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「……深度、九千八百。……九千九百。……カイト様、見て。ついに、その時が来るわ」
潜水艇『リュウグウ・マークIII』の船内は、極限の緊張感に包まれていた。
分厚い強化魔法外装が、水深一万メートルの凄まじい水圧に耐えかねて、ミシミシと悲鳴のような音を立てている。
だが、私とカイト様の目に恐怖の色はなかった。
あるのは、未知の領域に対する狂気にも似た渇望だけだ。
「……一万。……到達しました、ラブカ様。おめでとうございます。我々は今、歴史を塗り替えた」
カイト様が震える手で、私の肩にそっと手を置いた。
のぞき窓の外は、サーチライトの光さえ吸い込まれそうな、濃密で重厚な漆黒。
しかし、その光の届く範囲に、私たちは信じられない光景を目にした。
そこは、泥にまみれた荒野ではなかった。
透明度の高い水の底に、まるで水晶のように輝く白い砂が広がり、そこから見たこともないような巨大な発光植物のような触手が、ゆらゆらと天に向かって伸びている。
「なんて……なんて美しいの。ここが、世界の底……。神様が作り忘れた、最後の聖域だわ」
私は窓に額を押し付け、涙を流した。
王都での婚約破棄、悪役令嬢としての罵倒、騎士団からの追撃。
そんな塵あくたのような出来事が、この静寂の前ではあまりにも無意味に思えた。
「ラブカ様、見てください。……あそこの岩陰に、何か『人工的なもの』が見えます」
カイト様の言葉に、私はハッと目を見開いた。
ライトを向けると、そこには驚くべきことに、石造りの古びた、しかし気密性が保たれているように見える小さな「神殿」のような建物が鎮座していた。
「バカな……。水深一万メートルに建物? 魔法の障壁で守られているみたいだけど、一体誰が……」
私は潜水艇のハッチを開けたい衝動を抑え、マジックアームでその神殿の扉をコンコンと叩いた。
すると、重厚な石の扉がゆっくりと開き、中から一人の人物が姿を現した。
その人物は、白い髭を蓄え、奇妙なデザインの潜水服……というよりは「深海魚の皮を剥いで作ったようなローブ」を纏っていた。
彼は、私たちの潜水艇を見ると、驚く様子もなく、むしろ「ようやく来たか」とでも言いたげに、悠然と手を挙げた。
「……カイト様、あの人、こっちに来るわよ」
「……まさか。この深度で生身に近い状態で動ける人間など、歴史上存在しないはずだ」
老人は潜水艇の窓の前に浮かぶと、口を動かした。
音声伝達魔法が、潜水艇の装甲を突き抜けて私たちの耳に届く。
『……ようこそ、世界の胃袋へ。……私はここで、五十年待ったぞ。ディープシーの血を引く者よ』
「私のことを知っているの? ……あなた、誰なの!?」
私が叫ぶと、老人は少しだけ寂しげに、しかし誇らしげに笑った。
『私は、君の祖父の弟……。かつて王都で「変態魚類学者」として追放された、エドワード・ディープシーだ』
「「……大叔父様!?」」
私とカイト様の声が重なった。
エドワード・ディープシー。
公爵家の家系図から抹消された、伝説の「海に溶けた男」。
まさか、彼がこの極限の世界で生き延びていたなんて。
『地上は相変わらず騒がしいようだな。……王子の婚約破棄、騎士団の追撃。……すべて、この海底の砂の粒ほどの価値もない。……さあ、中へ入りなさい。君たちに、この世界の「本当の主」を見せてあげよう』
エドワード大叔父様が指差す神殿の奥から、まばゆいばかりの金色の光が漏れ出してきた。
それは、アルベルト王子の安っぽい黄金の鎧など比較にならない、生命そのものが放つ崇高な輝きだった。
「……カイト様。行きましょう。私たちの研究は、ここからが本当の始まりだわ」
「ええ、ラブカ様。……どこまでも、あなたと共に」
私たちは、地上のすべてを捨て去る覚悟を決め、神殿の入り口へと潜水艇を寄せた。
その頃、水深五百メートル付近で、ボロボロになった「ゴールデン・アルベルト号」の中に閉じ込められていた王子は。
「……ラブカ……。……僕の……僕の愛の光が……届かないほど……深いのか……?」
彼は、自分の潜水服の金メッキが水圧で剥がれ、ただの鉄屑になっていくのを見つめながら、初めて「自分には届かない世界がある」ということを、生理的な恐怖と共に悟り始めていた。
しかし、その悟りさえも、一万メートルの底にいる私たちにとっては、もうどうでもいい、一粒のマリンスノーに過ぎなかったのである。
