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第一章 華甲二年の再会(前半)
再会の診察
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十月の始め、猛暑がやっと終わった。
比良野の副院長室の窓から入ってくる秋の風は八分の爽快さと二分のそこはかとない憂いをもたらした。
金木犀の薫りを微かに含む風は去り行く季節とともに過ぎ去った日々の追憶と哀惜を誘い出した。
昼休み、副院長室の窓から見える広い芝生は息を吹き返し、池と小さな噴水の向こうに遠く青い山々がくっきり見えていた。
広い庭は病院開設当初に潰された布沢副院長のユニークな診療棟計画の夢の跡だった。
久しぶりの快適な空気に含まれる、この季節の野山の香りに誘われて多数の入院患者とその家族などが庭に出て思い思いの秋の到来を味わっていた。
比良野副院長の目が止まった。
そこに和服の白髪の老女がひとり向こうの山の方を見ながらじっと立っていた。
全く動かない老女が少し気になった。
比良野は消化器内科医である。
今日の午後は比良野が外来担当だ。
いつものように次の患者を案内すると、入ってきたのは六十才の和服姿の女性紹介患者だった。
表情も動きも乏しかったがよく見ると顔の部品は見事なバランスでまとまっていた。
しかし人を拒絶するかのように細く開いた眼は鋭く、唇は薄く引き締まり、眉毛は高く伸びて威厳があった。
年相応のたるみと皴はあった。
和装で凛とした姿は妙な殺気を含み、居るだけであたりの雰囲気を変えた。
待合にいたとき外来患者たちが何者かと訝って見ていた。
さっき庭で遠くの山を凝視していた老婦人だった。
紹介状は、大腸内視鏡検査(CFあるいはCS)の依頼だった。
比良野はそれを得意としている。
いつものように可能性のあるいくつかの病気と検査の内容、検査の必要性とリスクと安全性の説明、検査日の前日からの準備等の概要を話した。
このころの電子カルテは他の情報と密接に繋がっておらず、ただ紙が電子化しただけのものだった。
電子カルテから目を離し振り向いて何か御質問は、と聞いた。
するといつの間にか彼女の表情は別人のように変わっていた。
目が大きく見開かれ、吊り上っていた眉はやさしく緩み、唇は緊張が取れて柔らかく厚みを増し、いかつい威厳はすっかり消えて若々しくなっていた。
その瓜実顔に浮かぶ微笑は古い友人に再会した喜びを表していた。
この時初めて比良野はどこかで見た気がした。
彼女は丁重に言った。
「失礼ながらつかぬことをお尋ねいたしますが、先生は〇〇〇でお勤めなされたことはございませんか」
「〇〇〇というと、遥か昔……するとあなたも〇〇〇で?!」
言うと同時に比良野は両手で天を突くように立ち上がった。
不意打ちの質問を喰らったときに阿波踊りの格好をするのは比良野の癖だ。
それを憶えていた老女も立ち上がって手を挙げてニコニコしていた。
場違いな質問だが比良野自身もさっきから何となく気になっていたことの核心だった。
彼は社会人になって初めの数年間〇〇〇で働いていた。
しかし目の前の女性のことは憶えていない。
それでも会社の名を聞いた瞬間、ふわっと仲間感覚が拡がった。
四十年前だ。
女性は元社員だという。
思い出そうとして比良野は腕を組んで床を睨んだり天井を睨んだりして唸った。
その前で同じように腕を組んでクスッと笑って下から見上げるように眼を丸くしてにこにこする様子はまるで若いOLだ。
彼が入社してすぐのころの色々なイベント、社員旅行などの記憶も探ってみたが、その中にこの女性の姿はなかった。
はて、何者だろう。
先輩なのか後輩なのか。
椅子に戻った。
老女も座った。
カルテの名前をよく見返してやっと思い出した。
意外な人だった。
彼女の若い時は、一目見ればだれもが一生忘れないと思うほどの美人だった。
しかし比良野はここまですっかり忘れていた。
