婚約破棄の瞬間に「ラッキー!」と叫んだら、王子の様子がおかしい。

小梅りこ

文字の大きさ
18 / 28

18

しおりを挟む
ミィニャ様が毒入りティーをぶちまけて逃げ出してから、数時間が経過した。

研究所の床はアンナが綺麗に磨き上げ、今は再び穏やかな(魚臭い)空気が戻っている。

しかし、たった一人、この場に居座り続けている不燃ゴミ……もとい、アルベルト王子がいた。

「……ラブカ。さっきの言葉、僕は忘れないよ。君はあえて僕を突き放すことで、僕をあの毒婦ミィニャの魔の手から守ろうとしたんだね」

「…………。カイト様、この方に効く麻酔銃、まだ開発中でしたっけ?」

私は顕微鏡から目を離さず、隣の相棒に問いかけた。

「残念ながら、まだ試作段階です。ですが、大型の深海ザメ用ならありますよ。……一発、いっておきますか?」

カイト様が真顔で、物騒な太い注射器を取り出す。

王子はそれを「照れ隠しの武器」とでも思っているのか、爽やかな笑みで私に一歩近づいた。

「いいんだ。君の愛が深海のように深く、そして激しいことは、先ほどの凛々しい拒絶で十分に伝わった。……さあ、ラブカ。そんな汚れた白衣を脱ぎ捨てて、僕と共に王都へ戻ろう。君の部屋は、すでに金銀財宝で埋め尽くしてあるぞ」

私はついに、ピンセットを置いて椅子を回転させた。

三白眼を最大限に開き、目の前の「理解不能な生物」を真っ向から見据える。

「元殿下。いい加減になさってください。私とあなたの間にあるのは、愛ではなく、決定的な『生存圏の違い』ですのよ」

「生存圏……? ああ、王都とこの辺境のことだね。大丈夫だ、公爵家には特例を認めよう」

「違います。生物学的な話をしているんです」

私は立ち上がり、壁に貼られた深海の階層図を指差した。

「あなたは、光が燦々と降り注ぐ浅瀬で、華やかに泳ぎ回る色鮮やかな熱帯魚。……対して私は、太陽の光さえ届かない暗黒の底で、凄まじい水圧に耐えながら泥を這う深海魚なんですの」

「何を言っているんだ。君は人間だろう?」

「いいえ。魂はすでに深海にあります。……いいですか? 浅瀬の魚が無理をして深海に潜れば、水圧で骨まで粉々になりますわ。逆に、深海の魚が急に海面に引き揚げられれば、気圧の差で内臓が口から飛び出して死ぬんです。……それが、今の私とあなたなんですのよ!」

「……ラブカ。君は、僕と一緒にいると死ぬほど苦しい、と……そう言いたいのかい?」

王子の瞳に、なぜか悲劇のヒーローのような潤みが宿る。

「ええ、そうです! あなたのその無駄に高い自己肯定感と、お花畑な思考回路に触れるたび、私の精神的な浸透圧が限界を迎えて、脳が破裂しそうなんですの!」

「ああ……! 君はそこまで僕のことを想って、心拍数を乱していたんだね!」

「話を聞けぇぇぇ!!」

私の絶叫が研究室に響き渡ったが、王子の特殊な鼓膜には届かない。

横で見ていたカイト様が、静かに溜息をついて前に出た。

「殿下。……失礼ながら、ラブカ様が求めているのは、あなたのような『光』ではありません。彼女が愛しているのは、暗闇の中で自ら発光する強さと、過酷な環境を生き抜く機能美……つまり、私のような男です」

カイト様が、さらりと私の腰に手を回した。

私の心臓が、今日採集したダイオウイカの心臓よりも激しく跳ね上がる。

「な……カイト! 貴様、ついに本性を現したな! ラブカを洗脳し、僕から奪おうという不敬な野心を!」

「不敬? 心外ですな。私はただ、彼女と同じ水深を泳いでいるだけです。……殿下。あなたは彼女を救い出そうとしているが、彼女は救われることなど望んでいない。……彼女は、この暗い海の底を『楽園』と呼ぶ女性(ひと)なのだ」

