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第一章 華甲二年の再会(前半)
再会のデブ神
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九月の始め。
有嶺は六十才の退職後すべての時間を自分の支配下に入れていた。
定年退職当日まで激しい残業が続いた彼は、何ごとにも縛られず丸一日を想うまま使えることに感動していた。
今や、やりたいことをやる気が出ている間だけやればいい。
それでもボケるのはまだ先だろう。
人並みにつき合いもしたのに退職後は誰からも呼ばれず誰も訪問してこなかったので自動的に隠者になった。
用が無ければ微動だにしない癖が景色に溶け込ませ、人物としての存在感を損ね、小柄でも身軽でもないのに影が薄かった。
しかし本人は老いてもいろいろ空想することが好きで孤独を感じない。
それさえしない時は呆け老人のフリをしてソファで口を開いたまま脱力した。
月が替わっても窓から見える青空と白雲は暑そうで、真夏がいつまでも続くようだった。
そんなある日、明星美矢子から電報のような手紙が来た。
〝一筆啓上、四十年を経つ。火急、重大の件にて御面会を要す。ぜひご足労願わし〟
有嶺は普段、美矢子というかつての高校時代の恋人を全く忘れている。
高校卒業前に別れて数年後に偶然住所が分かり手紙を出したことがあった。
そのとき美矢子の提案で転居通知する程度の文通関係になった。
それから約四十年、数年に一度くらい稀に手紙が来るが内容は事務的なものばかり。
それでも世界のどこかに生きていることが感じられる、赤の他人とは言えない相手だった。
この日の手紙にはまことに珍しいことに内容があった。
何か重要な用件で急ぎ有嶺に会いたいという。
彼の脳裏に突然昔の可愛いかった美矢子が思い出された。
有嶺はしばらく彼女との想い出に耽った。
付き合っていたのは高校三年次の半年間だった。
出会いはおれ(有嶺)が高校三年生の初め頃だった。
▼ ▼ ▼
五月の爽快な風が学校の図書館の閲覧室を通り抜けていた。
本を広げていると、ドタドタドタと新入生女子の不ぞろいな三人組が通りかかった。
皆まだ子供っぽく、真新しい制服が体になじんでいなかった。
読んでいる書名を見た三人組は無邪気にからんできて、無遠慮に叫んだ。
「うわぁ、キチガイの本じゃあ」
一瞬、閲覧室の視線が集まった。
「ほんとじゃ、ほうじゃあ」
「読んどる人は大丈夫かあ?」
その一人は小柄な美矢子だった。
近くの席にいた鯛子がこれを聞いて声を殺して笑い転げた。
鯛子は同級生で、この日はたまたま図書館で一緒になっていた。
三人の娘にそこまで言われたので周りを気にしながら説明し始めた。
「これは書名〝精神病理學總論〟からは想像できないような、壮大な哲学・心理学そして精神医学を体系化した本だ。著者は二十世紀を代表する実存哲学者であり、また……」
説明の途中から娘たちは互いに顔を見合わせ口々に小声で
「てつがく? てつがく?」
やがて再び三人はこちらに向き直り、おれの説明を遮って大きな声で口をそろえて
「てつがくゆうて、なあん?」
周りを見回すと閲覧室の皆がこちらを見ている。
哲学という言葉も知らないのか、ならば解説してやろう。
「哲学というのはねえ……君たちは存在とは何か、考えた事ある?」
「……」
娘たちがポカンとした昆虫に見えてきた。
さっきから可笑しそうにこちらを見ていた鯛子は両手で顔を覆い、肩を震わせて笑っていた。
すぐに昆虫の一匹がまたもや大きな声で
「大丈夫じゃないわい。行こ!」
昆虫たちはドタドタドタと走り去った。
閲覧室に爆笑がはじけた。
去り際に美矢子が振り返って一瞬おれを見てから走り出ようとした。
ドアは閉まっていた。
美矢子は顔からぶつかって弾き返されて倒れた。
再び爆笑がおこった。
鯛子が駆け寄って介抱した。
教室に帰る途中なぜか鯛子がついてきた。
彼女はずっと笑っていた。
図書館は凝った造りの独立した建物で、周りを緑に囲まれていた。
南側の広場との間に噴水のある小さな池と花壇があった。
別の日、美矢子が一人で閲覧室に入ってきた。
おれを見つけると近づいてきたので
「この間ドアにぶつかっていたが、もう大丈夫?」
「うん大丈夫。介抱してくれたあのお姉さんは誰?」
「瀬戸野鯛子と言って、おれの同級生だ。話をしたことが無いのでよく知らない」
ふと姿を消したと思ったら一冊の本を持ってきた。
「これ、どんな本? 教えてよ」
見るとメラー著〝相対性理論〟。
少しめくりながら
「この本を読めば時間空間の常識がひっくり返る刺激的な経験が出来る」
微笑みを湛えた潤いのある大きな眼がじっと見上げていた。
「少し難しいが、そのうち解説してあげようか?」
そして標題の後半部分を指さして
「君はひょっとして、性の理論だと思ったのじゃないか?」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
そのしばらく後のある晴れた午前中、図書館の花壇には早咲きの背の高いグラジオラスの花が咲いていた。
輝くような赤、白、青、ピンクの花々に何となく目を移していたら、おれを見上げる大きな眼に行き当たった。
黒い眼の下には制服の胸が恥じらうように呼吸していた。
たかぶる気分を冷やすように通り抜ける風が初夏の花の香りを運んできた。
「ねえ、教えてくれない?」