座席はすぐ隣で、約一年間あまり毎日顔を合わせていたのに四十年という歳月はバカにならなかった。
若い時とはずいぶん変わっていた。
カルテの名は〝雪峰弓美子〟、聞いたことの無い姓だった。
下の名の弓美子で記憶を探った時、〝百合矢弓美子〟だったことを思い出した。
世紀の美女が退職したのにその後会社では弓美子が全く話題にならなかった。
「百合矢さんでしたか?」
「はい。思い出していただいて嬉しいわ」
女性のなつかしそうな満面の笑みは彼女の心の底を生気で満たし、若々しく見えてきた。
昔初めて出会った時のように比良野は吸い込まれる感じがした。
比良野の心の混乱が治まるまで呆然として数秒過ぎた。
社会人になってからの記憶の最古層からはっきりと彼女の顔が甦ってくるかと思いきや、西洋人モデルのようだった若い時の顔は混乱し朦朧としてきた。
目の前の顔は角の取れた和風美人だった。
最初に思い出したエピソードは、新入社員の頃にデパートの閉店時間を彼女に聞いたのが彼女との初めての会話だった。
彼女は近くのいろいろなデパートの休業日も含めて即座に返答してくれて、そのときは頭の回転の速さだと思って驚いた。
ところが実際に行ってみるとちぐはぐで、あれっと思ったことを思い出した。
その思い出を笑いながら言うと老女はきまり悪そうに言った。
「あら、そんなこともありましたの? 私は昔から脳がたりなくて……ごめんなさいね」
しゃべり方、声まで聞き覚えのある若い声になっていた。
眼前の老女がこの年まで比良野を憶えていたのはなぜだろう? 比良野はずっと忘れていて、彼女はさっきの窓辺の追憶にも当然のように出てこなかった。
「よく私を憶えておいででしたねえ」
「はーい。あなたのことを忘れるものですか」
自ら脳がたりないなんて変なことを言う女性は何か必死だったのかもしれない。
ともかく雰囲気が和んだので、
「いやぁ驚きました。先輩でしたよね。おなつかしい、お元気でしたか。痛くも苦しくもないようにしますよ。私の得意分野なんでね。きっちり検査・処置させていただきます」
懐かしい話しをしようと思ったのに途中から医者に戻っていた。
相手も見ず一気にしゃべった。
というより口が勝手にしゃべっていた。
一方、場に慣れてきた老女は口が回りはじめ、言いたい事が言えるようになってきた。
「先生がやってくださるのね! 約束ですよ。他の人に私の体の中を覗かれるなんて嫌ですよ」
「ご心配なく。私がやります」
この病院では最初に外来診療をした医師自身がその後も処置や再診を続けるのが普通だった。
比良野は当たり前のことを返答しただけと思った。
麻酔を使うかどうか希望を聞くため彼女を見るとさっきまでの眼瞼下垂が取れて二十すぎのOLのように大きくぱっちり開くようになった眼で比良野の顔をしっとりと見つめてしおらしく〝要らない〟と言い、さらにまるで恋人に言うように〝あなた〟と言い始めた。
「余計な人のいない所であなたにじかに触られながら話をしたいの」
「はい?」
診察中である堅物医師は彼女の言葉の意味が判らなかった。
麻酔しないなら麻酔医はいらない、比良野ほどの医師なら機械の技師も立ち会う必要がない、すると医者と補助ナースだけになる。
昔は麻酔を使わなかったので患者と医師が同じモニターを見ながら説明を聞いたりした。
術者にもよるが内視鏡が大腸の曲がっている所を通過するときにひっかかると腹壁が引っ張られて猛烈に痛む。
同じ場所でも比良野がやると痛まないので名人と言われた。
ちなみに近頃は麻酔を使うことが増えたのでどの医師がやっても痛みは感じない。
再び書類に眼を落した比良野は検査項目のある数値を見て考え始めた。
そのころになって老女が小声で言い始めた呪文のような独り言を殆ど聞いていなかった。
比良野は顔を上げ
「えっ、何かおっしゃいましたか?」
老女は即座にすました顔に戻り
「すみません。聞こえなかったことにして」
