え、いいんですか?婚約破棄、最高じゃないですか!

小梅りこ

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「……寒っ」


私が目を覚ました時、視界一面は真っ白だった。

ふかふかのベッドも、アーク様の温かい腕もない。

あるのは、吹き荒れる猛吹雪と、氷点下の気温、そして私の目の前に広がる絶望的な雪景色だけだ。


「……やりやがりましたわね、あの筋肉ダルマお義父様」


私はガチガチと歯を鳴らしながら立ち上がった。

現在地、クロウリー領の北にある『魔の山』山頂付近(推定)。

昨夜の宴で泥酔したギガン伯爵が、「伝統行事だ!」と叫んで私を小脇に抱え、そのまま縮地法のような速さでここまで運び去ったのだ。

アーク様が止める間もなかった。

目が覚めたら、置き手紙が一枚。

『嫁よ! 朝日が昇るまで生き延びろ! アークが助けに来たら合格だ! P.S. この辺はイエティが出るから気をつけろ』


「……訴訟。絶対に訴訟です」


私は手紙を握りつぶした。

慰謝料請求額、金貨10万枚。

この極寒の中、薄手のドレス一枚(毛皮のマントは置いていってくれたのがせめてもの慈悲か)で放置するなど、殺人未遂もいいところだ。


「……ふぅ。まずは現状把握と、体温の維持ですね」


私は深呼吸をして、思考をクリアにした。

パニックになってもカロリーを消費するだけだ。

周囲を見渡す。

岩陰がある。風除けにはなりそうだ。

そして、足元には……。


「あら?」


私は雪の中に埋もれている、青白い光を放つ草を見つけた。

ルーペを取り出して観察する。


「これは……『氷晶草(アイスハーブ)』? 王都の薬屋では乾燥状態で一本金貨1枚で取引されている、幻の薬草……?」


あたりを見回す。

ある。

そこにも、あそこにも。

雑草のように群生しているではないか。


「……宝の山」


寒さを忘れた。

私の瞳に「¥」マークが灯る。

ここにある草を全て採取して加工すれば、それだけで城が一つ建つ。


「遭難している場合ではありませんわ。収穫です、収穫!」


私はマントの裾を広げ、一心不乱に薬草をむしり始めた。

寒さ?

金貨の輝き(幻覚)が私を温めてくれる。

労働こそが最高の発熱活動だ。


「グルルルル……」


その時、背後から低い唸り声が聞こえた。

振り返ると、そこには白銀の毛並みを持つ、身長3メートルほどの巨獣が立っていた。

イエティだ。

鋭い牙、太い腕。

通常の人間なら悲鳴を上げて逃げ出す恐怖の象徴。


「……チッ。作業の邪魔ですわね」


私は舌打ちをした。

イエティは「獲物を見つけた」という顔で、大きな手を振り上げる。


「ガァァァァッ!!」


襲いかかってくる巨獣。

私は逃げなかった。

代わりに、懐から「電卓」を取り出し、カチカチと高速で叩きながら、低い声で威圧した。


「……おい」


「!?」


イエティの動きが止まる。


「貴方のその毛皮。……最高級の『ホワイト・シルク・ファー』ですね? 市場価格、一頭分で金貨500枚」


私はイエティの全身を、舐めるような目つきで値踏みした。

解体業者の目だ。


「襲ってくるということは、私に『正当防衛』による『素材回収』の権利を与えるということでよろしいですね? アーク様から借りているこの『守護の蒼玉(イヤリング)』で攻撃を防いだ後、貴方の皮を綺麗に剥いで、冬のコートにして差し上げますわ」


