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「お嬢様、お嬢様。そろそろお目覚めを。ミハイル様が玄関先で、まるで決闘を申し込む騎士のような悲壮な覚悟で立っておられますよ」
セバスの穏やかな声が、ナターシャの微睡みを心地よく遮った。
ナターシャは「もふもふ絨毯」の海から、カメのようにゆっくりと顔を出した。
「……セバス。私、今、自分が巨大なマカロンになって雲の上を跳ねるという、素晴らしい夢を見ていたの。それを中断させたミハイル様には、それ相応の賠償を請求したいわ」
「賠償と言えるかは分かりませんが、あちらには一通の招待状が。今夜、ご自身の城で晩餐会を開きたいとのことです」
「晩餐会? 却下よ。あそこまで行くのに馬車で三十分。往復一時間。ドレスの着替えに一時間。メイクに一時間。私の人生の三時間が、ただ『食べる』という行為の準備に消えてしまうなんて、許しがたいわ」
ナターシャは再び絨毯に顔を埋めようとしたが、その前に扉が静かに……いや、彼なりに気を使った結果として「控えめに」開かれた。
ミハイルが、少し赤らめた顔で入室してくる。
「ナターシャ嬢。……すまない、休息の邪魔をした。だが、どうしても水路の完成と、領地の経済回復の祝杯を君と上げたかったのだ。我が城の最高の料理人に、君の好物である羊肉と、例のプリンの新作を作らせてある」
ミハイルの言葉に、ナターシャの耳がピクリと動いた。
最高の羊肉。そして新作プリン。
しかし、彼女の「面倒くさい」という本能は、それ以上の重みで彼女を絨毯に縫い付けていた。
「ミハイル様。お誘いは嬉しいのですが……私、もうこの『人をダメにするソファ』の一部になりかけているんですの。ここから私を引き剥がすには、クレーン車か、それ相応の魔法が必要ですわ」
「な……ならば、私が君を抱えて馬車まで運ぼう! 君の指一本動かす必要はない!」
「それも嫌ですわ。揺れるし、第一、ドレスを着るのが苦行ですもの。コルセットで腹部を圧迫しながら食事をするなんて、もはや拷問の一種でしょう? 私は、リラックスした状態で胃袋を最大化したいのです」
ミハイルは困惑したように立ち尽くした。
彼にとって、貴族の晩餐会にドレスを着ないという選択肢は存在しなかった。
「だが、公式の場ではないとはいえ、我が城の家臣たちも君を歓迎しようと待ち構えている。せめて、淑女としての最低限の装いを……」
「……最低限、ですか。ミハイル様、私の『最低限』は、今この格好ですわよ」
ナターシャは、自分が着ているパジャマ同然のゆったりしたシュミーズを指差した。
ミハイルの視線が泳ぎ、顔がさらに赤くなる。
「そ、それは……確かに美しいが、少し……その、刺激が強すぎるというか……」
「もう! 分かりましたわ。そんなにドレスが重要なら、いっそ全裸に毛布でも巻いて行きましょうか? それなら着替えは三秒で終わりますし、食事の際もお腹が苦しくありませんわ。究極の合理的礼装だと思いません?」
ナターシャは、投げやりな冗談のつもりで言い放った。
「そんなわけにいかないだろう」と笑い飛ばされるのを待っていたのだ。
しかし。
ミハイルは、雷に打たれたように目を見開くと、その場に崩れ落ちるように跪いた。
「……っ!! な、なんと……なんという覚悟だ……!」
「……はい?」
「ナターシャ、君は……君という女性は! 外見という虚飾をすべて削ぎ落とし、魂のままで私と向き合おうというのか! 毛布一枚……それは、貴族社会のしがらみや、権力、富、そうした一切を否定し、ただ一人の人間として、食という生命の根源に挑むという宣言……!」
「いえ、ただ着替えるのが面倒なだけで……」
「隠さなくていい! 君のその『全裸に毛布(真理)』という提案は、私の凝り固まった常識を粉砕した! そうだ、なぜ我々は不自由な服を着て、見栄を張り合いながら食事をせねばならんのだ! 君こそが、この世界の欺瞞を暴く哲学者だ!」
