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異世界入って5分後の話
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視界の端でシエルが慌てて駆け寄ってくるのが見えた。
「そ、空さん!?」
必死に伸ばされたその手が今の空にはやけに遠かった。
距離の問題ではない。たぶん数十センチも離れていない。だが、体感的には月と地上くらいある。何なら途中で宇宙空間を挟んでいる気さえした。
胸の上にのしかかる重量がとにかく重い。重いというか、もう『重い』という概念そのものが乗っかってきている。肺は『はいはい分かりました!もう無理です!』と言わんばかりにぺしゃんこで、息を吸おうとするたびに意味の分からない音が喉から漏れた。
「……っ、ぐ……」
いや、今のは声じゃない。呻き声ですらない。ただの『潰れかけた人間が出す音』だ。本人としては「大丈夫です」くらいのニュアンスを込めたつもりなのに現実に外へ出てきたのは情けない空気漏れだった。
返事をしようと口を開く。しかし肺が仕事を放棄しているため、結果は変わらない。
「……ぐぇ」
違う。そうじゃない。
空の中ではちゃんとした日本語が元気に走り回っているというのに、出口に辿り着く前に全員、重量に押し潰されていた。伸ばされた手はまだ遠い。というより、今の空にはもう指一本動かす余裕すらなかった。
――重い。
冗談じゃなく、人生で一番重い。
意識はあるし頭も回っている。のに――身体だけが言うことを聞かない。
そんな中、ギルドの奥――酒と鉄の匂いが澱む空間のさらに向こうから、空気を叩き割るような荒々しい声が響いた。同時に床を打つ足音がはっきりとしたリズムを伴ってこちらへと迫ってくる。
「大の男が喧嘩を売っておきながら情けない!!」
一喝。
その声は怒りだけでなく、呆れと苛立ちを孕み、広いギルド内に反響した。
一歩。
硬い床板が乾いた音を立てる。
二歩。
無駄のないしかし迷いのない足運び。
重々しさとは無縁のどこか軽やかで鋭い踏み込みが距離を一気に詰めてくる。周囲の冒険者たちは無意識のうちに息を潜め、視線だけを音の正体へと向けた。ざわめきは自然と鎮まり、ギルドの空気が張りつめていく。
やがて――軋む音を立ててギルドの扉が再び開かれた。
逆光の中、ゆっくりと姿を現したのは想像していたような屈強な男ではない。視界に入ったのは驚くほど細身の体躯をした――一人の女性だった。
その女性はいわゆる獣人と呼ばれる種族だった。頭の上には感情に呼応するかのようにぴんと立った猫耳。均整の取れた背後には細く長い尻尾が自然に揺れている。どちらも飾りではなく生き物としての機能美をそのまま形にしたような存在感を放っていた。
しなやかに引き締まった体躯は無駄がなく長年の実戦をくぐり抜けてきた者だけが持つ『軽さ』を感じさせる。身に着けているのは布と革を組み合わせた軽装の戦闘服。防御力よりも機動性を優先した造りで彼女の動きに一切の抵抗を与えない。腰元には短剣が複数本、使い込まれた革の鞘に収められており、その刃がただの装飾ではないことを雄弁に物語っていた。全身から滲み出るのは速さと、そして場数を踏んだ者特有の落ち着き――。
その金色の瞳が床に倒れ伏す大男を捉える。
次いでその影に完全に隠され身動きも取れずに押し潰されている空の姿を認識した――その瞬間。
「……え?」
短く間の抜けた声が零れた。
それは驚愕でも怒りでもなく、状況を一瞬で飲み込もうとするための、ほんの一拍の停止。だが、次の瞬間。猫耳がぴくりと跳ね、金色の瞳に宿っていた鋭さが一気に別の色へと塗り替わった。
「ちょ、ちょっと待って!?なにこれ!?」
慌てた声が弾けるように響いた……その直後だった。
猫耳の女性は地面に倒れ伏す空の姿を視界に捉えるや迷いなく駆け寄ってくる。軽やかな足取りとは裏腹にその表情は一瞬で険しさを帯びていた。
空の胸元にのしかかる大男。状況を一目で理解した彼女はほんの一拍の躊躇すら挟まず、その襟首を片手で掴み上げる。
「え、あ、ちょ――」
男が抗議とも困惑ともつかない声を漏らした刹那。
ぶんっ!!
