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続・五章 救出、そして
4 クープとアイラ
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「どうして勝手なことばっかりするの!?どうしていつも私を困らせるの!?」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
子供が泣いている。
僕はその光景を、どこか遠くから見ていた。
『どうしてあなたはわかってくれないの!?』
彼女との生活の晩年、僕はずっと、その言葉ばかり聞いていた気がする。
僕らの関係が崩れ始めたきっかけは、僕が彼女に、肉体変化の呪印を施したことから始まった。
加齢で荒れていく毛並みの艶を嘆く彼女に、二人だけの記念の場で、そのとき限りのサプライズ。
ささやかな、おまじないのはずだった。
けれど、化粧とは根本的に違うその体の変化に、彼女は魅了されてしまったんだ。
『だって隣にいる人は綺麗な方がいいに決まってるでしょ?』
呪印を渋る僕に、彼女は繰り返しそう言った。
『そのままでも、キミは綺麗だよ』
『はあ? そんな言葉で誤魔化されるわけないじゃない!
そんなに私にみすぼらしい姿でいて欲しいの!?』
違う。
こんな誤魔化しに頼らなくても、一緒に年を重ねていく君の姿は、いつまでも綺麗だよって。
僕は本当に、そう思っていたんだ。
でも、僕の言葉は届かなかった。
『何度も言ってるじゃないか!
肉体変化の呪印は体に負荷をかけて無理矢理そういう形にしているだけなんだ。使い続ければ必ず、酷いことになる』
『じゃああなたが作ればいいんじゃない! その、体に負担のかからない呪印を!
あなたの仕事はそういうものでしょう!?』
『……』
出来ない。出来なかったんだよ。
"真理に至る呪印"なんて、そんなものなかったんだ。
だから僕には、君に負担のない呪印を施すことも、君の体を蝕む呪印の反動を取り除くことも、出来ないんだ。
だから、僕は、
『あなたは私の言うことを聞いてくれればいいの!!どうしてわかってくれないのよ!?』
僕は彼女の体に影響が残らないように計算して、そのギリギリの時間だけ彼女に呪印を施し続けた。
それでも、まったくの無害というわけじゃない。その事を何度もわかってもらおうとした。
けれど、呪印を渋る僕に彼女はいつも泣きながら必死に訴えてくる。
僕はその訴えに、何度も折れた。
そして、『美しい』姿になった彼女は、それまで僕が言った『小言』を一蹴するんだ。
『あなたにはその力があるのに、どうしてわかってくれないの!?』
もう限界だった。
これ以上呪印を使い続ければ、目に見える形で反動が表れてくる。
だから、それから僕はどんなに罵倒されても、彼女に呪印を施すことをやめた。
彼女は、泣きながら僕に怒鳴り続けた……
僕らの会話は少なくなっていった。
そんなある日、彼女のほうからとても機嫌よく、僕に話しかけてくれたんだ。
見て、私綺麗でしょ、って。
『これ、どうしたんだい!?』
『私も、勉強したのよ。どう? これでもうあなたの手を煩わせなくてすむわ。
今までごめんなさい。これであなたも、あなたの研究に没頭できるでしょう?』
『そんな事を言ってるんじゃない!』
それが、決定的な亀裂になった。
どこからか調達した魔術道具で、彼女は見様見真似で、肉体変化の呪印を際限なく使い始めた。
体の負担など考えず、『美しい』姿を求めて、新しい術式を探しては乱用する。
僕の言葉などもう、聞いてすらくれない。
会話がなくなって、家事も溜まるばかりで、ただ、彼女に呪印のことを注意をしては、不機嫌に舌打ちで答える彼女から逃げるように謝るばかりの日々。
彼女から別れを切り出されたとき、彼女が僕を捨てて出て行ったとき、本当は、僕の心には安堵が広がっていたんだ。
(やめてくれ)
耳に刺さり頭に抜ける感情任せの叫び声が、忘れたかった記憶を引きずり出す。
違う。
僕らが共に過ごした日々はもっと、幸せなことがたくさんあった。そのはずなんだ。
「ご、ごめんなさい」
「人と話すときはちゃんと目を見なさいっていつも言ってるでしょう!?」
「あっ」
彼女は、僕がハインツバルト君に掛けてあげた白衣を無理矢理剥ぎ取って床に投げ投げ捨てると、その小さな顔を両の掌で抱えて、自分から目をそらさせないように捕まえる。
小さな体が大きく震え、逃げ場を失った丸い眼が小刻みに震えていた。
そうやって繰り返し繰り返し、彼女はあの子供を追い詰めたのだろう。
だからあの子は、人の目が恐ろしくてたまらないのだろう。
そこには自分を見つめる悪鬼の、恐ろしい目があるから。
「どうしてあんたはいつもそうなの!?どうしてママを困らせるの!?」
反論もできない子供に、感情を振りかざし上から怒鳴りつける。
ハインツバルト君は、泣きながら謝罪の言葉を繰り返すだけだ。
(やめてあげてくれ。こんなに、怯えてるじゃないか。君はそんな人じゃないはずだろう?)
