、やはり『あの魔法』を使われますか?」
「ええ。……複式簿記(ダブルエントリー)という名の、この世界にはまだ早すぎる最強の武器をね」
それから、私の孤独な戦いが始まった。
羽ペンの走る音と、そろばんを弾く軽快なリズムだけが部屋に響く。
「……ありえない。この肥料の仕入れ値、相場の二倍ですわ。商人に足元を見られているのか、それとも担当者が裏金を受け取っているのか。……セバス、この商会の名前を控えて。明日、叩き潰します」
「承知いたしました。……お嬢様、少し顔色が悪いようですが、休憩なさいますか?」
「休憩? そんな非生産的な時間は、全ての数字が整合性を取ってからにしますわ。ああ、見て。この馬の飼料代。一頭あたり、王宮の馬より豪華なものを食べているわ。……明日から、この馬たちはダイエット決定ね」
夜が更け、窓の外が群青色に染まっても、私の手は止まらなかった。
数字は嘘をつかない。
数字は裏切らない。
そして、数字を整理すればするほど、カシアン様という男の「不器用な優しさ」と「経営的無知」が浮き彫りになっていく。
「……この人、自分個人の給与(アパナージュ)を、全部殉職した騎士の家族への見舞金に回しているじゃない」
「おや。冷酷な『氷の騎士』様にしては、随分と温かいお金の使い方をされていますね」
「ええ。でも、やり方が下手すぎるわ。これではカシアン様自身が破産してしまう。……私が、もっと効率的で持続可能な慈善システム(スキーム)を組んであげなくては」
夜明け前。
ようやく最後の一冊を閉じ、私は達成感と共に椅子に深く体を預けた。
バタン、と扉が開く。
そこには、少しだけ心配そうな顔をしたカシアン様が立っていた。
手には、湯気の立つカップを持っている。
「……まだ起きていたのか。少しは休めと言っただろう」
「カシアン様。おはようございます。……それ、コーヒーですか?」
「いや、温めたミルクだ。コーヒーは貴様の神経をさらに尖らせそうだからな。……それで、結果はどうだ」
私は目の前に整然と並べた「新・財政再建計画書」を差し出した。
「おめでとうございます、カシアン様。貴方の領地は、今日から『黒字へのカウントダウン』を開始しましたわ」
「……。そんな短時間で、本当か?」
「ええ。まず、不要な中間搾取を行っていた商会との契約をすべて破棄します。次に、騎士団の酒代を一律三割カット。その代わり、領地内で醸造所を立ち上げ、自分たちで造らせて外貨を稼がせます。……さらに」
私は立ち上がり、カシアン様の目の前に一歩踏み出した。
「カシアン様ご自身の見舞金制度も、私が基金(ファンド)化しました。これで貴方の懐を痛めずに、より多くの遺族を救えます」
カシアン様は、私の差し出した書類を手に取り、しばらく黙って眺めていた。
やがて、彼はミルクのカップを私の机に置き、ぽつりと呟いた。
「……貴様、本当に何者だ。王都では『贅沢三昧の悪役令嬢』だという噂だったが」
「あら、贅沢をするには、それ以上の利益を生む力が必要なだけですわ。……カシアン様、そのミルク、一杯おいくらですか?」
「……。タダだ」
「いいえ、薪代、人件費、家畜の維持費を考えれば、一杯一五ゴールドは下りませんわ。……いただきます。この一五ゴールド分の恩義は、次の商談でしっかりとお返ししますから」
私は温かいミルクを口に含み、幸せそうに目を細めた。
カシアン様は、そんな私を呆れたように、けれどどこか熱を持った瞳で見つめていた。
「……。一五ゴールドの恩を、数万ゴールドにして返すつもりか」
「当然ですわ。私は利息にはうるさい女ですもの」
朝日が、執務室に差し込む。
私たちの奇妙な協力関係は、不眠不休の計算(バトル)を経て、より強固なものへと変わろうとしていた。
その一室にある執務室には、私の背丈ほども積み上げられた「負の遺産」――すなわち、過去数年分の帳簿が鎮座していた。
私はそれらを一瞥し、深く、深くため息をついた。
「カシアン様。これ、本当に帳簿だと思って管理していらっしゃったのですか?」
「……何が言いたい。領地の文官たちが心血を注いで記録したものだぞ」
カシアン様は腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せた。
私は一冊の帳簿を指先で弾き、その惨状を突きつける。
「これは帳簿ではなく、『なんとなく使ったお金のメモ帳』ですわ。見てください、この『雑費』の項目。金額の三割がここに放り込まれています。中身を精査したところ、五割が騎士団の飲み代、残りの五割が用途不明の寄付金。……穴だらけどころか、もはやザルですわね」
