君を失って世界が止まった

さん

文字の大きさ
2 / 2

風の音に紛れて、君へ

しおりを挟む
その日、私は少しだけ無理をして登校した。
 朝から身体が重たくて、ベッドの中で何度も「もう休もう」と思ったのに、制服に袖を通してしまったのは、自分でも理由がわからない。

 教室の空気はいつも通りざわざわしていて、私の居場所なんてどこにもなかった。
 だから私は、廊下の窓辺に立った。
 日差しはやわらかくて、でもどこか冷たい春の風が、スカートの裾をそっと揺らした。

 ――ああ、もうすぐ夏が来る。

 でも私は、その季節をきっと迎えられない。

 そんなことをぼんやり考えていたときだった。
 ふと、隣のクラスの廊下の端に、一人の男の子が立っていた。

 何もしていない。
 ただ、ぼんやりと外を見ている。
 人を寄せつけない静けさのようなものがあって、それでいて、なぜか目が離せなかった。

 無表情で、何かに心を閉ざしているように見えたけど、
 私はなぜか彼の中に「同じ匂い」を感じた。

 気づいたときには、声をかけていた。

 「君、たまに、すごく透明になるね」

 彼は、少しだけ驚いたようにこちらを見た。
 私は思わず笑って、言い訳のように続けた。

 「……あ、ごめん。変なこと言った」

 その瞬間、彼の目がわずかに動いた気がした。
 きっと、私たちの関係はあの瞬間に始まったのだと思う。


 あの日、図書室の扉を開けたときのことを、私は今でも覚えている。
 静かで、どこか懐かしい空気が流れていた。
 窓際の席には、あの子がいた。

 机に教科書を広げていたけど、目はページの上をただなぞっているだけ。
 きっと集中なんてしていなかった。
 なのに、その佇まいがやけに自然で、違和感がなかった。

 私は声をかけた。

 「ここ、座ってもいい?」

 彼は一瞬だけ顔を上げて、すぐに視線を下ろし、静かにうなずいた。
 それだけだった。けど、その無口な許可が、妙にうれしかった。

 私は、彼と同じ空気の中に身を置けることが、ちょっとした救いのように感じていた。
 きっかけはただの一言。
 だけど、それは私にとっては大きな一歩だった。

 私たちは、特別なことは何も話さなかった。

 テストの点数、先生の口癖、最近食べたアイスの味。
 本当にどうでもいい話ばかり。
 でも、その“どうでもいい話”を、私は誰かとするのがすごく久しぶりだった。

 ただ、彼は時々、私の顔をじっと見ることがあった。
 そのときの視線が、少しだけ痛かった。

 きっと、私の笑顔がどこか歪んでいたからだと思う。

 心の奥に沈めていたはずの不安や恐れが、彼の前では少しずつ浮かび上がってしまう。
 それでも、私は彼の隣にいる時間が好きだった。
 理由はうまく言葉にできなかったけれど、たぶん……私たちは似ていたから。