僕は耳を塞ぎたい気持ちで、ただその様子を見つめている。
まるで、心が体から一歩後ろに抜け出した気分だった。
「ごめんなさい。ごめんなさいぃ」
「謝るんじゃない!ちゃんと理由を言ってって言ってるの!!」
「ぽ、ぽーしょん、つくって、おかね、もらいたかったの」
「なんでそんな意地汚いことするの!?ママがあんたのためにどれだけ苦労してるかわからないの!?」
違うそうじゃない。
その子は、君のためにやったんじゃないか。
君に、喜んで欲しかっただけじゃないか。
なのに彼女は、弁明も謝罪も許さない。
何を言ってもそうだった。
何も言わなくてもそうだった。
だから、僕は……
(やめてくれ……思い出は、綺麗なままで終わらせてくれ……)
子供が、ずっと泣いている。
「ご、ごめ゛んなさい。ごめ゛、ごめんなざい゛」
「ママは忙しいからいい子にしてねっていつも言ってるでしょう!?どうしてちゃんとできないの!?」
「お、おがね、あっだら、まま、おごらな゛いで、くれ゛るとおも、お゛もって」
「どうしてそんなくだらないことするの!?言われたことを守れないの!?」
だって、それじゃあどうすれば君は納得してくれるんだ?
何をしても、君は怒るだけじゃないか。
君に命令したいわけじゃない。
僕はただ、君にまた笑って欲しかっただけなんだ。
でも、やっぱり君は怒るんだね。
『ごめんよ。ごめん……』
「ご、め゛んなざいぃ、ごめん、なざい゛ぃ」
もう、やめてくれ。やめてあげてくれ。
そんな小さな子を、これ以上追いつめなくても、いいじゃないか。
「あんたのせいで滅茶苦茶なのよ!!わかる!?ママが頑張ってきたこと、あんたが全部滅茶苦茶にしたの!!わかる!?わかるわよね!?」
動けない僕の心を差し置いて、別の感情が、荒れ狂っている。
それが、僕の体を動かした。
パンッ
気が付いたら、僕は彼女の頬をぶっていた。
「え……」
「謝りなさい」
自分でも驚くほど、冷たい声をしていたと思う。
「この子に謝りなさい」
「な、なによ。子育てもしたことないくせに口出ししないで」
「この子は悪くない!! 悪いのはキミだ!!」
ビリビリと、店内の空気が震えた。
こんなに大きな声を出したのは、何年振りか、何十年ぶりか。
僕を見る彼女の顔は、見たことのないものだった。
怯えた目の彼女が見ている今の僕は、いったいどんな顔をしているのだろう。
彼女は息子から手を放し、後ずさる。
「た、助けてぇ! 見たでしょ!? 暴力夫に殺されるぅ!!」
アイラは叫びながら駆け出し、ギルド職員に縋りついた。
自分の子供には、見向きもしないで。
「……見るに堪えないわ。連れて行きなさい」
「はっ!」
女性職員の一声で、アイラが連れていかれる。
僕は、どっと疲労感が押し寄せてきて、近くにあった椅子に座りこんだ。
「女性に、手をあげてしまった……」
自己嫌悪が押し寄せてくる。
テーブルに肘をついて、両手で顔を押さえた。
(どうして、こんなことになってしまったんだろう?)