そのころから二人の付き合いが始まった。
彼女は方言を使わなくなった。
青春の記憶は夢のように曖昧である。
思い出そうとすれば薄衣の向こうに過ぎ去った時まで意識が戻ったように動き出す。
みずみずしい空気と躍動に満ちていたあのころ、人生に終わりを感じなかったころが甦ってくる。
自分が科学に興味を持つようになったきっかけは中学生の時に見た印象的な夢だった。
爽やかに良く晴れた空中に巨大な時計が浮かんでいて、秒針が朝日を受けて輝きコツコツ廻りながら世界中の隠された秘密を鏡のように映しだしている、という夢だった。
そのころ科学技術によって未来はバラ色になるという記事が多くて誰もがいずれそうなると思っていた。
今思えば視野が狭く論理の飛躍した未来予想だった。
美矢子は物知りだと思っているおれの話をよく聞きたがった。
しかし彼女は知性より明らかに色気が勝っていた。
初夏から初冬にかけての約半年間彼女と会っていろいろな話をした。
色気だけしかないような彼女の好むテーマはなぜか文明の盛衰、時空の構造、魂と心などという堅いものが多かった。
学校の近くに視界の開けた高い丘があった。
人はほとんど来なかった。
美矢子と逢うようになってよくその丘の上に並んで座って彼女と話をした。
その丘には遠くから来る海風が途切れることなく通り抜け、初夏には長い道を登って来た二人の汗を乾かした。
紺のスカートと白の半袖シャツが風に翻ると秘密の乙女の柔肌が露になった。
彼女はまだ恥じらいのない純朴な田舎娘であり、小柄ではあったが運動部に所属していて健康的な肉感があった。
風景の最奥には午後になると逆光気味になって銀色に輝く海があり、世界の果てまで繋がる大海がその尻尾を見せていた。
変わらないこの風景の中で時間とともに二人は少しずつ変容していた。
並んで座り遠くを眺めながら、二人で夢の中にいるような想いで流れてゆく時間を味わった。
夢ならばここで醒めないでほしいと願った。
そもそもは美矢子の方が積極的だった。
その理由はおれが考えてもよく分からない。
まるで前世の縁があったみたいだった。
銀色の海からやってくる初夏の海風に吹かれ、午後の日差しを浴びていた。
初めてこの丘の上に来た彼女は珍しそうにまわりの風景を見回して、立ち上がって両手を広げた。
このときおれは文明の盛衰について話した。
最後に彼女は言った。
「今の文明が将来どうなるか、あなたに聞きたいわ。五十年後、また聞かせてよ」
立ち上がった彼女の頭に太陽が重なり、風に吹かれる髪が光って流れた。
梅雨の中休みのころ、学校にも新緑の木々が香り、湿り気に満ちた穏やかな晴天の下で蝶が舞い散っていた。
ソフトな爽やかさの中で草木は柔らかく膨らみ、小さな水たまりには小さな空が映っていた。
この日は学校で心について話し合っていた。
そして神について彼女は聞いた。
「神様って、いるの?」
「おれには解らない。だが神に似たモノは一つ知っている。それは小説家だ。すべての登場人物に対し神のように振る舞うことが出来る。物理法則も歴史もやりたい放題捻じ曲げる。推理小説だって後から遡って伏線や設定を書き直せばすごいトリックを作るのは簡単だ」
そのとき
「推理小説を書くのかね」
突然後ろから声が掛かった。
夢沢十志夫校長だった。
大物風のスケベ顔に微笑まれた。
話に入ってこられる前に帰った。
お盆の前のある日の午後、相対性理論の話をした。
理論から離れて相対主義と絶対主義の対立などを話し、神と人間の違いの一つだと言ったら彼女は横目でおれを見ながら笑い
「あなたは神になるのよ」
当時は単なる戯言と思っていた。
何十年も経って回想的小説を書いているとき、その言葉を思い出した。
小説に美矢子を登場させると、おれは彼女をカバのようにものすごく太った女、などと神のごとく好き勝手に描いてしまう。
しかし書き進めてゆくと設定に縛られて自由に書けなくなってしまう。
これはこの世を作った神も同じか? などと思い巡らせていると彼女が笑ったような気がした。
相対性理論を〝性の理論〟と読み違えていたという可愛い彼女は言った。
「あのぅ……体の話をしてよ。男の体ってどうなってるの? 夫婦はどんなことしてるの?」
「ちょっと待ってくれ」
しばらく後、真夏に近いころ誰も来ない木陰の涼しい所にいた。
君の言った通り性について話そう、と言うと彼女は手で顔を覆った。
指の間に笑っている大きな眼と白い歯の口元が見えた。
話している途中から彼女は眼を閉じてゆっくり仰向けになった。
その身体が思いがけぬほど刺激的な性的形状になっていることに初めて気づいた。
自分は自制すべきか彼女の心に応えてその体に手を出すべきかひどく迷っていた。
迷った末のこと、突然脳裏に不思議な幻影が広がった。
明らかに異界の美しい風景の中で、目の前に高貴な美少女が裸で横たわっている。
自分はどこかで知っていてその少女に対する騎士道的義務を果たしていない気がして申し訳なさが胸に拡がった。
やがて幻影は消え、おれは性欲を振り切って立ち上がった。
無言で茫然と海を見ていた美矢子の心の内は分からなかった。
秋になり涼しくなったころ丘の上で日没を見ている時、海に沈みゆく太陽が黄金の光を放って周りと彼女の顔を染めた。
一瞬我々は異界にいて向きあっているという不思議な感覚に捕らわれた。
感極まって彼女はおれの首に手を廻した。
見つめ合う彼女と鼻の頭がくっついた。
一雨ごとに季節が進み、天からもたらされる潤いとともに次第に美矢子は大人っぽくなり女性らしさが濃くなってきた。
