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王立アカデミーのパーティーから数日。
私の人生において、これほど「王子」という単語が記憶の隅に追いやられた日々はなかった。
今の私の脳内シェアは、九割が深海魚、残りの一割がカイト様との共同研究のスケジュールだ。
しかし、平穏(?)な研究生活は、突如として鳴り響いた派手なファンファーレによって打ち破られた。
「ラブカ! ラブカ・ディープシー! どこだ、僕が助けに来てやったぞ!」
屋敷の玄関先から響く、聞き覚えのある高慢な声。
私は顕微鏡でダイオウイカの吸盤の細胞を観察していた手を止め、深く、深ーい溜息をついた。
「アンナ。……今、入り口で吠えている珍客は誰かしら?」
「お嬢様……。残念ながら、あなたの元婚約者のアルベルト王子です。白馬に乗って、バラの花束を持っていらっしゃいます。……正直、めちゃくちゃ邪魔です」
「そうね。追い返してちょうだい。今は細胞分裂の重要な局面なの。王子の顔を見るより、イカの細胞を見てる方が一万倍有益だわ」
私が再び顕微鏡を覗こうとした瞬間、扉が乱暴に開け放たれた。
「ラブカ! 返事もせずに何をしている! この僕がわざわざ王都から……って、なんだその姿は!?」
部屋に踏み込んできたアルベルト王子は、私の姿を見て絶句した。
今の私は、白衣を羽織り、頭には「深海魚の誘引突起」を模した自作の集光ライト付きヘッドセットを装着している。
さらに、手袋は魚の粘膜を扱うためのヌメヌメ仕様だ。
「あら、元殿下。見ての通り、世界平和(深海研究)に貢献している最中ですわ。ノックもせずに不法侵入とは、王族の教育を疑いますわね」
「貴様……! その不気味な格好は何だ! やはりショックで気が触れてしまったんだな!? 可哀想に、僕への未練を断ち切るために自分を追い込んで……!」
王子が、なぜか涙ぐみながら私に歩み寄ろうとする。
私は反射的に、手に持っていた解剖用のピンセットを突き出した。
「寄らないで。そのバラの花粉、実験サンプルに付着したらどう責任を取ってくれるの? というか、未練? 何の話かしら。私は今、人生で一番幸せな瞬間を更新中なのよ」
「強がるな! 報告は受けているぞ! 海に身を投げ、さらにどこからか拾ってきた男を囲っているそうじゃないか! 僕への当てつけにしても、度が過ぎているぞ!」
王子の視線が、部屋の隅で黙々とデータを整理していたカイト様へ向けられた。
カイト様はゆっくりと立ち上がり、王子に対して騎士の礼を取った。
「アルベルト殿下。……お久しぶりです」
「……カイト? 深海調査騎士団の、カイト・トレンチか!? なぜ貴様がこんなところに……。はっ! そうか、ラブカに無理やり脅されて軟禁されているんだな!?」
「いえ、殿下。私はラブカ様に命を救われ、現在は彼女の素晴らしい知性と……その、類まれなる情熱に心酔し、自らの意思でここに留まっております」
カイト様の言葉に、王子の顔が屈辱で真っ赤に染まった。
彼は信じられないというように私とカイト様を交互に見た。
「心酔!? この不気味な女にか!? カイト、貴様も頭が沸いたのか! この女は、ミィニャを深海魚の死骸で脅すような邪悪な悪役令嬢なんだぞ!」
「殿下。あれは死骸ではなく、保存状態の極めて良好な標本です。その価値を理解できない貴殿に、ラブカ様を語る資格はありません」
「……っ!!」
カイト様の静かな、しかし確信に満ちた反論。
王子は鼻を鳴らし、今度は私に向かって腕を広げた。
「わかった、もういい! ラブカ、特別に許してやる! 君がその男と縁を切り、僕の前で土下座して謝罪し、さらにミィニャを一生支えるメイドとして仕えるなら、婚約破棄を白紙に戻してやってもいいぞ!」
一瞬、部屋の中が凍りついたような静寂に包まれた。
アンナが白目を剥き、カイト様が剣の柄に手をかけようとする。
しかし、私はただ、ポカンと口を開けて王子を見つめていた。
「……え、今、なんて仰いました?」
「聞こえなかったのか? 復縁してやる、と言っているんだ! さあ、喜べ!」
私は三秒ほど考え、そして最高に「冷たい」笑顔を浮かべた。
「お断りします」