「専用の大きな紙パンツで隠れるので肌は見えません。補助するナースも注意深く付き添っていますのでご安心を」
老女は真顔で比良野に言った。
「先生、もし私に大腸が無かったとしても怒らないで」
さっきから言っていることがおかしかった。
緊張して変なことを言う患者はたまにいる。
比良野はニヤッと笑い
「あなたは宇宙人ですか。ハッ、ハッ、ハ」
「私、脳が足りないので内臓もないかも」
「大丈夫です。大腸が無くても検査はできます!」
「???」
大きな眼を剝いて一瞬あ然とした老婦人はさらに何か言いそうに口を開けた。
そのとき比良野は
「あっ、いや。あぁそうだ、検査日は洋服でお越しください」
と大きな声でかぶせてしまった。
彼女は何か用件を思い出したのだが比良野に出鼻をくじかれて萎れた。
そのあとは会話が早く進み、順番は午前の最後にしてくれと頼んだ以外何も言えなくなり一月後の検査日を予約して初診は終わった。
そのあと老女は検査前日の食事制限、当日朝からのことをナースから説明され、当日早朝から飲む下剤(大腸洗浄薬)をもらって帰った。
四十年ぶりに逢ったにしては雑な対応だったかな、と比良野は少し気にはした。
珍しい再会だったのに他の患者に紛れて診察直後すぐ忘れた。
数日間は思い出すことも無く平穏に過ぎていた。
そのあと日が経つにつれ意外なことになってきた。
彼の無意識がこの思いがけぬ再会に刺激されうごめき始めたのだ。
そのころから比良野は何かしている時も無意識に若い時の弓美子の顔を思い出そうとして心の底がざわついているのを感じていた。
それは不可解な焦りを伴っていた。
昔、自分は何かしなければならなかったのにしなかった、それが何かも判らないのに今更遅すぎるというものだ。
そのうち彼女のことが勝手に脳裏に浮かんでくるようになった。
なぜ彼女が比良野を忘れていなかったのか、なにか理由があるに違いない。
診察のときもっとあの頃の話をしていたら手掛かりが得られたかもしれない。
意識的に古い記憶を手繰ろうとしてみたが数十年前の記憶はいくら努力してもなかなか戻ってこなかった。
彼女が比良野のそばで働いていたのは四十年前、期間はわずか一年くらい。
しかも生涯の中で最も思い出したくないことが多い時期だった。
ところがそれだけ気にしながらも夜はぐっすり眠れて夢も見なかった。
老化の証拠のようなその快調さには多少あきれた。
心の一部に昔の弓美子ではない、という声も聞こえていた。
ともかく副院長の仕事、選挙の方が心の大きな部分を占めていた。
しかしその間も無意識は蠢き、葛藤していた。
さらに日が経った。比良野はやっとまさか、と思うことを一つ朧気に思い出した。
それは彼女の退職時の挨拶だった。
それは今思えば比良野と彼女が互いに暗黙裡に想い合っていたことの証拠だった。
二人は結局何をすることもなく別れて終わったので心残りも無いと思いきや、なんと大きな影響が残っていた
比良野はそれほど当時彼女を想っていたようだ。
それに引きずられるように他の記憶も甦ってきた。
彼女はてきぱき動き回る元気なOLだった。
不思議なことにその美貌ほどには目立たない人物だった。
彼女が入社して最初の配属先は美貌など無用の、どちらかといえば頭が悪いと思われるOLを集めたような部署だった。
比良野と有嶺が入社する二年ほど前にそこから異動してきたらしい。
彼女の性格は内向的だった。
いかなる酒席にも社内行事にも全く参加しなかった。
あるとき彼女が帰り際に何に気をとられたのか出入口ドアの前で一瞬振り返った後再び歩き出そうとして閉じていたドアに顔からぶつかってはねかえされて倒れたことがあった。
別のOLに介抱されながら
「鼻が高いから」
と言われ、ぶつけた鼻を揉みながら帰っていった光景までも思い出された。
比良野は古い書類を引っ張り出して彼女の昔の写真を探そうとしたが何も無かった。
辛い苦しい思い出しか無いあの会社の写真や書類を、あるとき投げ捨てるようにほとんど全て破棄したのだ。