「……。騎士たちの士気を維持するには、適度な酒も必要だろう」
「その『適度』の定義が、この領地では『浴びるほど』になっているようですわ。それにこの寄付金、送り先が王都の宗教団体ですが……カシアン様、貴方は神の救いを買う前に、領民のパンを買うべきでしたわね」
私の容赦ない指摘に、後ろで控えていた文官たちが「ひ、ひえぇ……」と顔を青くして震え上がる。
「カシアン様、少し席を外していただけますか? ここにいる文官たちも全員。……今のままだと、私のそろばんの珠が彼らの額に飛んでいきそうですもの」
「……。分かった。三時間後にまた来る」
カシアン様が困惑気味に退室すると、私は即座に戦闘態勢に入った。
髪を高い位置で結び直し、袖をまくり上げる。
「さて、セバス。計算機の用意を。ここからは、一分たりとも無駄にできないわ」
「かしこまりました。お嬢様、やはり『あの魔法』を使われますか?」
「ええ。……複式簿記(ダブルエントリー)という名の、この世界にはまだ早すぎる最強の武器をね」
それから、私の孤独な戦いが始まった。
羽ペンの走る音と、そろばんを弾く軽快なリズムだけが部屋に響く。
「……ありえない。この肥料の仕入れ値、相場の二倍ですわ。商人に足元を見られているのか、それとも担当者が裏金を受け取っているのか。……セバス、この商会の名前を控えて。明日、叩き潰します」
「承知いたしました。……お嬢様、少し顔色が悪いようですが、休憩なさいますか?」
「休憩? そんな非生産的な時間は、全ての数字が整合性を取ってからにしますわ。ああ、見て。この馬の飼料代。一頭あたり、王宮の馬より豪華なものを食べているわ。……明日から、この馬たちはダイエット決定ね」
夜が更け、窓の外が群青色に染まっても、私の手は止まらなかった。
数字は嘘をつかない。
数字は裏切らない。
そして、数字を整理すればするほど、カシアン様という男の「不器用な優しさ」と「経営的無知」が浮き彫りになっていく。
「……この人、自分個人の給与(アパナージュ)を、全部殉職した騎士の家族への見舞金に回しているじゃない」
「おや。冷酷な『氷の騎士』様にしては、随分と温かいお金の使い方をされていますね」
「ええ。でも、やり方が下手すぎるわ。これではカシアン様自身が破産してしまう。……私が、もっと効率的で持続可能な慈善システム(スキーム)を組んであげなくては」
夜明け前。
ようやく最後の一冊を閉じ、私は達成感と共に椅子に深く体を預けた。
バタン、と扉が開く。
そこには、少しだけ心配そうな顔をしたカシアン様が立っていた。
手には、湯気の立つカップを持っている。
「……まだ起きていたのか。少しは休めと言っただろう」
「カシアン様。おはようございます。……それ、コーヒーですか?」
「いや、温めたミルクだ。コーヒーは貴様の神経をさらに尖らせそうだからな。……それで、結果はどうだ」
私は目の前に整然と並べた「新・財政再建計画書」を差し出した。
「おめでとうございます、カシアン様。貴方の領地は、今日から『黒字へのカウントダウン』を開始しましたわ」
「……。そんな短時間で、本当か?」
「ええ。まず、不要な中間搾取を行っていた商会との契約をすべて破棄します。次に、騎士団の酒代を一律三割カット。その代わり、領地内で醸造所を立ち上げ、自分たちで造らせて外貨を稼がせます。……さらに」
私は立ち上がり、カシアン様の目の前に一歩踏み出した。
「カシアン様ご自身の見舞金制度も、私が基金(ファンド)化しました。これで貴方の懐を痛めずに、より多くの遺族を救えます」
カシアン様は、私の差し出した書類を手に取り、しばらく黙って眺めていた。
やがて、彼はミルクのカップを私の机に置き、ぽつりと呟いた。
「……貴様、本当に何者だ。王都では『贅沢三昧の悪役令嬢』だという噂だったが」
「あら、贅沢をするには、それ以上の利益を生む力が必要なだけですわ。……カシアン様、そのミルク、一杯おいくらですか?」
「……。タダだ」
「いいえ、薪代、人件費、家畜の維持費を考えれば、一杯一五ゴールドは下りませんわ。……いただきます。この一五ゴールド分の恩義は、次の商談でしっかりとお返ししますから」
私は温かいミルクを口に含み、幸せそうに目を細めた。
カシアン様は、そんな私を呆れたように、けれどどこか熱を持った瞳で見つめていた。
「……。一五ゴールドの恩を、数万ゴールドにして返すつもりか」
「当然ですわ。私は利息にはうるさい女ですもの」
朝日が、執務室に差し込む。
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