どこで、間違えたのだろう。
運命を変えられる瞬間はあったはずだ。
けれど、運命は今この時、このようにしかならなかった。
僕らはただの他人同士になり、彼女は呪印によってその人生を狂わせた。
ふと、左手に光るリングが目に入る。
毎年、今日この日だけは付けていた、二人が永遠の愛を誓った日のおまじない。
僕は、彼女に帰ってきてほしかったのだろうか。
いいや、違う。
僕はただ、彼女との思い出が、過ごした日々が、悪いものではなかったと思いたかっただけだ。
これは、辛い思い出を覆い隠すためだけの、幸せの象徴。
否定したかった、消してしまいたかった、僕と、彼女の間違いの記憶を覆い隠すもの。
(僕らのおまじないは、叶わなかったんだね)
この薬指に絡みついたものは、ただの残骸。
やっと僕は、この指輪の呪いから、解き放たれた気分だった。
こんな苦しい思いをするのなら、ずっとこの未練にすがっているほうが、幸せだっただろうけれど。
胸の中にある感情が、暴れ狂っているのか、凪のように静かなのか、わからない。
気付けば、頬が吊り上がってしまっている。
もう、おかしくて笑い出しそうだ。
……誰かが、僕の服を引っ張っている。
死んだ目で顔を上げると、そこには小さな人が立っていた。
出会った頃の彼女と同じ、純白の毛並み。
丸く澄んだ瞳は彼女のとは違う色の、満月のようにきれいな金色だ。
君は……ああ、キミか。
「隠さなくても、大丈夫なのかい?」
なるべく刺激しないよう、目元を緩めて、声を落ち着かせて話しかける。
ハインツバルト君は、泣きはらした両目をぱっちり開けて、じっと僕を見つめていた。
「パパ……?」
「え?」
「パパ、なの?」
(パパ?)
何を言っているのだろう?
僕にはその言葉が理解できなかった。
「いや、僕は」
「パパっ!」
小さな子供が、僕のお腹に抱き着いてくる。
僕は当惑しながらも、その温もりに心地よさを感じていた。
(ああ、そうか)
去り際の彼女の言葉を思い出す。
『暴力夫』という言葉の意味を、この子は知っているのだろう。
けれど、それは大きな誤解だ。
僕と彼女の間に子供はできなかった。
もしできていたとしても、熊と白熊から狼の子供は生まれない。絶対に。
だから僕は、
(子供って、温かいんだな)
だけど僕は、何も言わず、抱きしめるように彼の小さな頭に手を添えた。
違うと、突き放すこともできただろう。
けれど今の僕には、その温もりは何よりも心に届く、柔らかな陽だまりのように感じられた。
小さな子供は、大人なら片手でも払えそうな小さな力の全てで、僕のお腹に頭を押し付けてくる。
「パパだ、本当のパパだ」と繰り返しながら。
僕は何も言わず、その小さな頭を撫で続けた。
そうしなければ、そうして支えてもらわなくては、自分の感情に押し負けて、泣いてしまいそうだったから。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
子供が泣いている。
僕はその光景を、どこか遠くから見ていた。
『どうしてあなたはわかってくれないの!?』
彼女との生活の晩年、僕はずっと、その言葉ばかり聞いていた気がする。
僕らの関係が崩れ始めたきっかけは、僕が彼女に、肉体変化の呪印を施したことから始まった。
加齢で荒れていく毛並みの艶を嘆く彼女に、二人だけの記念の場で、そのとき限りのサプライズ。
ささやかな、おまじないのはずだった。
けれど、化粧とは根本的に違うその体の変化に、彼女は魅了されてしまったんだ。
『だって隣にいる人は綺麗な方がいいに決まってるでしょ?』
呪印を渋る僕に、彼女は繰り返しそう言った。
『そのままでも、キミは綺麗だよ』
『はあ? そんな言葉で誤魔化されるわけないじゃない!
そんなに私にみすぼらしい姿でいて欲しいの!?』
違う。
こんな誤魔化しに頼らなくても、一緒に年を重ねていく君の姿は、いつまでも綺麗だよって。
僕は本当に、そう思っていたんだ。
でも、僕の言葉は届かなかった。
『何度も言ってるじゃないか!
肉体変化の呪印は体に負荷をかけて無理矢理そういう形にしているだけなんだ。使い続ければ必ず、酷いことになる』
『じゃああなたが作ればいいんじゃない! その、体に負担のかからない呪印を!