あの頃の彼女のことだけでなく当時の自分自身についても想い出す手がかりは全て失われていた。
久し振りに有嶺が会いに来て言った。
「今回の選挙で君の敵の背後には病院の外の組織がいる。その組織は大きくて、ずっと前から市政を陰であやつっている。やつらは君のライバルと一体になって君に罠を仕掛ける計画をしている、という情報が入った」
「やっぱりそうか。布沢の危険性はそこまでもあったのか」
「外部の連中の罠の対策はおれとおれの仲間にまかせろ」
そういう有嶺だけにはこっそり明かしておいた方がいいと思った。
「それはありがたい。実は最近こんなことがあった。君も知っている会社の元OL弓美子がおれの患者として初めて病院に来た。彼女は年の割に珍しく総白髪になっていた」
総白髪という言葉に有嶺は驚愕した。
二人は青春期の思い出を語りながら感慨に耽った。
比良野と同様弓美子とは短期間の出会いだった有嶺にも久しぶりに思い出すとただならぬ感情が引き出されたようにしばらく沈黙することがあった。
有嶺も弓美子に対して一般の男性社員以上に賛嘆と憧れは持っていた。
にもかかわらず有嶺も四十年の歳月が経つ間に彼女をすっかり忘れていた。
「彼女の検査日は選挙の直前になるだろう」
そう言うと有嶺の眼が光った。
後日、再びやって来た有嶺は
「陰謀対策の一環だ。おれも内容は知らないが信頼できる相手から来た。すぐ読んでくれ」
封筒を比良野に渡した。
比良野は開封して中を見て驚いた。
その相手に会ったことは無いが丁寧な書き出しのあとにごく簡単な依頼だけが書かれていた。
それで篤子も陰謀対策に巻き込むことがわかった。
目的も活動内容も不明だった。
有嶺は言った。
「陰謀はひとつだけではない。どんな堅物でもとろかしてしまうほどの美人ナースによる突然のハニートラップもある。これには君の堅物さだけが対抗できる」
「わかった。油断せず心を引き締めよう。大丈夫だ。君自身は自分を堅いと思っているが実は唐変木の朴念仁にすぎないのだ。しかしおれの堅さは本物だ」
と堅物は答えた。
比良野の副院長室の窓から入ってくる秋の風は八分の爽快さと二分のそこはかとない憂いをもたらした。
金木犀の薫りを微かに含む風は去り行く季節とともに過ぎ去った日々の追憶と哀惜を誘い出した。
昼休み、副院長室の窓から見える広い芝生は息を吹き返し、池と小さな噴水の向こうに遠く青い山々がくっきり見えていた。
広い庭は病院開設当初に潰された布沢副院長のユニークな診療棟計画の夢の跡だった。
久しぶりの快適な空気に含まれる、この季節の野山の香りに誘われて多数の入院患者とその家族などが庭に出て思い思いの秋の到来を味わっていた。
比良野副院長の目が止まった。
そこに和服の白髪の老女がひとり向こうの山の方を見ながらじっと立っていた。
全く動かない老女が少し気になった。
比良野は消化器内科医である。
今日の午後は比良野が外来担当だ。
いつものように次の患者を案内すると、入ってきたのは六十才の和服姿の女性紹介患者だった。
表情も動きも乏しかったがよく見ると顔の部品は見事なバランスでまとまっていた。
しかし人を拒絶するかのように細く開いた眼は鋭く、唇は薄く引き締まり、眉毛は高く伸びて威厳があった。
年相応のたるみと皴はあった。
和装で凛とした姿は妙な殺気を含み、居るだけであたりの雰囲気を変えた。
待合にいたとき外来患者たちが何者かと訝って見ていた。
さっき庭で遠くの山を凝視していた老婦人だった。
紹介状は、大腸内視鏡検査(CFあるいはCS)の依頼だった。
比良野はそれを得意としている。
いつものように可能性のあるいくつかの病気と検査の内容、検査の必要性とリスクと安全性の説明、検査日の前日からの準備等の概要を話した。
このころの電子カルテは他の情報と密接に繋がっておらず、ただ紙が電子化しただけのものだった。
電子カルテから目を離し振り向いて何か御質問は、と聞いた。