表情もしぐさも優雅になってきた。
胸の膨らみがはっきり大きくなった。
彼女の瞳を覗けば見返す彼女はしっとりと全身でおれの眼差しを受け止めた。
快晴の秋の運動会の時、競技が全て終わり疲労感と体を撫でてゆくひんやりした空気の中で初めて彼女の体操服姿を見た。
あどけなく笑う彼女の太ももは、はちきれんばかりに膨らみ、ももの突き当たりの奥から成熟したばかりの性の魔境がじっとおれを凝視していた。
寒くなってきたある時彼女は暗い表情で別れを切り出した。
それは難しい大学を目指すおれの受験勉強のためだった。
別れる時は互いに涙を流した。
年が明けて三月、近所の百姓のおセナ婆さんがやってきて合格祝いの品をくれた。
別れた美矢子のことで頭が一杯の自分はうわの空で返答し人のいい高齢の老婆に申し訳なかった。
合格が判ったあと用があって登校した。
強風で舞い上がる砂が時々きらめく中、遠く校舎の端に一人ぽつんと女生徒が後姿を見せて立っていた。
黒髪が吹き流されるにまかせて蕭然と立っている姿はかつてその場所で心や魂について語り合った美矢子のように見え、胸が高鳴ったが結局何もしなかった。
高校最後の日だった。
▲ ▲ ▲
高校で別れてから既に四十年あまり、有嶺には美矢子という人物がどう変貌しているか解らない。
生活苦のため有嶺に金を無心するほど落ちぶれているのか、あと半年の寿命と宣告されて病身を晒す恥を忍んで昔懐かしい有嶺に一目会いたいのか、それとも女子高生時代と同じ輝くような美貌で現れるのか、有嶺を追い越して上流階級の富裕な人間になっているのか。
何の不安もなく年甲斐もなく若者のように踊りはじめた心を抑えかねつつ指定された喫茶店で待った。
そこは大阪梅田地下街で四十年以上前から潰れることなく、有嶺が社会人になった頃既に営業していて今も残るほとんど唯一の喫茶店だった。
店に入ったのは四十年ぶりだろう。
外観、店内の様子とも基本は昔のままで、なつかしかった。
昔から甘いものが名物の店だった。
田舎の高校以来の懐かしい再会になるはずだった。
麗しい美矢子、その思い出に浸っていた時背後から遥か昔よく聞いていた声がした。
「おまたせ、あなた!」
その声を聞いて四十年以上前のなつかしさが一気に噴き出て胸が痛くなり思わず涙が流れた。
期待と恐れの中で振り返るといきなり壁があった。
カバのような巨大女に視界を塞がれていた。
声といい刻限といい目の前のカバが美矢子だ、そう思った時全身の毛が逆立った。
ここはおとぎの国か妖魔の国か。
昔はどちらかと言えば小柄な女の子だったのに。
口が開いたまま思考が停止していた。
美矢子は六十歳近くなり年には勝てず、高校生の頃の美貌が痕跡もないことは仕方がない。
瑞々しい女らしさは鍋底に焦げ付き百年の恋も蒸発した。
有嶺は近視が進み眼鏡をやめてコンタクトレンズにしていた。
眼鏡が無くなって高校時代の姿に戻っていたのだが、背が高すぎて痩せすぎて長いヤモメ生活が外見の輝きを奪い完全にショボクレ老人の仲間に入っていた。
そんな有嶺を見ても美矢子は平然としていたが、有嶺は若い彼女ばかり想像していた。
その変貌に驚きすぎて何しに来たのか忘れてしまった。
見合った瞬間、高校時代とは二人の上下関係が逆転したような気がした。
彼女に勝てるのはひょろ高い身長だけで、体重でも迫力でも怪しさでもはっきり負けていた。
しかし美矢子は喜び、態度は丁寧だった。
「あなた間違いなく哲史さんね! すぐ判ったわ」
「美矢子だね! いやー、驚いた。あ、いや、何でもない」
注文を取りに来た店員に美矢子は
「アイスクリームをひとつ。あ、それから椅子をもう一ついい?」
有嶺が先に取っていた席は二人用だった。
店員は唖然とした。
二人に真顔で見つめられて慌てて持ってきた。
肥満した美矢子は座る時、その巨大な尻を支えるには椅子を二つ並べる必要があった。
「懐かしい。四十年ぶりだな。元気だったかい?」
「ごめんね、時間が無いの」
注文したアイスクリームが運ばれてくると美矢子は無言のまま物凄い速さで掻き込み、最後はアイスクリームグラスをワイングラスのように持ち上げて残りを流し込んで、フーッと息をついた。
可憐さのかけらはどこにも無かった。
呆然と見ている有嶺に用件を切り出した。
早口だった。
まるで作業の依頼のような話しぶりだった。
あまりの変わりぶりに本物か、少し不安を覚えた。
まわりが騒々しかったので額を突き合わせるようにして話し合った。
すると鼻の頭をくっつけながら互いに覗きこんだとき、大きくなった顔の中で小さくなった気がするが潤いのある瞳は紛れもなく昔日の美矢子と同じだった。
「近々公立**総合病院で院長選挙があるんだけど、それを利用して病院を乗っ取ろうと狙っている怪しい外部の組織があるの。それは海外とも繋がりのある大きな闇組織でね。病院内部にも既にその仲間が入り込んでいるの。院長選挙に立候補しそうなのは二人の副院長だけ。そのうち一人はあなたの友人比良野さんで、もう一人は、年は若いが有名な脳外科医の布沢君。彼は隠しているけど外部の怪しい組織の事実上の身内。普段は優しい名医と思われている。真面目でギョロ眼堅物の比良野さんは外見が怖くて不利な上に既に罠が計画されているの。このままではあなたの友人は間違いなく陰謀に嵌るわ。そこで、あなたの協力を得てこの陰謀をはがしてやらなければならない、ということなの」
