婚約破棄の瞬間に「ラッキー!」と叫んだら、王子の様子がおかしい。

小梅りこ

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「……見て、カイト様。この触手のたゆたう曲線……。暗闇の中で自ら発光するこの姿、まるでお星様を海に閉じ込めたみたいだわ」

「ああ、素晴らしいな、ラブカ様。この発光リズム……おそらく仲間同士で交信しているのだろう。……くっ、私も混ざりたい。私も光りたいぞ」

真っ暗な研究室の中で、私とカイト様は巨大な水槽に張り付いていた。
水槽の中では、嵐の後に採集された新種の「深海ルミナス・ジェリーフィッシュ」が、幻想的なネオンブルーに光り輝いている。

二人で「綺麗ね」「食べたら痺れるかしら」とロマンチック(?)な会話を交わしていた、その時だった。

パーーーーパパパパーーーー!!

静寂を切り裂く、鼓膜が震えるほどの爆音ファンファーレ。
続いて、屋敷の重厚な扉を蹴破るような音が響き渡った。

「ラブカ! 隠れていても無駄だ! この僕が、貴女をその闇の中から救い出してやる!」

「…………はぁ」

私は水槽に額を押し付けたまま、深い溜息をついた。
暗闇に慣れた私の目には、扉の向こうから差し込む光と、そこに立つ二つの人影が猛烈に眩しくて、そして何より煩わしかった。

「アンナ、照明をつけて。……ただし、クラゲたちのストレスにならない程度にね」

パチリ、と魔法の灯りが灯る。
そこに立っていたのは、前回の敗北を微塵も反省していない様子のアルベルト王子。
そして、ピンク色のフリルがこれでもかと主張するドレスに身を包み、ハンカチを握りしめたミィニャ様だった。

「ラブカ様……! なんてこと! こんな暗くてカビ臭い場所で、怪しげな男と二人きりだなんて!」

ミィニャ様がわざとらしく叫び、鼻をつまんだ。
失礼しちゃうわね、ここはカビ臭いんじゃなくて、厳選された深海生物の芳醇なアロマが漂っているだけよ。

「あら、元殿下に、あざとい聖女見習い様。……またいらしたの? ここは貴族の社交場じゃなくて、真理を追究する神聖な研究所ですのよ。ドレスの裾に魚のウロコが付いても文句は受け付けませんわ」

私はヘッドセットの「誘引突起ライト」をピカピカと点滅させながら振り返った。
その異様な姿に、王子が「ひっ!」と情けない声を出す。

「ラ、ラブカ……! その頭の光る棒は何だ! やはり、その男に得体の知れない術をかけられているのか!? カイト、貴様! よくも王国の至宝たる公爵令嬢をこんな姿に……!」

「殿下、至宝などという不正確な定義は避けていただきたい。ラブカ様は今、人類の知の限界に挑む『知の巨人』であらせられる。不勉強な貴殿には、その輝きが理解できないだけだ」