「……は?」
「聞こえませんでした? 一秒でも早くお帰りください、と言ったのよ。あなたがここにいるせいで、私の大切な実験室の酸素が消費されるのが耐え難いわ。あと、ミィニャ様のメイド? そんな暇があるなら、私は深海でゴミ拾いをしている方がマシよ」
「き、貴様ぁぁ! 僕の慈悲を無下にするのか!」
「慈悲? それは魚にエサをやる時にでも使う言葉ね。私にとって、あなたはもう『外来種の雑魚』以下の存在なの。分かったら、その汚い馬車に乗って王都へ帰りなさい!」
私がヌメヌメの手袋で王子の胸元をグイと押すと、彼は「うわああ!」と叫んで尻餅をついた。
そこへ追い打ちをかけるように、アンナがバケツに入った「魚の洗浄に使った水」を、うっかり(わざと)王子の足元にこぼした。
「あ、失礼しました殿下! あまりに殿下のオーラが眩しくて、手元が狂ってしまいましたわ!」
「お、お前たち……! 覚えていろよ! こんな辺境で、魚と一緒に腐っていくがいい!」
王子はバラの花束を投げ捨て、泣きそうな顔で屋敷を飛び出していった。
馬車が走り去る音が聞こえるまで、私たちは無言だった。
「……ふぅ。やっと静かになったわ」
私はヘッドセットを直し、再び顕微鏡に向かった。
「お嬢様……。一応、王子様なんですけど。不敬罪とか大丈夫ですかね?」
「いいのよ。ここはディープシー公爵領の最果て。王家の威光よりも、潮の満ち引きの方が重要な場所なんだから。それよりカイト様、今の振動で細胞の配置がズレてないか確認してくれる?」
「了解した。……それにしても、ラブカ様。先ほどの『外来種の雑魚』という表現……非常に適切で感銘を受けました」
カイト様が少しだけ口角を上げた。
彼との絆が、また少し深まったような気がする。
「さて、邪魔者はいなくなったわ。私たちの『本当のパーティー』を再開しましょうか。今夜は、最新の潜水艇の設計図を完成させるわよ!」
「ああ。どこまでも、君についていこう」
王都からやってきた「嵐」は、私の情熱という名の防波堤に阻まれ、何一つ残さずに消えていった。
私のセカンドライフには、ナルシストな王子様の居場所なんて、一ミリも存在しないのだから。
私の人生において、これほど「王子」という単語が記憶の隅に追いやられた日々はなかった。
今の私の脳内シェアは、九割が深海魚、残りの一割がカイト様との共同研究のスケジュールだ。
しかし、平穏(?)な研究生活は、突如として鳴り響いた派手なファンファーレによって打ち破られた。
「ラブカ! ラブカ・ディープシー! どこだ、僕が助けに来てやったぞ!」
屋敷の玄関先から響く、聞き覚えのある高慢な声。
私は顕微鏡でダイオウイカの吸盤の細胞を観察していた手を止め、深く、深ーい溜息をついた。
「アンナ。……今、入り口で吠えている珍客は誰かしら?」
「お嬢様……。残念ながら、あなたの元婚約者のアルベルト王子です。白馬に乗って、バラの花束を持っていらっしゃいます。……正直、めちゃくちゃ邪魔です」
「そうね。追い返してちょうだい。今は細胞分裂の重要な局面なの。王子の顔を見るより、イカの細胞を見てる方が一万倍有益だわ」
私が再び顕微鏡を覗こうとした瞬間、扉が乱暴に開け放たれた。
「ラブカ! 返事もせずに何をしている! この僕がわざわざ王都から……って、なんだその姿は!?」
部屋に踏み込んできたアルベルト王子は、私の姿を見て絶句した。
今の私は、白衣を羽織り、頭には「深海魚の誘引突起」を模した自作の集光ライト付きヘッドセットを装着している。
さらに、手袋は魚の粘膜を扱うためのヌメヌメ仕様だ。
「あら、元殿下。見ての通り、世界平和(深海研究)に貢献している最中ですわ。ノックもせずに不法侵入とは、王族の教育を疑いますわね」
「貴様……! その不気味な格好は何だ! やはりショックで気が触れてしまったんだな!? 可哀想に、僕への未練を断ち切るために自分を追い込んで……!」
王子が、なぜか涙ぐみながら私に歩み寄ろうとする。
私は反射的に、手に持っていた解剖用のピンセットを突き出した。
「寄らないで。そのバラの花粉、実験サンプルに付着したらどう責任を取ってくれるの? というか、未練? 何の話かしら。私は今、人生で一番幸せな瞬間を更新中なのよ」