大きな顔の小さな口が早口でしゃべる話に理解が追いつくのに必死だったが、その内容に驚いた。
こんな平和な日本の片隅の病院のささやかな選挙の裏にそんな巨大で邪悪な組織が蠢いているとは。
「狙いは一人だけ? 巨大な闇組織にしてはターゲットがずいぶんささやかだな。彼らが全力で襲い掛かるなら誰も太刀打ちできないのじゃあないか」
「ある理由で計画はスキだらけ。でも私たちが何もしなければ陰謀は成功し、成功すると今は言えないけど次第に影響が病院を超えて地域を飲み込み甚大になってゆくの。阻止するためにあなたの力が必要なのよ。これは比良野さんの友人である、あなたでないとだめなのよ。お願いできる?」
昔から、おだてられると有嶺はすぐ乗ってしまう癖があった。
退職して暇だし、陰謀はささやかだし、相手は油断して舐めているという。
こんな状況に巻き込まれたことが無かった有嶺は何かワクワクしてきて不思議なくらい恐怖感が無かった。
殺し屋の暗躍する世界を何も知らない有嶺は舐めていた。
「わかった! 比良野は友人だ。おれがどうなろうと助けてやろう!」
それにしても高校時代しか逢っていない美矢子は有嶺と比良野の関係をどこで知ったのだろう。
直接比良野に会ったのだろうか。
しかも美矢子が言ったことは怪しい組織にとって絶対的秘密のインサイダー情報ではないか。
「でも、ちょっと聞きたい。君がなぜそこまで知ったのか、なぜ比良野にそこまで肩入れするのか」
すると美矢子は急に辺りを見回し、明らかにそわそわしはじめて小声で言った。
「実は私、ある所から指示を受けて今怪しい外部組織の中心になっている家に使用人として潜り込んでいるの。他の事はまだ言えない。あ、陰謀はがしの計画は誰にも漏らさないでね。比良野さんにもね」
「陰謀があること自体は彼に警告してもいいか? 君の名前を出してもいいか?」
「いいわよ。でも彼にだけよ。ちょっとだけよ」
今美矢子がどんな生活をしているか、家族はどうか、いつごろからなぜカバになったのか、など聞こうと思った。
「話は変わるが」
言おうとした途端彼女はろくに挨拶もせず逃げるように帰ってしまった。
一方的に言って消えるなんて、これでは有嶺はまるでスパイのザコみたいではないか。
これだけが会う目的だったのか。
だが無理もないかもしれない。
デブにとっては闇組織以上にこの暑さは命がけだ。
結局彼女は金をせびるでもなく、哀れな瀕死の病人でもなく、年に似合わず若く見える美人でもなく、有名人でもない。
女中をしているというから上流階級でもない。
デブだということ以外何者なのかさっぱり見当もつかなかった。
連絡には火急重大とあったが聞いてみれば彼女にとってすべて他人事ではないか。
しかも誰かの指示とは言え彼女一人で巨大な組織に潜り込んで彼らに対抗するなんて、まさか。普通なら敬遠したい。
彼女はどうかしている。
肥満した体の中には謎がいっぱい詰まっていた。
しかしながら、覗き込んだ黒い瞳を思い出すと記憶の彼方に消えていた懐かしい可愛かった美矢子の面影が少しずつ脳裏に甦ってきた。
昔真夏の蝉時雨の中で見た美矢子の瞳の深淵は、誰もいない孤独な有嶺の家に帰って思い浮かべると蝉の声に似た賑やかな耳鳴りの中で黒曜石のような漆黒の瞳となって瞼によみがえった。
古い感情の中に残っていた恋の痕跡は一瞬で消えたとはいえ自分は何かの大きな引け目を感じはじめていた。
あの頃互いに相手は非常に大切な人だったはずだ。
彼女は昔有嶺の受験勉強のために自分を犠牲にしたのではないか、有嶺と別れた精神の危機を彼女は無茶食いで切り抜けたのではないか、すると有嶺が彼女をカバにしてしまったのだ。
醜くなってしまった姿を、かつて好きだった男に見られたくない。
そうか、だから女子大生のとき有嶺が送った手紙への返事に、逢いたくない、と書き送ってきたのだ!
そういう想いに至った時、老いて涙もろくなっていた有嶺は涙が出て止まらなくなった。
とうとう声を上げて泣いた。
これは彼女の依頼に応えなければならない。
魅力的だった美矢子の体も変わった。
彼女の体をどう削れば昔の美形に戻るか……不埒な仮想的想像を止め、いろいろ思い出すにつれ夢のような青春の情景と気分が魔法のようにふわっと甦ってきた。
あるいはひょっとすると遥か昔一瞬思ったように彼女は可愛い女神であって、再び異界から飛来してきたのか。
今回はデブ神になって。
あとで比良野に連絡を取り、院長選挙のことを確かめると美矢子の話と合っていたので彼女を信用することにした。
それを美矢子から聞いたとは言わなかった。
比良野も会社員だったころ有嶺が一度だけ美矢子の名前を出したことがある。
もちろん今の彼は憶えていなかった。
有嶺の質問を比良野は変に感じたか、何か聞き出そうとした。
有嶺は選挙の噂は篤子から聞き、篤子の体型と対照的な美矢子を思い出した、などといって誤魔化した。
有嶺が下手な誤魔化しをしようとしていると判れば比良野はそれ以上詮索しない。
比良野の親友であり美矢子の昔の恋人であるとはいえ、有嶺はスパイの素人だ。
そんな有嶺を工作活動の中心に持ち上げ作戦から実行まで丸投げで任せるなんてどうかしている。
しかも美矢子は敵地にたった一人で潜り込んだ女中だ。
女中一人が雇い主の邪悪な企図をぶっ潰そうというのだ。
ところが有嶺は久しぶりに会えて心が湧き立ち、美矢子に相談を持ち掛けられたことが頼られたように嬉しくてこの不自然さに気付かなかった。