「……グ、グル?」


イエティが後ずさりした。

言葉は通じなくとも、「こいつ、俺を殺して金に変える気だ」という殺気は伝わったらしい。

野生の勘が「逃げろ」と警鐘を鳴らしているのだ。


「待ちなさい」


私は逃げようとするイエティに声をかけた。


「殺されるのが嫌なら、働きなさい」


「ガ?」


私は山盛りの氷晶草を指差した。


「貴方、この山に住んでいるなら、この草の群生地を知っているでしょう? 私のかわりにこれを集めなさい。ノルマはマントがいっぱいになるまで」


「ガ、ガウ……」


「報酬は……そうですね。私が持っているこの『高級ビーフジャーキー(非常食)』を一本あげましょう」


私はポケットから干し肉を取り出し、ひらひらさせた。

イエティの鼻がピクピク動く。

野生動物にとって、塩気のある肉はご馳走だ。


「働くか、コートになるか。……選ばせてあげます」


私はニッコリと、悪魔のような笑みを向けた。


数秒後。

「ワン!」と犬のような鳴き声を上げて、イエティは雪山を掘り始めた。


***


一方その頃。

アーク・フォン・クロウリーは、吹雪の中を鬼の形相で疾走していた。


「……父上め。後で絶対に髭を全部毟ってやる」


彼は剣一振りで、行く手を阻む大岩を粉砕した。

山道には、ギガン伯爵が仕掛けたと思われる罠(落とし穴、転がってくる丸太、飛び出す槍)が満載だった。

それを全て、アークは魔法と剣技でねじ伏せ、最短ルートを駆け上がっていた。


「待っていろ、ロゼリア。……今行く!」


彼の脳裏には、寒さに震え、涙を流して助けを待つ婚約者の姿が浮かんでいた。

あのか細い体で、この極寒に耐えられるはずがない。

もし彼女に何かあれば、父だろうとタダではおかない。

アークの瞳に、宰相としての冷徹さとは違う、激情の炎が宿る。


「邪魔だぁぁぁっ!!」


行く手を阻むスノーウルフの群れを、「氷絶斬」の一撃で氷像に変える。

彼は止まらない。

ただひたすら、頂上を目指して。


そして、空が白み始めた頃。

アークはついに山頂へと到達した。


「ロゼリアーーッ!!」


彼は岩場を飛び越え、視界が開けた場所へと躍り出た。

そこで彼が見たものは。


「……え?」


アークは剣を構えたまま、硬直した。


そこには、焚き火(魔法で着火)にあたりながら、優雅に温かいお茶(雪解け水と薬草で作った)を啜るロゼリアの姿があった。

そして、その周囲には……。

1、2、3……10匹ほどのイエティたちが、せっせと雪を掘り、薬草を集め、ロゼリアの足元に積み上げている光景があった。


「……あ、右のイエティA、掘り方が雑です。根っこを傷つけないように」


「ウオン!」


「左のイエティB、サボらない。ジャーキー減らしますよ」


「クゥーン……」


完全に支配していた。

雪山の王者が、現場監督(ロゼリア)の指示に従う労働者と化していた。


「……アーク様?」


ロゼリアが気づき、手を振った。


「おはようございます。……到着が早かったですね。私の計算では、あと30分はかかると思っていましたが」


「……ロゼリア」


アークは剣を収め、よろよろと近づいた。


「……無事、なのか?」


「ええ。最初は寒かったですが、彼ら(イエティ)が風除けになってくれましたし、運動(労働指導)もしましたので」


ロゼリアは積み上がった薬草の山を指差した。


「見てください。幻の氷晶草、推定300キログラム。市場価格にして金貨5000枚分です。……遭難も悪くありませんね」


「…………」


アークは深く、深く脱力した。

涙を流して震えているロゼリア?

そんなものは幻想だった。

彼女はどこにいても、どんな状況でも、逞しく生き抜き、そして利益を生み出す女だった。


「……ははっ」


アークは乾いた笑いを漏らし、そしてロゼリアを強く抱きしめた。


「きゃっ……冷たいですわ、アーク様」


「うるさい。……心配して損した」


彼の体は、雪と汗で冷え切っていたが、その腕の力強さは本物だった。


「……無事でよかった。本当によかった」


耳元で震える声。

ロゼリアは、アークの背中に手を回し、ポンポンと優しく叩いた。


「……ご心配をおかけしました。でも、私は貴方のパートナーですよ? これくらいで死ぬほど、ヤワな計算はしておりません」


「ああ、そうだな。……君は最強だ」


二人は朝日に照らされながら、イエティたちに見守られて抱き合った。

感動的な再会シーン……のはずだが、周囲に積み上げられた薬草の山と、順番待ちをしているイエティ(ジャーキー待ち)のせいで、どこかシュールな光景となっていた。


***


下山後。

城で待ち構えていたギガン伯爵は、私たちの姿を見て目を剥いた。


「なっ……生きて戻ったか! しかも、その大量の荷物はなんだ!?」


ロゼリアが運ばせてきた薬草の山だ。

イエティたちが「配達ご苦労様」とジャーキーをもらって山へ帰っていく。


「お義父様。ただいま戻りました」


私は髪を払い、ニッコリと微笑んだ。


「素晴らしい『伝統行事』でしたわ。おかげで、我が領地の新しい特産品の開発ルートが確立できました。……イエティたちとも労働契約を結んできましたので、今後は人件費ゼロで採取が可能です」


「は……?」


ギガン伯爵は言葉を失った。

アーク様が横から口を添える。


「そういうことだ、父上。……彼女を山に捨てた結果、山が丸ごと彼女の『支店』になった」


「ば、化け物か……。熊よりタチが悪い……」


「褒め言葉として受け取っておきます」


私は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「さて、お義父様。これは今回の『遭難体験ツアー』の代金請求書です。ガイド料(イエティへの報酬)、深夜労働割増賃金、そして慰謝料。……お支払いいただけますね?」


「……払う。払わせてくれ」


ギガン伯爵は白旗を上げた。

北の破壊神が、金勘定の悪魔に完全敗北した瞬間だった。


「気に入ったぞ、ロゼリア!」


伯爵は一転して、ガハハと笑った。


「お前なら、このクロウリー家を任せられる! アーク、結婚式はいつだ!? 盛大にやるぞ! ドラゴンも呼ぶか!?」


「ドラゴンは呼ばなくていいです。……ロゼリアが『解体して売ろう』と言い出すから」


アーク様が疲れたように言った。


こうして、私は義両親からの「合格」を(物理的かつ経済的に)勝ち取った。

辺境伯領での滞在は、予想以上の収益を生み出し、私たちは大量の引き出物(薬草と魔物素材)を抱えて王都へ戻ることになった。

いよいよ、結婚式本番。

しかし、私が計算していた「完璧な式」には、まだ最後の、そして最大の「計算外」が残されていた。

それは、あの「島流し」になったはずの元王子の、執念深すぎる逆襲だった。
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