カイト様の低い声が、王子の独りよがりな幻想を切り裂く。

王子はわなわなと震え、私とカイト様を交互に見た。

「……嘘だ。ラブカ、嘘だと言ってくれ! 君は僕に捨てられて、あんなにガッツポーズをして喜んでいたじゃないか! ……あれは、僕への執着を断ち切るための、決死のパフォーマンスだったんだろう!?」

「いいえ。……あの時は本当に、心から『ラッキー!』って思いましたわ。だって、あなたと結婚したら、私は一生、深海魚の解剖もできないまま、宝石だのドレスだのという無益なものに囲まれて死ぬことになったんですもの」

私は一歩、王子の鼻先に詰め寄った。

「アルベルト王子。……私とあなたの婚約は、すでにこの海の一番深い溝に沈めてきました。……さあ、二度と浮上してこないで。あなたがここにいると、私の大切な魚たちが、あなたのあまりの眩しさに驚いて逃げてしまうんです」

「ラブカ……」

「最後に一つだけ、教えてあげるわ。……あなたがミィニャ様に贈った『人魚の涙』。あれ、本当は養殖貝の失敗作ですわよ。騙されたんですのね、お可哀想に」

「…………っ!!」

王子は絶望の表情を浮かべ、フラフラと後ずさりした。

そして、まるで嵐に打たれた小魚のように、情けない声を上げて研究室から走り去っていった。

「……ラブカァァァ! 僕は諦めないぞ! 君を必ず、光の世界へ連れ戻すからなぁぁぁ!!」

遠ざかっていく王子の叫びを聞きながら、私は深く、深ーい溜息をついた。

「……やっと、行きましたわね。カイト様、助けてくださってありがとう」

「いいえ。……ですが、ラブカ様。先ほど私が言った『彼女と同じ水深を泳いでいる』という言葉……半分は嘘ではありませんよ」

カイト様が、私の耳元で低く囁く。

「……カイト様?」

「私は、あなたとなら、どんなに深い闇の中でも、光を見つけられる気がする。……さあ、邪魔者が消えたところで、潜水艇の改良を続けましょうか。……次こそは、深度一万メートルへ」

カイト様の瞳には、王子のような空虚な光ではなく、深海のように底知れない情熱が宿っていた。

私は顔が熱くなるのを感じながら、力強く頷いた。

「ええ……! 行きましょう、カイト様。私たちの、本当の居場所へ!」

王子の勘違いはまだ続いているようだけれど、私の心はもう、誰にも縛られない。

自由という名の冷たい海。
そこには、私を理解してくれる唯一の騎士と、愛しい魚たちが待っているのだから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

冷遇妃ライフを満喫するはずが、皇帝陛下の溺愛ルートに捕まりました!?

由香
恋愛
冷遇妃として後宮の片隅で静かに暮らすはずだった翠鈴。 皇帝に呼ばれない日々は、むしろ自由で快適——そう思っていたのに。 ある夜、突然現れた皇帝に顎を掴まれ、深く口づけられる。 「誰が、お前を愛していないと言った」 守るための“冷遇”だったと明かされ、逃げ道を塞がれ、甘く囲われ、何度も唇を奪われて——。 これは冷遇妃のはずだった少女が、気づけば皇帝の唯一へと捕獲されてしまう甘く濃密な溺愛物語。

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……

誰でもイイけど、お前は無いわw

猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。 同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。 見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、 「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」 と言われてしまう。

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

嫌われ令嬢ですが、最終的に溺愛される予定です

由香
恋愛
貴族令嬢エマは、自分が周囲から嫌われていると信じて疑わなかった。 婚約者である侯爵令息レオンからも距離を取られ、冷たい視線を向けられている――そう思っていたのに。 ある日、思いがけず聞いてしまった彼の本音。 「君を嫌ったことなど、一度もない」 それは誤解とすれ違いが重なっただけの、両片思いだった。 勘違いから始まる、甘くて優しい溺愛恋物語。

冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎ 王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。 ……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。 追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。 無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」 騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!

冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件

水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。 以後、 寝室は強制統合 常時抱っこ移動 一秒ごとに更新される溺愛 妻を傷つける者には容赦なし宣言 甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。 さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――? 自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。 溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ

処理中です...