引き受けるとそれなりの覚悟が要ることはわかっているがドラマ中盤で謎の隠者参上、というように心が躍るのを止められなかった。
有嶺は六十才の退職後すべての時間を自分の支配下に入れていた。
定年退職当日まで激しい残業が続いた彼は、何ごとにも縛られず丸一日を想うまま使えることに感動していた。
今や、やりたいことをやる気が出ている間だけやればいい。
それでもボケるのはまだ先だろう。
人並みにつき合いもしたのに退職後は誰からも呼ばれず誰も訪問してこなかったので自動的に隠者になった。
用が無ければ微動だにしない癖が景色に溶け込ませ、人物としての存在感を損ね、小柄でも身軽でもないのに影が薄かった。
しかし本人は老いてもいろいろ空想することが好きで孤独を感じない。
それさえしない時は呆け老人のフリをしてソファで口を開いたまま脱力した。
月が替わっても窓から見える青空と白雲は暑そうで、真夏がいつまでも続くようだった。
そんなある日、明星美矢子から電報のような手紙が来た。
〝一筆啓上、四十年を経つ。火急、重大の件にて御面会を要す。ぜひご足労願わし〟
有嶺は普段、美矢子というかつての高校時代の恋人を全く忘れている。
高校卒業前に別れて数年後に偶然住所が分かり手紙を出したことがあった。
そのとき美矢子の提案で転居通知する程度の文通関係になった。
それから約四十年、数年に一度くらい稀に手紙が来るが内容は事務的なものばかり。
それでも世界のどこかに生きていることが感じられる、赤の他人とは言えない相手だった。
この日の手紙にはまことに珍しいことに内容があった。
何か重要な用件で急ぎ有嶺に会いたいという。
彼の脳裏に突然昔の可愛いかった美矢子が思い出された。
有嶺はしばらく彼女との想い出に耽った。
付き合っていたのは高校三年次の半年間だった。
出会いはおれ(有嶺)が高校三年生の初め頃だった。
▼ ▼ ▼
五月の爽快な風が学校の図書館の閲覧室を通り抜けていた。
本を広げていると、ドタドタドタと新入生女子の不ぞろいな三人組が通りかかった。
皆まだ子供っぽく、真新しい制服が体になじんでいなかった。
読んでいる書名を見た三人組は無邪気にからんできて、無遠慮に叫んだ。
「うわぁ、キチガイの本じゃあ」
一瞬、閲覧室の視線が集まった。
「ほんとじゃ、ほうじゃあ」
「読んどる人は大丈夫かあ?」
その一人は小柄な美矢子だった。
近くの席にいた鯛子がこれを聞いて声を殺して笑い転げた。
鯛子は同級生で、この日はたまたま図書館で一緒になっていた。
三人の娘にそこまで言われたので周りを気にしながら説明し始めた。
「これは書名〝精神病理學總論〟からは想像できないような、壮大な哲学・心理学そして精神医学を体系化した本だ。著者は二十世紀を代表する実存哲学者であり、また……」
説明の途中から娘たちは互いに顔を見合わせ口々に小声で
「てつがく? てつがく?」
やがて再び三人はこちらに向き直り、おれの説明を遮って大きな声で口をそろえて
「てつがくゆうて、なあん?」
周りを見回すと閲覧室の皆がこちらを見ている。
哲学という言葉も知らないのか、ならば解説してやろう。
「哲学というのはねえ……君たちは存在とは何か、考えた事ある?」
「……」
娘たちがポカンとした昆虫に見えてきた。
さっきから可笑しそうにこちらを見ていた鯛子は両手で顔を覆い、肩を震わせて笑っていた。
すぐに昆虫の一匹がまたもや大きな声で
「大丈夫じゃないわい。行こ!」
昆虫たちはドタドタドタと走り去った。
閲覧室に爆笑がはじけた。
去り際に美矢子が振り返って一瞬おれを見てから走り出ようとした。
ドアは閉まっていた。
美矢子は顔からぶつかって弾き返されて倒れた。
再び爆笑がおこった。
鯛子が駆け寄って介抱した。
教室に帰る途中なぜか鯛子がついてきた。
彼女はずっと笑っていた。
図書館は凝った造りの独立した建物で、周りを緑に囲まれていた。
南側の広場との間に噴水のある小さな池と花壇があった。
別の日、美矢子が一人で閲覧室に入ってきた。
おれを見つけると近づいてきたので
「この間ドアにぶつかっていたが、もう大丈夫?」
「うん大丈夫。介抱してくれたあのお姉さんは誰?」
「瀬戸野鯛子と言って、おれの同級生だ。話をしたことが無いのでよく知らない」
ふと姿を消したと思ったら一冊の本を持ってきた。
「これ、どんな本? 教えてよ」
見るとメラー著〝相対性理論〟。
少しめくりながら
「この本を読めば時間空間の常識がひっくり返る刺激的な経験が出来る」
微笑みを湛えた潤いのある大きな眼がじっと見上げていた。
「少し難しいが、そのうち解説してあげようか?」
そして標題の後半部分を指さして
「君はひょっとして、性の理論だと思ったのじゃないか?」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
そのしばらく後のある晴れた午前中、図書館の花壇には早咲きの背の高いグラジオラスの花が咲いていた。
輝くような赤、白、青、ピンクの花々に何となく目を移していたら、おれを見上げる大きな眼に行き当たった。
黒い眼の下には制服の胸が恥じらうように呼吸していた。
たかぶる気分を冷やすように通り抜ける風が初夏の花の香りを運んできた。
「ねえ、教えてくれない?」
そのころから二人の付き合いが始まった。
彼女は方言を使わなくなった。
青春の記憶は夢のように曖昧である。
思い出そうとすれば薄衣の向こうに過ぎ去った時まで意識が戻ったように動き出す。