あなたの仕事はそういうものでしょう!?』
『……』
出来ない。出来なかったんだよ。
"真理に至る呪印"なんて、そんなものなかったんだ。
だから僕には、君に負担のない呪印を施すことも、君の体を蝕む呪印の反動を取り除くことも、出来ないんだ。
だから、僕は、
『あなたは私の言うことを聞いてくれればいいの!!どうしてわかってくれないのよ!?』
僕は彼女の体に影響が残らないように計算して、そのギリギリの時間だけ彼女に呪印を施し続けた。
それでも、まったくの無害というわけじゃない。その事を何度もわかってもらおうとした。
けれど、呪印を渋る僕に彼女はいつも泣きながら必死に訴えてくる。
僕はその訴えに、何度も折れた。
そして、『美しい』姿になった彼女は、それまで僕が言った『小言』を一蹴するんだ。
『あなたにはその力があるのに、どうしてわかってくれないの!?』
もう限界だった。
これ以上呪印を使い続ければ、目に見える形で反動が表れてくる。
だから、それから僕はどんなに罵倒されても、彼女に呪印を施すことをやめた。
彼女は、泣きながら僕に怒鳴り続けた……
僕らの会話は少なくなっていった。
そんなある日、彼女のほうからとても機嫌よく、僕に話しかけてくれたんだ。
見て、私綺麗でしょ、って。
『これ、どうしたんだい!?』
『私も、勉強したのよ。どう? これでもうあなたの手を煩わせなくてすむわ。
今までごめんなさい。これであなたも、あなたの研究に没頭できるでしょう?』
『そんな事を言ってるんじゃない!』
それが、決定的な亀裂になった。
どこからか調達した魔術道具で、彼女は見様見真似で、肉体変化の呪印を際限なく使い始めた。
体の負担など考えず、『美しい』姿を求めて、新しい術式を探しては乱用する。
僕の言葉などもう、聞いてすらくれない。
会話がなくなって、家事も溜まるばかりで、ただ、彼女に呪印のことを注意をしては、不機嫌に舌打ちで答える彼女から逃げるように謝るばかりの日々。
彼女から別れを切り出されたとき、彼女が僕を捨てて出て行ったとき、本当は、僕の心には安堵が広がっていたんだ。
(やめてくれ)
耳に刺さり頭に抜ける感情任せの叫び声が、忘れたかった記憶を引きずり出す。
違う。
僕らが共に過ごした日々はもっと、幸せなことがたくさんあった。そのはずなんだ。
「ご、ごめんなさい」
「人と話すときはちゃんと目を見なさいっていつも言ってるでしょう!?」
「あっ」
彼女は、僕がハインツバルト君に掛けてあげた白衣を無理矢理剥ぎ取って床に投げ投げ捨てると、その小さな顔を両の掌で抱えて、自分から目をそらさせないように捕まえる。
小さな体が大きく震え、逃げ場を失った丸い眼が小刻みに震えていた。
そうやって繰り返し繰り返し、彼女はあの子供を追い詰めたのだろう。
だからあの子は、人の目が恐ろしくてたまらないのだろう。
そこには自分を見つめる悪鬼の、恐ろしい目があるから。
「どうしてあんたはいつもそうなの!?どうしてママを困らせるの!?」
反論もできない子供に、感情を振りかざし上から怒鳴りつける。
ハインツバルト君は、泣きながら謝罪の言葉を繰り返すだけだ。
(やめてあげてくれ。こんなに、怯えてるじゃないか。君はそんな人じゃないはずだろう?)
僕は耳を塞ぎたい気持ちで、ただその様子を見つめている。
まるで、心が体から一歩後ろに抜け出した気分だった。
「ごめんなさい。ごめんなさいぃ」
「謝るんじゃない!ちゃんと理由を言ってって言ってるの!!」
「ぽ、ぽーしょん、つくって、おかね、もらいたかったの」
「なんでそんな意地汚いことするの!?ママがあんたのためにどれだけ苦労してるかわからないの!?」
違うそうじゃない。
その子は、君のためにやったんじゃないか。
君に、喜んで欲しかっただけじゃないか。
なのに彼女は、弁明も謝罪も許さない。
何を言ってもそうだった。
何も言わなくてもそうだった。
だから、僕は……
(やめてくれ……思い出は、綺麗なままで終わらせてくれ……)
子供が、ずっと泣いている。
「ご、ごめ゛んなさい。ごめ゛、ごめんなざい゛」
「ママは忙しいからいい子にしてねっていつも言ってるでしょう!?どうしてちゃんとできないの!?」
「お、おがね、あっだら、まま、おごらな゛いで、くれ゛るとおも、お゛もって」
「どうしてそんなくだらないことするの!?言われたことを守れないの!?」
だって、それじゃあどうすれば君は納得してくれるんだ?