するといつの間にか彼女の表情は別人のように変わっていた。
目が大きく見開かれ、吊り上っていた眉はやさしく緩み、唇は緊張が取れて柔らかく厚みを増し、いかつい威厳はすっかり消えて若々しくなっていた。
その瓜実顔に浮かぶ微笑は古い友人に再会した喜びを表していた。
この時初めて比良野はどこかで見た気がした。
彼女は丁重に言った。
「失礼ながらつかぬことをお尋ねいたしますが、先生は〇〇〇でお勤めなされたことはございませんか」
「〇〇〇というと、遥か昔……するとあなたも〇〇〇で?!」
言うと同時に比良野は両手で天を突くように立ち上がった。
不意打ちの質問を喰らったときに阿波踊りの格好をするのは比良野の癖だ。
それを憶えていた老女も立ち上がって手を挙げてニコニコしていた。
場違いな質問だが比良野自身もさっきから何となく気になっていたことの核心だった。
彼は社会人になって初めの数年間〇〇〇で働いていた。
しかし目の前の女性のことは憶えていない。
それでも会社の名を聞いた瞬間、ふわっと仲間感覚が拡がった。
四十年前だ。
女性は元社員だという。
思い出そうとして比良野は腕を組んで床を睨んだり天井を睨んだりして唸った。
その前で同じように腕を組んでクスッと笑って下から見上げるように眼を丸くしてにこにこする様子はまるで若いOLだ。
彼が入社してすぐのころの色々なイベント、社員旅行などの記憶も探ってみたが、その中にこの女性の姿はなかった。
はて、何者だろう。
先輩なのか後輩なのか。
椅子に戻った。
老女も座った。
カルテの名前をよく見返してやっと思い出した。
意外な人だった。
彼女の若い時は、一目見ればだれもが一生忘れないと思うほどの美人だった。
しかし比良野はここまですっかり忘れていた。
座席はすぐ隣で、約一年間あまり毎日顔を合わせていたのに四十年という歳月はバカにならなかった。
若い時とはずいぶん変わっていた。
カルテの名は〝雪峰弓美子〟、聞いたことの無い姓だった。
下の名の弓美子で記憶を探った時、〝百合矢弓美子〟だったことを思い出した。
世紀の美女が退職したのにその後会社では弓美子が全く話題にならなかった。
「百合矢さんでしたか?」
「はい。思い出していただいて嬉しいわ」
女性のなつかしそうな満面の笑みは彼女の心の底を生気で満たし、若々しく見えてきた。
昔初めて出会った時のように比良野は吸い込まれる感じがした。
比良野の心の混乱が治まるまで呆然として数秒過ぎた。
社会人になってからの記憶の最古層からはっきりと彼女の顔が甦ってくるかと思いきや、西洋人モデルのようだった若い時の顔は混乱し朦朧としてきた。
目の前の顔は角の取れた和風美人だった。
最初に思い出したエピソードは、新入社員の頃にデパートの閉店時間を彼女に聞いたのが彼女との初めての会話だった。
彼女は近くのいろいろなデパートの休業日も含めて即座に返答してくれて、そのときは頭の回転の速さだと思って驚いた。
ところが実際に行ってみるとちぐはぐで、あれっと思ったことを思い出した。
その思い出を笑いながら言うと老女はきまり悪そうに言った。
「あら、そんなこともありましたの? 私は昔から脳がたりなくて……ごめんなさいね」
しゃべり方、声まで聞き覚えのある若い声になっていた。
眼前の老女がこの年まで比良野を憶えていたのはなぜだろう? 比良野はずっと忘れていて、彼女はさっきの窓辺の追憶にも当然のように出てこなかった。
「よく私を憶えておいででしたねえ」
「はーい。あなたのことを忘れるものですか」
自ら脳がたりないなんて変なことを言う女性は何か必死だったのかもしれない。
ともかく雰囲気が和んだので、
「いやぁ驚きました。先輩でしたよね。おなつかしい、お元気でしたか。痛くも苦しくもないようにしますよ。私の得意分野なんでね。きっちり検査・処置させていただきます」
懐かしい話しをしようと思ったのに途中から医者に戻っていた。
相手も見ず一気にしゃべった。