みずみずしい空気と躍動に満ちていたあのころ、人生に終わりを感じなかったころが甦ってくる。
自分が科学に興味を持つようになったきっかけは中学生の時に見た印象的な夢だった。
爽やかに良く晴れた空中に巨大な時計が浮かんでいて、秒針が朝日を受けて輝きコツコツ廻りながら世界中の隠された秘密を鏡のように映しだしている、という夢だった。
そのころ科学技術によって未来はバラ色になるという記事が多くて誰もがいずれそうなると思っていた。
今思えば視野が狭く論理の飛躍した未来予想だった。
美矢子は物知りだと思っているおれの話をよく聞きたがった。
しかし彼女は知性より明らかに色気が勝っていた。
初夏から初冬にかけての約半年間彼女と会っていろいろな話をした。
色気だけしかないような彼女の好むテーマはなぜか文明の盛衰、時空の構造、魂と心などという堅いものが多かった。
学校の近くに視界の開けた高い丘があった。
人はほとんど来なかった。
美矢子と逢うようになってよくその丘の上に並んで座って彼女と話をした。
その丘には遠くから来る海風が途切れることなく通り抜け、初夏には長い道を登って来た二人の汗を乾かした。
紺のスカートと白の半袖シャツが風に翻ると秘密の乙女の柔肌が露になった。
彼女はまだ恥じらいのない純朴な田舎娘であり、小柄ではあったが運動部に所属していて健康的な肉感があった。
風景の最奥には午後になると逆光気味になって銀色に輝く海があり、世界の果てまで繋がる大海がその尻尾を見せていた。
変わらないこの風景の中で時間とともに二人は少しずつ変容していた。
並んで座り遠くを眺めながら、二人で夢の中にいるような想いで流れてゆく時間を味わった。
夢ならばここで醒めないでほしいと願った。
そもそもは美矢子の方が積極的だった。
その理由はおれが考えてもよく分からない。
まるで前世の縁があったみたいだった。
銀色の海からやってくる初夏の海風に吹かれ、午後の日差しを浴びていた。
初めてこの丘の上に来た彼女は珍しそうにまわりの風景を見回して、立ち上がって両手を広げた。
このときおれは文明の盛衰について話した。
最後に彼女は言った。
「今の文明が将来どうなるか、あなたに聞きたいわ。五十年後、また聞かせてよ」
立ち上がった彼女の頭に太陽が重なり、風に吹かれる髪が光って流れた。
梅雨の中休みのころ、学校にも新緑の木々が香り、湿り気に満ちた穏やかな晴天の下で蝶が舞い散っていた。
ソフトな爽やかさの中で草木は柔らかく膨らみ、小さな水たまりには小さな空が映っていた。
この日は学校で心について話し合っていた。
そして神について彼女は聞いた。
「神様って、いるの?」
「おれには解らない。だが神に似たモノは一つ知っている。それは小説家だ。すべての登場人物に対し神のように振る舞うことが出来る。物理法則も歴史もやりたい放題捻じ曲げる。推理小説だって後から遡って伏線や設定を書き直せばすごいトリックを作るのは簡単だ」
そのとき
「推理小説を書くのかね」
突然後ろから声が掛かった。
夢沢十志夫校長だった。
大物風のスケベ顔に微笑まれた。
話に入ってこられる前に帰った。
お盆の前のある日の午後、相対性理論の話をした。
理論から離れて相対主義と絶対主義の対立などを話し、神と人間の違いの一つだと言ったら彼女は横目でおれを見ながら笑い
「あなたは神になるのよ」
当時は単なる戯言と思っていた。
何十年も経って回想的小説を書いているとき、その言葉を思い出した。
小説に美矢子を登場させると、おれは彼女をカバのようにものすごく太った女、などと神のごとく好き勝手に描いてしまう。
しかし書き進めてゆくと設定に縛られて自由に書けなくなってしまう。
これはこの世を作った神も同じか? などと思い巡らせていると彼女が笑ったような気がした。
相対性理論を〝性の理論〟と読み違えていたという可愛い彼女は言った。
「あのぅ……体の話をしてよ。男の体ってどうなってるの? 夫婦はどんなことしてるの?」
「ちょっと待ってくれ」
しばらく後、真夏に近いころ誰も来ない木陰の涼しい所にいた。
君の言った通り性について話そう、と言うと彼女は手で顔を覆った。
指の間に笑っている大きな眼と白い歯の口元が見えた。
話している途中から彼女は眼を閉じてゆっくり仰向けになった。
その身体が思いがけぬほど刺激的な性的形状になっていることに初めて気づいた。
自分は自制すべきか彼女の心に応えてその体に手を出すべきかひどく迷っていた。
迷った末のこと、突然脳裏に不思議な幻影が広がった。
明らかに異界の美しい風景の中で、目の前に高貴な美少女が裸で横たわっている。
自分はどこかで知っていてその少女に対する騎士道的義務を果たしていない気がして申し訳なさが胸に拡がった。
やがて幻影は消え、おれは性欲を振り切って立ち上がった。
無言で茫然と海を見ていた美矢子の心の内は分からなかった。
秋になり涼しくなったころ丘の上で日没を見ている時、海に沈みゆく太陽が黄金の光を放って周りと彼女の顔を染めた。
一瞬我々は異界にいて向きあっているという不思議な感覚に捕らわれた。
感極まって彼女はおれの首に手を廻した。
見つめ合う彼女と鼻の頭がくっついた。
一雨ごとに季節が進み、天からもたらされる潤いとともに次第に美矢子は大人っぽくなり女性らしさが濃くなってきた。
表情もしぐさも優雅になってきた。
胸の膨らみがはっきり大きくなった。
彼女の瞳を覗けば見返す彼女はしっとりと全身でおれの眼差しを受け止めた。
