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「……静かね、カイト様。まるでお母様の胎内、あるいは巨大なゼリーの中に閉じ込められたみたいだわ」
「ええ、ラブカ様。水圧三千トン。この小さな窓の向こうには、地上の誰一人として知らない、永遠の夜が広がっています」
潜水艇『リュウグウ・マークII』の艦内。
外部からの光を遮断したコクピットの中で、私とカイト様は、メーターが示す『3000m』という数字をうっとりと眺めていた。
のぞき窓のすぐ外側では、サーチライトの光を反射して、雪のように白い『マリンスノー』がゆっくりと舞い落ちている。
それは魚の死骸やプランクトンの排泄物が堆積したものだが、今の私には、王都の舞踏会で撒かれる金粉よりも美しく見えた。
「見て、カイト様! あそこ! 巨大な管のような生き物が……。あれは、伝説のクダクラゲかしら!?」
「なんと……! 全長三十メートルはあろうか。あの半透明の触手が、暗闇の中で微かに燐光を放っている。……機能美の極致だ。あの中に包まれて眠ることができたら、どれほど幸せだろうか」
「本当ね。あの中に入れば、きっと王子の小言も、ミィニャ様の嫌味も聞こえない、完璧な安らぎが得られるわ」
私たちは窓に鼻を押し付け、深海の神秘に心を奪われていた。
地上では「悪役令嬢」だの「不気味な女」だの言われ、居場所を失った私。
けれど、この冷たくて重い水の底は、私をありのままに受け入れてくれる。
「カイト様……。もし、この潜水艇の酸素が尽きたら、私たちはこのまま深海の堆積物になれるのかしら」
「ラブカ様、それはロマンチックな提案ですが、私の計算では、この艇はあと七十二時間は潜航可能です。死ぬにはまだ早い。……我々には、まだ見ぬ『深度一万メートル』の真実を暴く義務があります」
「そうだったわね。死んでいる暇なんてないわ。……さあ、マジックアームを起動して! あそこの熱水噴出孔の近くにいる『スケーリーフット』を採集するわよ!」
「了解した、艦長! 私の精密な操作で、その硬質な鱗に傷一つ付けずに捕獲してみせよう!」
二人が熱狂的な「オタクの冒険」に没頭していた、ちょうどその頃。
地上……というより、崖の上では。
「ラブカァァァ! 返事をしてくれ、ラブカァァァ!!」
アルベルト王子が、荒れ狂う海に向かって、のどちんこが飛び出しそうな勢いで絶叫していた。
彼の背後には、完全にやる気を失った騎士団と、泥を落として着替えたものの、すっかり不機嫌なミィニャ様が立っている。
「アルベルト様、もう無駄ですわ! あいつ……いえ、ラブカ様は、あの鉄の卵みたいな乗り物で海の底へ沈んでいきましたのよ! もう死んでますわ、きっと!」
「黙れミィニャ! ラブカが死ぬはずがない! あの泡を見てみろ! あれは、僕への『助けて、アルベルト様』というモールス信号に違いないんだ!」
王子が指差す先には、ただの波の花が白く泡立っているだけだった。
側近が恐る恐る口を開く。
「殿下、あれはただの自然現象……いえ、おそらく空気の排出かと。それよりも、このままここにいても、お嬢様は戻ってこられません。一度王都へ戻り、海軍の潜水作業員を招集すべきでは……」
「……海軍だと? フン、あんな潜水鐘しか持たない連中に、ラブカの繊細な心が救えるものか! ……いいだろう。僕は決めたぞ」
王子は、夕日に向かってビシッと指を突き出した。
「僕自らが、潜水服を着て、あの海の底へ殴り込みをかける! カイトという怪人に捕らわれた僕の愛しいラブカを、この腕で抱き上げて、地上へ連れ戻してやるのだ!」
「えええええええっ!? 王子、泳げないのに何を仰ってるんですの!?」
ミィニャ様が叫ぶが、王子の瞳には「悲劇のヒーロー」としての使命感が、メラメラと燃え盛っていた。
「ミィニャ、君は王都で待っていなさい。これは、一人の男としての……元婚約者としての、落とし前だ! ……おい、すぐに王国最高の錬金術師を呼べ! ラブカの持っていた鉄の人形よりも、一万倍豪華で、金ピカの潜水服を造らせるんだ!」
王子の迷走は、ついに「自力潜水」という自殺行為に近い領域へと突入していた。
彼にとっては、ラブカが海に潜ったのは、すべて「自分への執着」であり、救い出されることを待っているという、究極のポジティブ勘違いに基づいていたのである。
一方、水深三千メートル。
「はっ……! 今、何だか猛烈に不快な寒気がしたわ」
私は潜水艇の中で、思わず身震いをした。
「どうしました、ラブカ様? 浸水ですか?」
「いいえ。……なんだか、ものすごく『下俗なもの』が、この聖なる深海を汚そうとしているような予感がしたの。……カイト様、もっと潜りましょう。水深五千メートルまで。雑音の届かない、真の静寂へ!」
「仰せのままに。……さあ、リュウグウ・マークII。さらなる深淵へ、我らを導け!」
潜水艇は、王子の絶叫を切り裂くように、さらに深く、暗く、愛しい闇の中へと吸い込まれていった。