というより口が勝手にしゃべっていた。
一方、場に慣れてきた老女は口が回りはじめ、言いたい事が言えるようになってきた。
「先生がやってくださるのね! 約束ですよ。他の人に私の体の中を覗かれるなんて嫌ですよ」
「ご心配なく。私がやります」
この病院では最初に外来診療をした医師自身がその後も処置や再診を続けるのが普通だった。
比良野は当たり前のことを返答しただけと思った。
麻酔を使うかどうか希望を聞くため彼女を見るとさっきまでの眼瞼下垂が取れて二十すぎのOLのように大きくぱっちり開くようになった眼で比良野の顔をしっとりと見つめてしおらしく〝要らない〟と言い、さらにまるで恋人に言うように〝あなた〟と言い始めた。
「余計な人のいない所であなたにじかに触られながら話をしたいの」
「はい?」
診察中である堅物医師は彼女の言葉の意味が判らなかった。
麻酔しないなら麻酔医はいらない、比良野ほどの医師なら機械の技師も立ち会う必要がない、すると医者と補助ナースだけになる。
昔は麻酔を使わなかったので患者と医師が同じモニターを見ながら説明を聞いたりした。
術者にもよるが内視鏡が大腸の曲がっている所を通過するときにひっかかると腹壁が引っ張られて猛烈に痛む。
同じ場所でも比良野がやると痛まないので名人と言われた。
ちなみに近頃は麻酔を使うことが増えたのでどの医師がやっても痛みは感じない。
再び書類に眼を落した比良野は検査項目のある数値を見て考え始めた。
そのころになって老女が小声で言い始めた呪文のような独り言を殆ど聞いていなかった。
比良野は顔を上げ
「えっ、何かおっしゃいましたか?」
老女は即座にすました顔に戻り
「すみません。聞こえなかったことにして」
「専用の大きな紙パンツで隠れるので肌は見えません。補助するナースも注意深く付き添っていますのでご安心を」
老女は真顔で比良野に言った。
「先生、もし私に大腸が無かったとしても怒らないで」
さっきから言っていることがおかしかった。
緊張して変なことを言う患者はたまにいる。
比良野はニヤッと笑い
「あなたは宇宙人ですか。ハッ、ハッ、ハ」
「私、脳が足りないので内臓もないかも」
「大丈夫です。大腸が無くても検査はできます!」
「???」
大きな眼を剝いて一瞬あ然とした老婦人はさらに何か言いそうに口を開けた。
そのとき比良野は
「あっ、いや。あぁそうだ、検査日は洋服でお越しください」
と大きな声でかぶせてしまった。
彼女は何か用件を思い出したのだが比良野に出鼻をくじかれて萎れた。
そのあとは会話が早く進み、順番は午前の最後にしてくれと頼んだ以外何も言えなくなり一月後の検査日を予約して初診は終わった。
そのあと老女は検査前日の食事制限、当日朝からのことをナースから説明され、当日早朝から飲む下剤(大腸洗浄薬)をもらって帰った。
四十年ぶりに逢ったにしては雑な対応だったかな、と比良野は少し気にはした。
珍しい再会だったのに他の患者に紛れて診察直後すぐ忘れた。
数日間は思い出すことも無く平穏に過ぎていた。
そのあと日が経つにつれ意外なことになってきた。
彼の無意識がこの思いがけぬ再会に刺激されうごめき始めたのだ。
そのころから比良野は何かしている時も無意識に若い時の弓美子の顔を思い出そうとして心の底がざわついているのを感じていた。
それは不可解な焦りを伴っていた。
昔、自分は何かしなければならなかったのにしなかった、それが何かも判らないのに今更遅すぎるというものだ。
そのうち彼女のことが勝手に脳裏に浮かんでくるようになった。
なぜ彼女が比良野を忘れていなかったのか、なにか理由があるに違いない。
診察のときもっとあの頃の話をしていたら手掛かりが得られたかもしれない。
意識的に古い記憶を手繰ろうとしてみたが数十年前の記憶はいくら努力してもなかなか戻ってこなかった。
彼女が比良野のそばで働いていたのは四十年前、期間はわずか一年くらい。
しかも生涯の中で最も思い出したくないことが多い時期だった。