快晴の秋の運動会の時、競技が全て終わり疲労感と体を撫でてゆくひんやりした空気の中で初めて彼女の体操服姿を見た。
あどけなく笑う彼女の太ももは、はちきれんばかりに膨らみ、ももの突き当たりの奥から成熟したばかりの性の魔境がじっとおれを凝視していた。
寒くなってきたある時彼女は暗い表情で別れを切り出した。
それは難しい大学を目指すおれの受験勉強のためだった。
別れる時は互いに涙を流した。
年が明けて三月、近所の百姓のおセナ婆さんがやってきて合格祝いの品をくれた。
別れた美矢子のことで頭が一杯の自分はうわの空で返答し人のいい高齢の老婆に申し訳なかった。
合格が判ったあと用があって登校した。
強風で舞い上がる砂が時々きらめく中、遠く校舎の端に一人ぽつんと女生徒が後姿を見せて立っていた。
黒髪が吹き流されるにまかせて蕭然と立っている姿はかつてその場所で心や魂について語り合った美矢子のように見え、胸が高鳴ったが結局何もしなかった。
高校最後の日だった。
▲ ▲ ▲
高校で別れてから既に四十年あまり、有嶺には美矢子という人物がどう変貌しているか解らない。
生活苦のため有嶺に金を無心するほど落ちぶれているのか、あと半年の寿命と宣告されて病身を晒す恥を忍んで昔懐かしい有嶺に一目会いたいのか、それとも女子高生時代と同じ輝くような美貌で現れるのか、有嶺を追い越して上流階級の富裕な人間になっているのか。
何の不安もなく年甲斐もなく若者のように踊りはじめた心を抑えかねつつ指定された喫茶店で待った。
そこは大阪梅田地下街で四十年以上前から潰れることなく、有嶺が社会人になった頃既に営業していて今も残るほとんど唯一の喫茶店だった。
店に入ったのは四十年ぶりだろう。
外観、店内の様子とも基本は昔のままで、なつかしかった。
昔から甘いものが名物の店だった。
田舎の高校以来の懐かしい再会になるはずだった。
麗しい美矢子、その思い出に浸っていた時背後から遥か昔よく聞いていた声がした。
「おまたせ、あなた!」
その声を聞いて四十年以上前のなつかしさが一気に噴き出て胸が痛くなり思わず涙が流れた。
期待と恐れの中で振り返るといきなり壁があった。
カバのような巨大女に視界を塞がれていた。
声といい刻限といい目の前のカバが美矢子だ、そう思った時全身の毛が逆立った。
ここはおとぎの国か妖魔の国か。
昔はどちらかと言えば小柄な女の子だったのに。
口が開いたまま思考が停止していた。
美矢子は六十歳近くなり年には勝てず、高校生の頃の美貌が痕跡もないことは仕方がない。
瑞々しい女らしさは鍋底に焦げ付き百年の恋も蒸発した。
有嶺は近視が進み眼鏡をやめてコンタクトレンズにしていた。
眼鏡が無くなって高校時代の姿に戻っていたのだが、背が高すぎて痩せすぎて長いヤモメ生活が外見の輝きを奪い完全にショボクレ老人の仲間に入っていた。
そんな有嶺を見ても美矢子は平然としていたが、有嶺は若い彼女ばかり想像していた。
その変貌に驚きすぎて何しに来たのか忘れてしまった。
見合った瞬間、高校時代とは二人の上下関係が逆転したような気がした。
彼女に勝てるのはひょろ高い身長だけで、体重でも迫力でも怪しさでもはっきり負けていた。
しかし美矢子は喜び、態度は丁寧だった。
「あなた間違いなく哲史さんね! すぐ判ったわ」
「美矢子だね! いやー、驚いた。あ、いや、何でもない」
注文を取りに来た店員に美矢子は
「アイスクリームをひとつ。あ、それから椅子をもう一ついい?」
有嶺が先に取っていた席は二人用だった。
店員は唖然とした。
二人に真顔で見つめられて慌てて持ってきた。
肥満した美矢子は座る時、その巨大な尻を支えるには椅子を二つ並べる必要があった。
「懐かしい。四十年ぶりだな。元気だったかい?」
「ごめんね、時間が無いの」
注文したアイスクリームが運ばれてくると美矢子は無言のまま物凄い速さで掻き込み、最後はアイスクリームグラスをワイングラスのように持ち上げて残りを流し込んで、フーッと息をついた。
可憐さのかけらはどこにも無かった。
呆然と見ている有嶺に用件を切り出した。
早口だった。
まるで作業の依頼のような話しぶりだった。
あまりの変わりぶりに本物か、少し不安を覚えた。
まわりが騒々しかったので額を突き合わせるようにして話し合った。
すると鼻の頭をくっつけながら互いに覗きこんだとき、大きくなった顔の中で小さくなった気がするが潤いのある瞳は紛れもなく昔日の美矢子と同じだった。
「近々公立**総合病院で院長選挙があるんだけど、それを利用して病院を乗っ取ろうと狙っている怪しい外部の組織があるの。それは海外とも繋がりのある大きな闇組織でね。病院内部にも既にその仲間が入り込んでいるの。院長選挙に立候補しそうなのは二人の副院長だけ。そのうち一人はあなたの友人比良野さんで、もう一人は、年は若いが有名な脳外科医の布沢君。彼は隠しているけど外部の怪しい組織の事実上の身内。普段は優しい名医と思われている。真面目でギョロ眼堅物の比良野さんは外見が怖くて不利な上に既に罠が計画されているの。このままではあなたの友人は間違いなく陰謀に嵌るわ。そこで、あなたの協力を得てこの陰謀をはがしてやらなければならない、ということなの」
大きな顔の小さな口が早口でしゃべる話に理解が追いつくのに必死だったが、その内容に驚いた。
こんな平和な日本の片隅の病院のささやかな選挙の裏にそんな巨大で邪悪な組織が蠢いているとは。