 「薬、飲むの忘れないようにね」
 そう母に言われて、私はカバンにピルケースを入れた。

 朝の光の中で、何度も聞いたその言葉。
 でも私は、それが“祈り”のような響きを持っていることを、ずっと前から知っていた。

 ――ほんの少しでも、今日を無事に生きられるように。

 私の身体は、ずっと前から静かに壊れ始めていた。
 病名は、正直どうでもよかった。
 だって、それが「終わりに向かっていくもの」だという事実は変わらなかったから。

 だけど私は、どうしても“日常”が欲しかった。

 普通に制服を着て、普通に教室で授業を受けて、
 普通に廊下で誰かとすれ違って、
 そして、放課後には静かな図書室で誰かと並んで座る。

 それだけで、もう十分すぎるくらいだった。

 彼といると、自分が“生きている”ってことを少しだけ忘れられた。
 いや、逆かな。
 むしろ、“生きている”って実感できたのかもしれない。

 ある日、私は試すように言ってしまった。

 「ねえ、もしもさ。もしも、私が突然いなくなったら……どうする?」

 答えなんて、きっとわかってた。
 彼がどう答えるかも、想像できてた。

 「どうもしないよ。人ってそういうもんだろ」

 ――ね、やっぱり。

 だけど、その言葉を聞いたとき、私はなぜか少しだけ安心した。

 だってきっと彼は、私がいなくなっても壊れたりしない。
 きっと、ちゃんと生きていける。

 ……そう思いたかった。

 私は彼に、何も渡してあげられない。
 ただの記憶の一部になれるなら、それでよかった。

 それで、よかったはずだったのに。


その朝、目を覚ましたときに思った。
 ――あ、今日で終わりだなって。

 根拠なんてなかった。
 でも、不思議なくらい確信があった。

 身体は少しだけ軽く感じた。
 目覚めも、悪くなかった。
 まるで、長い旅の前の朝のように。

 制服に袖を通す手は少しだけ震えていたけど、それを止めようとは思わなかった。
 鏡の前の自分に向かって、静かに言った。

 「大丈夫。ちゃんと笑えるから」

 学校へは行かなかった。
 今日は、どうしても“彼に会いたい”と思った。

 何の約束もしていなかった。
 でも私はなぜか、「行けば、会える」って信じていた。

 私が向かったのは、あの帰り道にある古い団地横の小さな公園。
 何か特別な場所だったわけじゃないけれど、
 一度だけ彼が「たまに寄り道してる」と言っていたのを、なぜか思い出した。

 ブランコの鎖が風に揺れて、乾いた金属音を立てていた。
 木々はまだ春の色を残していて、花びらが足元にそっと降ってくる。

 ベンチに腰をかけ、ゆっくりと息を吐いた。
 カバンの中には、いつものようにピルケースが入っていた。
 けれど今日は、それを取り出さなかった。
 もう、意味はなかったから。

 どれくらい経ったころだろう。
 カラン、と自転車の音がして、私は顔を上げた。

 ――彼だった。

 驚いたような顔をして、でも何も言わずに僕の前を通り過ぎようとして、
 なぜか数歩戻ってきて、私の隣に座った。

 ふたりの間には、言葉がなかった。

 沈黙が流れて、風が頬をなでた。
 それでも不思議と、心は落ち着いていた。

 私は心の中で何度も言葉を選んでいた。

 「好きだよ」って言いたかった。
 「ありがとう」って伝えたかった。

 でもそのどちらも、うまく言葉にならなかった。
 だから私は、いつも通りの声で笑った。

 「なんか、今日は静かだね」

 彼は少しだけ頷いた。
 その目はどこか遠くを見ていて、それがなぜか優しく感じられた。

 私たちは、それ以上何も言わなかった。
 だけどそれが、きっと私たちなりの“さよなら”だったのだと思う。


私は、もうこの世界にはいない。
 それなのに、不思議と静かな気持ちだった。

 風が木々を揺らし、光が差し込む。
 あの小さな公園のベンチも、あの日のままそこにある。
 私の姿はどこにもないけれど、たぶん、あの場所のどこかにまだ“気配”だけは残っているような気がしていた。

 彼が時々、ひとりでそこを通っているのを感じた。
 何も言わず、何も考えていないふうでいて、でもほんの少しだけ立ち止まってくれる。
 それだけで、心がふっと温かくなった。

 私が消えたあと、彼はどうしているだろう。
 何かを思い出してくれているだろうか。
 私との時間の中に、少しでも残った“光”があるだろうか。

 ――ねえ、気づいてた?

 私、あの時ずっと君の隣にいたかったんだよ。
 ずっと前から、自分の時間があまり残されていないって分かってた。
 けど、それを言葉にしてしまったら、全部が壊れてしまいそうで。

 だから私は、普通のふりをしていた。
 君がくれる静かな優しさの中で、
 少しだけ、夢を見ていたんだ。

 ねえ、お願いがあるの。
 もしも、また同じような春が来たなら――
 その風の中で、ほんの少しだけでいいから、
 私のことを思い出して。

 それだけで、私はずっとそこにいるよ。

 ――さよならは言わない。
 だって君の中に、私がまだ生きていてくれるなら、
 それは“終わり”じゃないから。

 風の音が優しく耳をくすぐる。
 その音の向こうに、彼の声が聞こえた気がした。

 きっと、気のせい。
 でも、それでいい。

 そう思えることが、
 きっと、私の“救い”だった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

麗しき未亡人

石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。 そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。 他サイトにも掲載しております。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

身体の繋がりしかない関係

詩織
恋愛
会社の飲み会の帰り、たまたま同じ帰りが方向だった3つ年下の後輩。 その後勢いで身体の関係になった。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

処理中です...