ところがそれだけ気にしながらも夜はぐっすり眠れて夢も見なかった。
老化の証拠のようなその快調さには多少あきれた。
心の一部に昔の弓美子ではない、という声も聞こえていた。
ともかく副院長の仕事、選挙の方が心の大きな部分を占めていた。
しかしその間も無意識は蠢き、葛藤していた。
さらに日が経った。比良野はやっとまさか、と思うことを一つ朧気に思い出した。
それは彼女の退職時の挨拶だった。
それは今思えば比良野と彼女が互いに暗黙裡に想い合っていたことの証拠だった。
二人は結局何をすることもなく別れて終わったので心残りも無いと思いきや、なんと大きな影響が残っていた
比良野はそれほど当時彼女を想っていたようだ。
それに引きずられるように他の記憶も甦ってきた。
彼女はてきぱき動き回る元気なOLだった。
不思議なことにその美貌ほどには目立たない人物だった。
彼女が入社して最初の配属先は美貌など無用の、どちらかといえば頭が悪いと思われるOLを集めたような部署だった。
比良野と有嶺が入社する二年ほど前にそこから異動してきたらしい。
彼女の性格は内向的だった。
いかなる酒席にも社内行事にも全く参加しなかった。
あるとき彼女が帰り際に何に気をとられたのか出入口ドアの前で一瞬振り返った後再び歩き出そうとして閉じていたドアに顔からぶつかってはねかえされて倒れたことがあった。
別のOLに介抱されながら
「鼻が高いから」
と言われ、ぶつけた鼻を揉みながら帰っていった光景までも思い出された。
比良野は古い書類を引っ張り出して彼女の昔の写真を探そうとしたが何も無かった。
辛い苦しい思い出しか無いあの会社の写真や書類を、あるとき投げ捨てるようにほとんど全て破棄したのだ。
あの頃の彼女のことだけでなく当時の自分自身についても想い出す手がかりは全て失われていた。
久し振りに有嶺が会いに来て言った。
「今回の選挙で君の敵の背後には病院の外の組織がいる。その組織は大きくて、ずっと前から市政を陰であやつっている。やつらは君のライバルと一体になって君に罠を仕掛ける計画をしている、という情報が入った」
「やっぱりそうか。布沢の危険性はそこまでもあったのか」
「外部の連中の罠の対策はおれとおれの仲間にまかせろ」
そういう有嶺だけにはこっそり明かしておいた方がいいと思った。
「それはありがたい。実は最近こんなことがあった。君も知っている会社の元OL弓美子がおれの患者として初めて病院に来た。彼女は年の割に珍しく総白髪になっていた」
総白髪という言葉に有嶺は驚愕した。
二人は青春期の思い出を語りながら感慨に耽った。
比良野と同様弓美子とは短期間の出会いだった有嶺にも久しぶりに思い出すとただならぬ感情が引き出されたようにしばらく沈黙することがあった。
有嶺も弓美子に対して一般の男性社員以上に賛嘆と憧れは持っていた。
にもかかわらず有嶺も四十年の歳月が経つ間に彼女をすっかり忘れていた。
「彼女の検査日は選挙の直前になるだろう」
そう言うと有嶺の眼が光った。
後日、再びやって来た有嶺は
「陰謀対策の一環だ。おれも内容は知らないが信頼できる相手から来た。すぐ読んでくれ」
封筒を比良野に渡した。
比良野は開封して中を見て驚いた。
その相手に会ったことは無いが丁寧な書き出しのあとにごく簡単な依頼だけが書かれていた。
それで篤子も陰謀対策に巻き込むことがわかった。
目的も活動内容も不明だった。
有嶺は言った。
「陰謀はひとつだけではない。どんな堅物でもとろかしてしまうほどの美人ナースによる突然のハニートラップもある。これには君の堅物さだけが対抗できる」
「わかった。油断せず心を引き締めよう。大丈夫だ。君自身は自分を堅いと思っているが実は唐変木の朴念仁にすぎないのだ。しかしおれの堅さは本物だ」
と堅物は答えた。
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