何をしても、君は怒るだけじゃないか。
君に命令したいわけじゃない。
僕はただ、君にまた笑って欲しかっただけなんだ。
でも、やっぱり君は怒るんだね。
『ごめんよ。ごめん……』
「ご、め゛んなざいぃ、ごめん、なざい゛ぃ」
もう、やめてくれ。やめてあげてくれ。
そんな小さな子を、これ以上追いつめなくても、いいじゃないか。
「あんたのせいで滅茶苦茶なのよ!!わかる!?ママが頑張ってきたこと、あんたが全部滅茶苦茶にしたの!!わかる!?わかるわよね!?」
動けない僕の心を差し置いて、別の感情が、荒れ狂っている。
それが、僕の体を動かした。
パンッ
気が付いたら、僕は彼女の頬をぶっていた。
「え……」
「謝りなさい」
自分でも驚くほど、冷たい声をしていたと思う。
「この子に謝りなさい」
「な、なによ。子育てもしたことないくせに口出ししないで」
「この子は悪くない!! 悪いのはキミだ!!」
ビリビリと、店内の空気が震えた。
こんなに大きな声を出したのは、何年振りか、何十年ぶりか。
僕を見る彼女の顔は、見たことのないものだった。
怯えた目の彼女が見ている今の僕は、いったいどんな顔をしているのだろう。
彼女は息子から手を放し、後ずさる。
「た、助けてぇ! 見たでしょ!? 暴力夫に殺されるぅ!!」
アイラは叫びながら駆け出し、ギルド職員に縋りついた。
自分の子供には、見向きもしないで。
「……見るに堪えないわ。連れて行きなさい」
「はっ!」
女性職員の一声で、アイラが連れていかれる。
僕は、どっと疲労感が押し寄せてきて、近くにあった椅子に座りこんだ。
「女性に、手をあげてしまった……」
自己嫌悪が押し寄せてくる。
テーブルに肘をついて、両手で顔を押さえた。
(どうして、こんなことになってしまったんだろう?)
どこで、間違えたのだろう。
運命を変えられる瞬間はあったはずだ。
けれど、運命は今この時、このようにしかならなかった。
僕らはただの他人同士になり、彼女は呪印によってその人生を狂わせた。
ふと、左手に光るリングが目に入る。
毎年、今日この日だけは付けていた、二人が永遠の愛を誓った日のおまじない。
僕は、彼女に帰ってきてほしかったのだろうか。
いいや、違う。
僕はただ、彼女との思い出が、過ごした日々が、悪いものではなかったと思いたかっただけだ。
これは、辛い思い出を覆い隠すためだけの、幸せの象徴。
否定したかった、消してしまいたかった、僕と、彼女の間違いの記憶を覆い隠すもの。
(僕らのおまじないは、叶わなかったんだね)
この薬指に絡みついたものは、ただの残骸。
やっと僕は、この指輪の呪いから、解き放たれた気分だった。
こんな苦しい思いをするのなら、ずっとこの未練にすがっているほうが、幸せだっただろうけれど。
胸の中にある感情が、暴れ狂っているのか、凪のように静かなのか、わからない。
気付けば、頬が吊り上がってしまっている。
もう、おかしくて笑い出しそうだ。
……誰かが、僕の服を引っ張っている。
死んだ目で顔を上げると、そこには小さな人が立っていた。
出会った頃の彼女と同じ、純白の毛並み。
丸く澄んだ瞳は彼女のとは違う色の、満月のようにきれいな金色だ。
君は……ああ、キミか。
「隠さなくても、大丈夫なのかい?」
なるべく刺激しないよう、目元を緩めて、声を落ち着かせて話しかける。
ハインツバルト君は、泣きはらした両目をぱっちり開けて、じっと僕を見つめていた。
「パパ……?」
「え?」
「パパ、なの?」
(パパ?)
何を言っているのだろう?
僕にはその言葉が理解できなかった。
「いや、僕は」
「パパっ!」
小さな子供が、僕のお腹に抱き着いてくる。
僕は当惑しながらも、その温もりに心地よさを感じていた。
(ああ、そうか)
去り際の彼女の言葉を思い出す。
『暴力夫』という言葉の意味を、この子は知っているのだろう。
けれど、それは大きな誤解だ。
僕と彼女の間に子供はできなかった。
もしできていたとしても、熊と白熊から狼の子供は生まれない。絶対に。
だから僕は、
(子供って、温かいんだな)
だけど僕は、何も言わず、抱きしめるように彼の小さな頭に手を添えた。
違うと、突き放すこともできただろう。
けれど今の僕には、その温もりは何よりも心に届く、柔らかな陽だまりのように感じられた。
小さな子供は、大人なら片手でも払えそうな小さな力の全てで、僕のお腹に頭を押し付けてくる。
「パパだ、本当のパパだ」と繰り返しながら。
僕は何も言わず、その小さな頭を撫で続けた。
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