ミハイルの瞳には、狂信的なまでの感動の涙が浮かんでいた。
「セバス! 今すぐ、この領で最も柔らかく、最も巨大な羊毛の毛布を用意しろ! ナターシャ嬢がそれを身に纏う時、それは王都のどのドレスよりも神聖な衣となるだろう!」
「かしこまりました。お嬢様、他人の金で最高級の毛布が手に入りますよ」
セバスが涼しい顔で追撃する。
ナターシャは、もはや反論する気力さえ失い、天井を見上げた。
「……ミハイル様。私は冗談で……」
「いや、君の冗談は常に真実を突いている! 分かった、今夜の晩餐は中止だ。私が料理人と酒をすべて、君のこの別荘に運ばせよう! 君がわざわざ毛布姿で外に出る必要はない! 君はただ、そのソファで『毛布の女王』として君臨していればいいんだ!」
「……あら。それなら、いいですわね。移動しなくていいなら大歓迎ですわ」
ナターシャは、ようやく満足げに頷いた。
ミハイルは「最高の判断だ!」と叫びながら、嵐のように準備へと飛び出していった。
その夜。
ナターシャの別荘のリビングには、豪華な銀食器と、山盛りの羊肉、そして新作プリンが並んだ。
ナターシャは、セバスが用意した超高級羊毛毛布にぐるぐると包まれ、芋虫のような姿でソファに横たわっていた。
「……ふふ。最高だわ。毛布の中から手だけを出して、食べ物を口に運ぶ。これぞ人類が到達すべき、食事の最終形態ね」
「お嬢様、そのお姿、ミハイル様には『俗世を捨てた聖女の沈黙』に見えているようですよ」
リビングの隅で、ミハイルは正装のまま(彼はまだ毛布一枚になる勇気はなかったらしい)、ナターシャの食事風景を神聖な儀式でも見るかのように、直立不動で、かつ恍惚とした表情で見守っていた。
「……素晴らしい。一口食べるごとに、彼女の精神が高まっていくのが分かる。あれが、真の自由か……」
ナターシャは、ミハイルの熱い視線など完全に無視して、プリンを喉に流し込んだ。
彼女にとって、世界平和も哲学もどうでもよかった。
ただ、最高級の毛布が暖かく、プリンが美味しい。
それだけで、彼女の戦い(サボり)は、今夜も完全勝利に終わったのである。
セバスの穏やかな声が、ナターシャの微睡みを心地よく遮った。
ナターシャは「もふもふ絨毯」の海から、カメのようにゆっくりと顔を出した。
「……セバス。私、今、自分が巨大なマカロンになって雲の上を跳ねるという、素晴らしい夢を見ていたの。それを中断させたミハイル様には、それ相応の賠償を請求したいわ」
「賠償と言えるかは分かりませんが、あちらには一通の招待状が。今夜、ご自身の城で晩餐会を開きたいとのことです」
「晩餐会? 却下よ。あそこまで行くのに馬車で三十分。往復一時間。ドレスの着替えに一時間。メイクに一時間。私の人生の三時間が、ただ『食べる』という行為の準備に消えてしまうなんて、許しがたいわ」
ナターシャは再び絨毯に顔を埋めようとしたが、その前に扉が静かに……いや、彼なりに気を使った結果として「控えめに」開かれた。
ミハイルが、少し赤らめた顔で入室してくる。
「ナターシャ嬢。……すまない、休息の邪魔をした。だが、どうしても水路の完成と、領地の経済回復の祝杯を君と上げたかったのだ。我が城の最高の料理人に、君の好物である羊肉と、例のプリンの新作を作らせてある」
ミハイルの言葉に、ナターシャの耳がピクリと動いた。
最高の羊肉。そして新作プリン。
しかし、彼女の「面倒くさい」という本能は、それ以上の重みで彼女を絨毯に縫い付けていた。
「ミハイル様。お誘いは嬉しいのですが……私、もうこの『人をダメにするソファ』の一部になりかけているんですの。ここから私を引き剥がすには、クレーン車か、それ相応の魔法が必要ですわ」
「な……ならば、私が君を抱えて馬車まで運ぼう! 君の指一本動かす必要はない!」
「それも嫌ですわ。揺れるし、第一、ドレスを着るのが苦行ですもの。コルセットで腹部を圧迫しながら食事をするなんて、もはや拷問の一種でしょう? 私は、リラックスした状態で胃袋を最大化したいのです」