二人のオタクの絆は、水圧が高まれば高まるほど、より強固に、より熱く結ばれていくのであった。
「ええ、ラブカ様。水圧三千トン。この小さな窓の向こうには、地上の誰一人として知らない、永遠の夜が広がっています」
潜水艇『リュウグウ・マークII』の艦内。
外部からの光を遮断したコクピットの中で、私とカイト様は、メーターが示す『3000m』という数字をうっとりと眺めていた。
のぞき窓のすぐ外側では、サーチライトの光を反射して、雪のように白い『マリンスノー』がゆっくりと舞い落ちている。
それは魚の死骸やプランクトンの排泄物が堆積したものだが、今の私には、王都の舞踏会で撒かれる金粉よりも美しく見えた。
「見て、カイト様! あそこ! 巨大な管のような生き物が……。あれは、伝説のクダクラゲかしら!?」
「なんと……! 全長三十メートルはあろうか。あの半透明の触手が、暗闇の中で微かに燐光を放っている。……機能美の極致だ。あの中に包まれて眠ることができたら、どれほど幸せだろうか」
「本当ね。あの中に入れば、きっと王子の小言も、ミィニャ様の嫌味も聞こえない、完璧な安らぎが得られるわ」
私たちは窓に鼻を押し付け、深海の神秘に心を奪われていた。
地上では「悪役令嬢」だの「不気味な女」だの言われ、居場所を失った私。
けれど、この冷たくて重い水の底は、私をありのままに受け入れてくれる。
「カイト様……。もし、この潜水艇の酸素が尽きたら、私たちはこのまま深海の堆積物になれるのかしら」
「ラブカ様、それはロマンチックな提案ですが、私の計算では、この艇はあと七十二時間は潜航可能です。死ぬにはまだ早い。……我々には、まだ見ぬ『深度一万メートル』の真実を暴く義務があります」
「そうだったわね。死んでいる暇なんてないわ。……さあ、マジックアームを起動して! あそこの熱水噴出孔の近くにいる『スケーリーフット』を採集するわよ!」
「了解した、艦長! 私の精密な操作で、その硬質な鱗に傷一つ付けずに捕獲してみせよう!」
二人が熱狂的な「オタクの冒険」に没頭していた、ちょうどその頃。
地上……というより、崖の上では。
「ラブカァァァ! 返事をしてくれ、ラブカァァァ!!」
アルベルト王子が、荒れ狂う海に向かって、のどちんこが飛び出しそうな勢いで絶叫していた。
彼の背後には、完全にやる気を失った騎士団と、泥を落として着替えたものの、すっかり不機嫌なミィニャ様が立っている。
「アルベルト様、もう無駄ですわ! あいつ……いえ、ラブカ様は、あの鉄の卵みたいな乗り物で海の底へ沈んでいきましたのよ! もう死んでますわ、きっと!」
「黙れミィニャ! ラブカが死ぬはずがない! あの泡を見てみろ! あれは、僕への『助けて、アルベルト様』というモールス信号に違いないんだ!」
王子が指差す先には、ただの波の花が白く泡立っているだけだった。
側近が恐る恐る口を開く。
「殿下、あれはただの自然現象……いえ、おそらく空気の排出かと。それよりも、このままここにいても、お嬢様は戻ってこられません。一度王都へ戻り、海軍の潜水作業員を招集すべきでは……」
「……海軍だと? フン、あんな潜水鐘しか持たない連中に、ラブカの繊細な心が救えるものか! ……いいだろう。僕は決めたぞ」
王子は、夕日に向かってビシッと指を突き出した。
「僕自らが、潜水服を着て、あの海の底へ殴り込みをかける! カイトという怪人に捕らわれた僕の愛しいラブカを、この腕で抱き上げて、地上へ連れ戻してやるのだ!」
「えええええええっ!? 王子、泳げないのに何を仰ってるんですの!?」
ミィニャ様が叫ぶが、王子の瞳には「悲劇のヒーロー」としての使命感が、メラメラと燃え盛っていた。
「ミィニャ、君は王都で待っていなさい。これは、一人の男としての……元婚約者としての、落とし前だ! ……おい、すぐに王国最高の錬金術師を呼べ! ラブカの持っていた鉄の人形よりも、一万倍豪華で、金ピカの潜水服を造らせるんだ!」
王子の迷走は、ついに「自力潜水」という自殺行為に近い領域へと突入していた。
彼にとっては、ラブカが海に潜ったのは、すべて「自分への執着」であり、救い出されることを待っているという、究極のポジティブ勘違いに基づいていたのである。
一方、水深三千メートル。
「はっ……! 今、何だか猛烈に不快な寒気がしたわ」
私は潜水艇の中で、思わず身震いをした。
「どうしました、ラブカ様? 浸水ですか?」
「いいえ。……なんだか、ものすごく『下俗なもの』が、この聖なる深海を汚そうとしているような予感がしたの。……カイト様、もっと潜りましょう。水深五千メートルまで。雑音の届かない、真の静寂へ!」
「仰せのままに。……さあ、リュウグウ・マークII。さらなる深淵へ、我らを導け!」
潜水艇は、王子の絶叫を切り裂くように、さらに深く、暗く、愛しい闇の中へと吸い込まれていった。
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