「狙いは一人だけ? 巨大な闇組織にしてはターゲットがずいぶんささやかだな。彼らが全力で襲い掛かるなら誰も太刀打ちできないのじゃあないか」
「ある理由で計画はスキだらけ。でも私たちが何もしなければ陰謀は成功し、成功すると今は言えないけど次第に影響が病院を超えて地域を飲み込み甚大になってゆくの。阻止するためにあなたの力が必要なのよ。これは比良野さんの友人である、あなたでないとだめなのよ。お願いできる?」
昔から、おだてられると有嶺はすぐ乗ってしまう癖があった。
退職して暇だし、陰謀はささやかだし、相手は油断して舐めているという。
こんな状況に巻き込まれたことが無かった有嶺は何かワクワクしてきて不思議なくらい恐怖感が無かった。
殺し屋の暗躍する世界を何も知らない有嶺は舐めていた。
「わかった! 比良野は友人だ。おれがどうなろうと助けてやろう!」
それにしても高校時代しか逢っていない美矢子は有嶺と比良野の関係をどこで知ったのだろう。
直接比良野に会ったのだろうか。
しかも美矢子が言ったことは怪しい組織にとって絶対的秘密のインサイダー情報ではないか。
「でも、ちょっと聞きたい。君がなぜそこまで知ったのか、なぜ比良野にそこまで肩入れするのか」
すると美矢子は急に辺りを見回し、明らかにそわそわしはじめて小声で言った。
「実は私、ある所から指示を受けて今怪しい外部組織の中心になっている家に使用人として潜り込んでいるの。他の事はまだ言えない。あ、陰謀はがしの計画は誰にも漏らさないでね。比良野さんにもね」
「陰謀があること自体は彼に警告してもいいか? 君の名前を出してもいいか?」
「いいわよ。でも彼にだけよ。ちょっとだけよ」
今美矢子がどんな生活をしているか、家族はどうか、いつごろからなぜカバになったのか、など聞こうと思った。
「話は変わるが」
言おうとした途端彼女はろくに挨拶もせず逃げるように帰ってしまった。
一方的に言って消えるなんて、これでは有嶺はまるでスパイのザコみたいではないか。
これだけが会う目的だったのか。
だが無理もないかもしれない。
デブにとっては闇組織以上にこの暑さは命がけだ。
結局彼女は金をせびるでもなく、哀れな瀕死の病人でもなく、年に似合わず若く見える美人でもなく、有名人でもない。
女中をしているというから上流階級でもない。
デブだということ以外何者なのかさっぱり見当もつかなかった。
連絡には火急重大とあったが聞いてみれば彼女にとってすべて他人事ではないか。
しかも誰かの指示とは言え彼女一人で巨大な組織に潜り込んで彼らに対抗するなんて、まさか。普通なら敬遠したい。
彼女はどうかしている。
肥満した体の中には謎がいっぱい詰まっていた。
しかしながら、覗き込んだ黒い瞳を思い出すと記憶の彼方に消えていた懐かしい可愛かった美矢子の面影が少しずつ脳裏に甦ってきた。
昔真夏の蝉時雨の中で見た美矢子の瞳の深淵は、誰もいない孤独な有嶺の家に帰って思い浮かべると蝉の声に似た賑やかな耳鳴りの中で黒曜石のような漆黒の瞳となって瞼によみがえった。
古い感情の中に残っていた恋の痕跡は一瞬で消えたとはいえ自分は何かの大きな引け目を感じはじめていた。
あの頃互いに相手は非常に大切な人だったはずだ。
彼女は昔有嶺の受験勉強のために自分を犠牲にしたのではないか、有嶺と別れた精神の危機を彼女は無茶食いで切り抜けたのではないか、すると有嶺が彼女をカバにしてしまったのだ。
醜くなってしまった姿を、かつて好きだった男に見られたくない。
そうか、だから女子大生のとき有嶺が送った手紙への返事に、逢いたくない、と書き送ってきたのだ!
そういう想いに至った時、老いて涙もろくなっていた有嶺は涙が出て止まらなくなった。
とうとう声を上げて泣いた。
これは彼女の依頼に応えなければならない。
魅力的だった美矢子の体も変わった。
彼女の体をどう削れば昔の美形に戻るか……不埒な仮想的想像を止め、いろいろ思い出すにつれ夢のような青春の情景と気分が魔法のようにふわっと甦ってきた。
あるいはひょっとすると遥か昔一瞬思ったように彼女は可愛い女神であって、再び異界から飛来してきたのか。
今回はデブ神になって。
あとで比良野に連絡を取り、院長選挙のことを確かめると美矢子の話と合っていたので彼女を信用することにした。
それを美矢子から聞いたとは言わなかった。
比良野も会社員だったころ有嶺が一度だけ美矢子の名前を出したことがある。
もちろん今の彼は憶えていなかった。
有嶺の質問を比良野は変に感じたか、何か聞き出そうとした。
有嶺は選挙の噂は篤子から聞き、篤子の体型と対照的な美矢子を思い出した、などといって誤魔化した。
有嶺が下手な誤魔化しをしようとしていると判れば比良野はそれ以上詮索しない。
比良野の親友であり美矢子の昔の恋人であるとはいえ、有嶺はスパイの素人だ。
そんな有嶺を工作活動の中心に持ち上げ作戦から実行まで丸投げで任せるなんてどうかしている。
しかも美矢子は敵地にたった一人で潜り込んだ女中だ。
女中一人が雇い主の邪悪な企図をぶっ潰そうというのだ。
ところが有嶺は久しぶりに会えて心が湧き立ち、美矢子に相談を持ち掛けられたことが頼られたように嬉しくてこの不自然さに気付かなかった。
引き受けるとそれなりの覚悟が要ることはわかっているがドラマ中盤で謎の隠者参上、というように心が躍るのを止められなかった。
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