ミハイルは困惑したように立ち尽くした。
彼にとって、貴族の晩餐会にドレスを着ないという選択肢は存在しなかった。
「だが、公式の場ではないとはいえ、我が城の家臣たちも君を歓迎しようと待ち構えている。せめて、淑女としての最低限の装いを……」
「……最低限、ですか。ミハイル様、私の『最低限』は、今この格好ですわよ」
ナターシャは、自分が着ているパジャマ同然のゆったりしたシュミーズを指差した。
ミハイルの視線が泳ぎ、顔がさらに赤くなる。
「そ、それは……確かに美しいが、少し……その、刺激が強すぎるというか……」
「もう! 分かりましたわ。そんなにドレスが重要なら、いっそ全裸に毛布でも巻いて行きましょうか? それなら着替えは三秒で終わりますし、食事の際もお腹が苦しくありませんわ。究極の合理的礼装だと思いません?」
ナターシャは、投げやりな冗談のつもりで言い放った。
「そんなわけにいかないだろう」と笑い飛ばされるのを待っていたのだ。
しかし。
ミハイルは、雷に打たれたように目を見開くと、その場に崩れ落ちるように跪いた。
「……っ!! な、なんと……なんという覚悟だ……!」
「……はい?」
「ナターシャ、君は……君という女性は! 外見という虚飾をすべて削ぎ落とし、魂のままで私と向き合おうというのか! 毛布一枚……それは、貴族社会のしがらみや、権力、富、そうした一切を否定し、ただ一人の人間として、食という生命の根源に挑むという宣言……!」
「いえ、ただ着替えるのが面倒なだけで……」
「隠さなくていい! 君のその『全裸に毛布(真理)』という提案は、私の凝り固まった常識を粉砕した! そうだ、なぜ我々は不自由な服を着て、見栄を張り合いながら食事をせねばならんのだ! 君こそが、この世界の欺瞞を暴く哲学者だ!」
ミハイルの瞳には、狂信的なまでの感動の涙が浮かんでいた。
「セバス! 今すぐ、この領で最も柔らかく、最も巨大な羊毛の毛布を用意しろ! ナターシャ嬢がそれを身に纏う時、それは王都のどのドレスよりも神聖な衣となるだろう!」
「かしこまりました。お嬢様、他人の金で最高級の毛布が手に入りますよ」
セバスが涼しい顔で追撃する。
ナターシャは、もはや反論する気力さえ失い、天井を見上げた。
「……ミハイル様。私は冗談で……」
「いや、君の冗談は常に真実を突いている! 分かった、今夜の晩餐は中止だ。私が料理人と酒をすべて、君のこの別荘に運ばせよう! 君がわざわざ毛布姿で外に出る必要はない! 君はただ、そのソファで『毛布の女王』として君臨していればいいんだ!」
「……あら。それなら、いいですわね。移動しなくていいなら大歓迎ですわ」
ナターシャは、ようやく満足げに頷いた。
ミハイルは「最高の判断だ!」と叫びながら、嵐のように準備へと飛び出していった。
その夜。
ナターシャの別荘のリビングには、豪華な銀食器と、山盛りの羊肉、そして新作プリンが並んだ。
ナターシャは、セバスが用意した超高級羊毛毛布にぐるぐると包まれ、芋虫のような姿でソファに横たわっていた。
「……ふふ。最高だわ。毛布の中から手だけを出して、食べ物を口に運ぶ。これぞ人類が到達すべき、食事の最終形態ね」
「お嬢様、そのお姿、ミハイル様には『俗世を捨てた聖女の沈黙』に見えているようですよ」
リビングの隅で、ミハイルは正装のまま(彼はまだ毛布一枚になる勇気はなかったらしい)、ナターシャの食事風景を神聖な儀式でも見るかのように、直立不動で、かつ恍惚とした表情で見守っていた。
「……素晴らしい。一口食べるごとに、彼女の精神が高まっていくのが分かる。あれが、真の自由か……」
ナターシャは、ミハイルの熱い視線など完全に無視して、プリンを喉に流し込んだ。
彼女にとって、世界平和も哲学もどうでもよかった。
ただ、最高級の毛布が暖かく、プリンが美味しい。
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