カイト様が冷徹な声で言い放つ。
彼はクラゲの観察を邪魔された怒りで、いつもより三割増しで目つきが鋭くなっていた。

「な、なんですって!? アルベルト様に向かってなんて無礼な! ……ああっ、怖いわ、アルベルト様ぁ!」

ミィニャ様が王子に抱きつく。
王子は鼻を膨らませ、胸を張った。

「聞け、ラブカ! 僕は今日、君を正気に戻すために『特効薬』を持ってきた! これを見ても、まだその男と魚に溺れると言うのか!」

王子が側近に合図すると、運び込まれたのは巨大な、宝石が散りばめられた箱だった。
開かれた中身は、王家に伝わる伝説の秘宝「人魚の涙」と呼ばれる首飾り。

「どうだ! 海が好きなら、この海で最も美しい宝石を君に授けよう。これを身につければ、君のその濁った三白眼も、少しは可愛らしく……」

「…………」

私は無言で首飾りに歩み寄った。
王子が「ふふ、やはり女は宝石に弱いな」と勝ち誇った笑みを浮かべる。
私はその首飾りを手に取り、まじまじと観察した。

「……なるほど。この真珠の光沢、炭酸カルシウムの結晶構造が非常に均一ね。……でも、カイト様。これって、ただの『養殖された大アコヤガイ』の変異体じゃないかしら?」

「左様ですな。深海の極限環境で育った天然物特有の『荒々しい傷』がない。温室育ちの、中身のない石ころだ」

「そうよね! ああ、がっかりだわ。私はてっきり、水深四千メートルの熱水噴出孔の近くで採取された、硫化鉄でコーティングされた黒真珠かと期待したのに!」

私は首飾りを箱に投げ返した。
王子の顔が、怒りと困惑で紫色に変色していく。

「お、お前たち……! この国宝級の宝石を、石ころ呼ばわりしたのか!? ミィニャなんて、これを見て『一生の思い出にしたい』と泣いて喜んだんだぞ!」

「まあ、ミィニャ様は審美眼が……その、非常に独創的なんですのね。羨ましいわ」

私は冷たく微笑んだ。
ミィニャ様が悔しそうに顔を歪める。
彼女はターゲットを切り替えたのか、今度は私の方へ一歩踏み出した。

「ラブカ様! いい加減になさってください! アルベルト様の慈悲をそんな風に踏みにじるなんて、本当に悪役令嬢ですわ! ……だいたい、なんですのその水槽! こんなヌメヌメしたクラゲのどこが綺麗なんですの!?」

ミィニャ様が水槽を指差して嘲笑った。
その瞬間。
私とカイト様の空気が、一変した。

「……今、なんて言ったのかしら?」

「…………このクラゲを、ヌメヌメだと?」

二人の声が重なり、研究室の温度が氷点下まで下がった。
私はヘッドセットのライトを最大出力で発光させ、ミィニャ様を射抜いた。

「この子は、自分の体内で化学反応を起こし、誰に教わることもなくこの暗い海の底で、命の輝きを放っているのよ! 一日の大半を鏡の前で塗りたくっている、どこぞの聖女見習い様の化粧品より、何万倍も清らかで高潔な光だわ!」

「そうだ! この流線型の傘、計算され尽くした触手の配置! これこそが神の設計図だ! それを理解できない君の目は、ただの飾りか? それとも泥水でも詰まっているのか!?」

「ひ、ひぃぃっ!?」

私たちの「オタクの逆鱗」に触れたミィニャ様は、あまりの気迫に尻餅をついた。
王子が慌てて割って入る。

「や、やめろ! 暴力は……暴力はやめるんだラブカ!」

「暴力? 心外ね。私はただ、無知な彼女に教育を施してあげようと思っただけよ。……そうだわ、せっかく来てくださったんですもの。おもてなしをしないといけませんわね」

私は棚から、昨日完成したばかりの「特製・深海ゼリー」を取り出した。
見た目は半透明の紫で、中に小さな「何か」が浮いている。

「さあ、召し上がれ。深海クラゲのコラーゲンをたっぷり凝縮した、私の力作よ。これを食べれば、少しは脳に深海の知恵が行き渡るかもしれないわ」

「な、なんだこれは……。……中に入っている、この黒い粒々は?」

王子が震える手でスプーンを取る。

「それは、深海魚の眼球の、一番美味しい部分を抽出したものよ。栄養満点だわ!」

「…………うぐっ!!」

王子とミィニャ様は、ゼリーを一口食べるや否や、顔を真っ青にして口を押さえた。
そして、そのまま仲良く屋敷の外へと脱兎のごとく逃げ出していった。

「あ、あら。お口に合わなかったかしら。美味しいのにね、カイト様?」

「ええ。この後味の生臭さこそが、生命の証だというのに」

カイト様は美味しそうに自分の分のゼリーを完食し、満足げに微笑んだ。
嵐のような邪魔者が去り、研究室には再び静寂と、クラゲたちのネオンブルーの光が戻ってきた。

「さて、カイト様。邪魔も入ったことだし、気を取り直して潜水艇のエンジンの調整を続けましょうか」

「了解した。……次は、王子の馬車よりも速い推進力を実現してみせよう」

私たちの夜は、まだまだ終わらない。
王都の喧騒がどれほど近づこうとも、私の心はすでに、誰の手も届かない深海の底へと潜り続けていたのだから。
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