「強がるな! 報告は受けているぞ! 海に身を投げ、さらにどこからか拾ってきた男を囲っているそうじゃないか! 僕への当てつけにしても、度が過ぎているぞ!」
王子の視線が、部屋の隅で黙々とデータを整理していたカイト様へ向けられた。
カイト様はゆっくりと立ち上がり、王子に対して騎士の礼を取った。
「アルベルト殿下。……お久しぶりです」
「……カイト? 深海調査騎士団の、カイト・トレンチか!? なぜ貴様がこんなところに……。はっ! そうか、ラブカに無理やり脅されて軟禁されているんだな!?」
「いえ、殿下。私はラブカ様に命を救われ、現在は彼女の素晴らしい知性と……その、類まれなる情熱に心酔し、自らの意思でここに留まっております」
カイト様の言葉に、王子の顔が屈辱で真っ赤に染まった。
彼は信じられないというように私とカイト様を交互に見た。
「心酔!? この不気味な女にか!? カイト、貴様も頭が沸いたのか! この女は、ミィニャを深海魚の死骸で脅すような邪悪な悪役令嬢なんだぞ!」
「殿下。あれは死骸ではなく、保存状態の極めて良好な標本です。その価値を理解できない貴殿に、ラブカ様を語る資格はありません」
「……っ!!」
カイト様の静かな、しかし確信に満ちた反論。
王子は鼻を鳴らし、今度は私に向かって腕を広げた。
「わかった、もういい! ラブカ、特別に許してやる! 君がその男と縁を切り、僕の前で土下座して謝罪し、さらにミィニャを一生支えるメイドとして仕えるなら、婚約破棄を白紙に戻してやってもいいぞ!」
一瞬、部屋の中が凍りついたような静寂に包まれた。
アンナが白目を剥き、カイト様が剣の柄に手をかけようとする。
しかし、私はただ、ポカンと口を開けて王子を見つめていた。
「……え、今、なんて仰いました?」
「聞こえなかったのか? 復縁してやる、と言っているんだ! さあ、喜べ!」
私は三秒ほど考え、そして最高に「冷たい」笑顔を浮かべた。
「お断りします」
「……は?」
「聞こえませんでした? 一秒でも早くお帰りください、と言ったのよ。あなたがここにいるせいで、私の大切な実験室の酸素が消費されるのが耐え難いわ。あと、ミィニャ様のメイド? そんな暇があるなら、私は深海でゴミ拾いをしている方がマシよ」
「き、貴様ぁぁ! 僕の慈悲を無下にするのか!」
「慈悲? それは魚にエサをやる時にでも使う言葉ね。私にとって、あなたはもう『外来種の雑魚』以下の存在なの。分かったら、その汚い馬車に乗って王都へ帰りなさい!」
私がヌメヌメの手袋で王子の胸元をグイと押すと、彼は「うわああ!」と叫んで尻餅をついた。
そこへ追い打ちをかけるように、アンナがバケツに入った「魚の洗浄に使った水」を、うっかり(わざと)王子の足元にこぼした。
「あ、失礼しました殿下! あまりに殿下のオーラが眩しくて、手元が狂ってしまいましたわ!」
「お、お前たち……! 覚えていろよ! こんな辺境で、魚と一緒に腐っていくがいい!」
王子はバラの花束を投げ捨て、泣きそうな顔で屋敷を飛び出していった。
馬車が走り去る音が聞こえるまで、私たちは無言だった。
「……ふぅ。やっと静かになったわ」
私はヘッドセットを直し、再び顕微鏡に向かった。
「お嬢様……。一応、王子様なんですけど。不敬罪とか大丈夫ですかね?」
「いいのよ。ここはディープシー公爵領の最果て。王家の威光よりも、潮の満ち引きの方が重要な場所なんだから。それよりカイト様、今の振動で細胞の配置がズレてないか確認してくれる?」
「了解した。……それにしても、ラブカ様。先ほどの『外来種の雑魚』という表現……非常に適切で感銘を受けました」
カイト様が少しだけ口角を上げた。
彼との絆が、また少し深まったような気がする。
「さて、邪魔者はいなくなったわ。私たちの『本当のパーティー』を再開しましょうか。今夜は、最新の潜水艇の設計図を完成させるわよ!」
「ああ。どこまでも、君についていこう」
王都からやってきた「嵐」は、私の情熱という名の防波堤に阻まれ、何一つ残さずに消えていった。
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