潜水艇『リュウグウ・マークIII』の船内は、極限の緊張感に包まれていた。
分厚い強化魔法外装が、水深一万メートルの凄まじい水圧に耐えかねて、ミシミシと悲鳴のような音を立てている。
だが、私とカイト様の目に恐怖の色はなかった。
あるのは、未知の領域に対する狂気にも似た渇望だけだ。
「……一万。……到達しました、ラブカ様。おめでとうございます。我々は今、歴史を塗り替えた」
カイト様が震える手で、私の肩にそっと手を置いた。
のぞき窓の外は、サーチライトの光さえ吸い込まれそうな、濃密で重厚な漆黒。
しかし、その光の届く範囲に、私たちは信じられない光景を目にした。
そこは、泥にまみれた荒野ではなかった。
透明度の高い水の底に、まるで水晶のように輝く白い砂が広がり、そこから見たこともないような巨大な発光植物のような触手が、ゆらゆらと天に向かって伸びている。
「なんて……なんて美しいの。ここが、世界の底……。神様が作り忘れた、最後の聖域だわ」
私は窓に額を押し付け、涙を流した。
王都での婚約破棄、悪役令嬢としての罵倒、騎士団からの追撃。
そんな塵あくたのような出来事が、この静寂の前ではあまりにも無意味に思えた。
「ラブカ様、見てください。……あそこの岩陰に、何か『人工的なもの』が見えます」
カイト様の言葉に、私はハッと目を見開いた。
ライトを向けると、そこには驚くべきことに、石造りの古びた、しかし気密性が保たれているように見える小さな「神殿」のような建物が鎮座していた。
「バカな……。水深一万メートルに建物? 魔法の障壁で守られているみたいだけど、一体誰が……」
私は潜水艇のハッチを開けたい衝動を抑え、マジックアームでその神殿の扉をコンコンと叩いた。
すると、重厚な石の扉がゆっくりと開き、中から一人の人物が姿を現した。
その人物は、白い髭を蓄え、奇妙なデザインの潜水服……というよりは「深海魚の皮を剥いで作ったようなローブ」を纏っていた。
彼は、私たちの潜水艇を見ると、驚く様子もなく、むしろ「ようやく来たか」とでも言いたげに、悠然と手を挙げた。
「……カイト様、あの人、こっちに来るわよ」
「……まさか。この深度で生身に近い状態で動ける人間など、歴史上存在しないはずだ」
老人は潜水艇の窓の前に浮かぶと、口を動かした。
音声伝達魔法が、潜水艇の装甲を突き抜けて私たちの耳に届く。
『……ようこそ、世界の胃袋へ。……私はここで、五十年待ったぞ。ディープシーの血を引く者よ』
「私のことを知っているの? ……あなた、誰なの!?」
私が叫ぶと、老人は少しだけ寂しげに、しかし誇らしげに笑った。
『私は、君の祖父の弟……。かつて王都で「変態魚類学者」として追放された、エドワード・ディープシーだ』
「「……大叔父様!?」」
私とカイト様の声が重なった。
エドワード・ディープシー。
公爵家の家系図から抹消された、伝説の「海に溶けた男」。
まさか、彼がこの極限の世界で生き延びていたなんて。
『地上は相変わらず騒がしいようだな。……王子の婚約破棄、騎士団の追撃。……すべて、この海底の砂の粒ほどの価値もない。……さあ、中へ入りなさい。君たちに、この世界の「本当の主」を見せてあげよう』
エドワード大叔父様が指差す神殿の奥から、まばゆいばかりの金色の光が漏れ出してきた。
それは、アルベルト王子の安っぽい黄金の鎧など比較にならない、生命そのものが放つ崇高な輝きだった。
「……カイト様。行きましょう。私たちの研究は、ここからが本当の始まりだわ」
「ええ、ラブカ様。……どこまでも、あなたと共に」
私たちは、地上のすべてを捨て去る覚悟を決め、神殿の入り口へと潜水艇を寄せた。
その頃、水深五百メートル付近で、ボロボロになった「ゴールデン・アルベルト号」の中に閉じ込められていた王子は。
「……ラブカ……。……僕の……僕の愛の光が……届かないほど……深いのか……?」
彼は、自分の潜水服の金メッキが水圧で剥がれ、ただの鉄屑になっていくのを見つめながら、初めて「自分には届かない世界がある」ということを、生理的な恐怖と共に悟り始めていた。
しかし、その悟りさえも、一万メートルの底にいる私たちにとっては、もうどうでもいい、一粒のマリンスノーに過ぎなかったのである。
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