婚約破棄、万々歳!隣国の強面公爵(節約家)に拾われました

小梅りこ

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その夜、城はいつにも増して静まり返っていた。


経費削減のために廊下の魔法灯を最小限に絞っているせいもあるが、何より私の心が、昼間の勝利の余韻とは別の何かで波立っていたからだ。


私は温め直した(もちろん余った熱を利用して)ハーブティーを二つ用意し、アリステア様の執務室を訪ねた。
ドアを叩くと、中から低く、どこか疲れを含んだ声が響く。


「入れ。……リウか。こんな夜更けにどうした」


「夜間の執務は眼精疲労を招き、将来的な医療費の増大に繋がりますわ。ここらで休憩にしませんこと?」


私は机の上にティーカップを置いた。
アリステア様は眼鏡を外し、眉間を指で押さえている。
その右目の上の深い傷跡が、キャンドルの微かな光に照らされて、いつもより生々しく見えた。


「……閣下。その傷、いつか伺おうと思っていましたの」


アリステア様は一瞬、視線を彷徨(さまよ)わせたが、やがて諦めたように小さく溜息をついた。


「……これは、この領地が『黄金の墓場』と呼ばれていた頃の傷だ」


「黄金の墓場……?」


「俺の親父……先代の公爵は、お前の元婚約者以上の浪費家だった。この城にはかつて、金箔が貼られた柱が並び、毎晩のように贅を尽くした夜会が開かれていた。……だが、その裏で領民は餓え、国庫は空っぽ。借金の督促状が山積みだった」


アリステア様は、冷めた紅茶を一口啜り、遠い目をする。


「俺が十歳の時だ。借金取りの集団が城に押し入ってきた。親父は真っ先に逃げ出し、残された俺が彼らの前に立ちはだかった。……この傷はその時に、リーダー格の男に切りつけられたものだ」


私は息を呑んだ。
強面の公爵というイメージの裏に、そんな凄惨な少年時代があったなんて。


「俺は悟った。贅沢とは、誰かの血を吸って咲く毒花だとな。だから俺は、この顔と傷を利用して『氷の処刑人』を演じることに決めたのだ。恐怖で人を遠ざければ、無駄な社交費もかからない。冷酷な数字だけで国を治めれば、二度とあの日ような絶望を領民に味わわせずに済む……」


アリステア様の大きな手が、机の上で硬く握りしめられる。


「俺にとっての『黒字』は、ただの数字じゃない。それは、二度と誰にも屈しないための盾なのだ。……リウ、お前には、こんな歪んだ男の執念、滑稽に見えるか?」


私は黙って立ち上がり、彼の背後に回った。
そして、その強張った肩にそっと手を置く。


「滑稽だなんて、とんでもありませんわ。……閣下、私はあなたを尊敬いたします」


「リウ……」


「私も、同じでしたから。王都で『悪役』を演じていたのは、自分を守るため……そして、無意味な消費に加担したくないという、私なりの抵抗でした。私たちは、手法は違えど、同じ孤独な戦いを続けてきたのですわね」


私は彼の肩に顔を寄せ、微かに聞こえる鼓動に耳を澄ませた。
鎧のように纏っていた冷酷な合理主義。
その下にあるのは、誰よりも優しく、不器用な守護者の心だ。


「これからは、お一人で戦う必要はありませんわ。閣下が領民を守る盾ならば、私はその盾の維持費を最小限に抑え、さらに強固に補強する最高の職人になって差し上げます」


「……フッ。お前らしいな。愛の告白すら、メンテナンスの話に聞こえる」


アリステア様が私の手をとり、その指先にそっと唇を寄せた。
彼の唇は温かく、昼間の険しさはどこにもなかった。


「リウ。お前と出会って、俺は初めて『未来』を計算できるようになった。お前との生活に、一点の無駄もない黒字の幸せを。……生涯かけて、俺の帳簿を管理してくれないか」


「ええ。閣下が破産しそうになったら、私がフライパンを持って助けに行きますわ。……あ、でもその時は救助費用を請求しますから、覚悟しておいてくださいね?」


「ハハッ! 全くだ、お前には一生勝てそうにないな」


私たちは暗い執務室の中で、声を合わせて笑った。
かつて孤独な戦いを続けていた二人の魂が、今、一銅貨の誤差もなく重なり合った瞬間だった。


しかし、夜の静寂を切り裂くように、城門を叩く激しい音が響き渡った。


「閣下! 緊急事態です! 王都より、カイル王子が直々に軍(?)を引き連れてこちらに向かっているとの報告が!」


「軍だと……? あのバカ、戦争のコスト計算すら忘れたのか?」


アリステア様の目が、一瞬で鋭い「公爵」のそれに戻った。
私もまた、扇を握りしめ、不敵な笑みを浮かべる。


「……いいでしょう。カイル様。私たちの平穏な(節約)ライフを邪魔する無駄遣いの権化には、徹底的な教育が必要なようですわね」
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