空気を切り裂く音と共に巨体が宙を舞った。細身の身体から放たれたとは到底思えない力で猫耳の女性は大男を――まるで邪魔な荷物でも片付けるかのように誰もいない明後日の方へと放り投げる。
次の瞬間、遠くで鈍く、重い衝突音が響き渡り、地面に叩きつけられた衝撃が遅れて空気を震わせた。
胸をグリグリと押し潰していた圧迫感が――嘘みたいに消えた。
「……はぁ……っ」
空は肺の奥に溜め込んでいた空気、一気に吐き出す。まるで今まで息をする権利を没収されていたかのような解放感だった。
仰向けのまま力なく首だけを傾ける。視界の端にはさっきまで修羅場だったとは思えないほど堂々と建っているギルド。そして、その上に広がる――やたらとご機嫌な青空。
雲一つない。
平和そのものだ。
意識ははっきりしている。頭も回るし手足も動く。なのに、心の奥だけが妙に重い。
胸の中に残っているのは怒りでも恐怖でもなく『なんで俺が?』という、どうしようもないやるせなさだった。
――異世界来て、五分でこれかよ。
空は誰に向けるでもなく、青空に向かって心の中でツッコミを入れた。
異世界転生。冒険。ワクワク。
そんな単語が頭の中で次々と白目を剥いて倒れていくのを感じながら。
「だ、だ、大丈夫ですか、空さん……!」
慌てた様子でシエルが隣にしゃがみ込み、顔を覗き込んでくる。
近すぎる距離に空は一瞬だけ視線を泳がせた。
「……うん。たぶん……生きてる」
「たぶん、ですか!?」
「いや、体は全部あるし……骨も今のところ悲鳴上げてない」
そう言いながら空は指を一本ずつ動かして確認する。
ちゃんと動く。よし、生存確認完了。
「……死ぬかと思った。異世界、想像以上に命が軽い気がするんだけど……」
「空さん、それは今言うことではありません」
即座に返ってきたやや呆れ混じりのツッコミに、空は小さく苦笑した。
ようやく体を起こした空の前で問題の中心人物――あの猫耳の女性が今思い出したかのように声を張り上げた。
「あああっ、ごめんなさい!!」
ぱんっ、と勢いよく両手を合わせたかと思うとそのまま勢い余って深々と頭を下げる。
あまりに鋭角な謝罪に逆にこちらが心配になるレベルだった。
「ほ、ほんとにごめん!外に人がいるなんて思わなくて……!」
言葉と同時に謝罪の圧も全力投球。
だが、その真剣さとは裏腹に――猫耳だけは、ぴくっ、ぴくっ、と落ち着きなく動いている。
右にぴく。
左にぴく。
まるで『反省してます』と『周囲の気配が気になります』が同時進行しているかのようだった。
空はその様子を見つめながら――。
(……これって猫耳か?ていうか本物?)
なぜか怒る気力よりも先にツッコミたい衝動の方が湧いてきてしまう。
「そ、空さん!?」
必死に伸ばされたその手が今の空にはやけに遠かった。
距離の問題ではない。たぶん数十センチも離れていない。だが、体感的には月と地上くらいある。何なら途中で宇宙空間を挟んでいる気さえした。
胸の上にのしかかる重量がとにかく重い。重いというか、もう『重い』という概念そのものが乗っかってきている。肺は『はいはい分かりました!もう無理です!』と言わんばかりにぺしゃんこで、息を吸おうとするたびに意味の分からない音が喉から漏れた。
「……っ、ぐ……」
いや、今のは声じゃない。呻き声ですらない。ただの『潰れかけた人間が出す音』だ。本人としては「大丈夫です」くらいのニュアンスを込めたつもりなのに現実に外へ出てきたのは情けない空気漏れだった。
返事をしようと口を開く。しかし肺が仕事を放棄しているため、結果は変わらない。
「……ぐぇ」
違う。そうじゃない。
空の中ではちゃんとした日本語が元気に走り回っているというのに、出口に辿り着く前に全員、重量に押し潰されていた。伸ばされた手はまだ遠い。というより、今の空にはもう指一本動かす余裕すらなかった。
――重い。
冗談じゃなく、人生で一番重い。
意識はあるし頭も回っている。のに――身体だけが言うことを聞かない。
そんな中、ギルドの奥――酒と鉄の匂いが澱む空間のさらに向こうから、空気を叩き割るような荒々しい声が響いた。同時に床を打つ足音がはっきりとしたリズムを伴ってこちらへと迫ってくる。
「大の男が喧嘩を売っておきながら情けない!!」
一喝。
その声は怒りだけでなく、呆れと苛立ちを孕み、広いギルド内に反響した。
一歩。
硬い床板が乾いた音を立てる。
二歩。
無駄のないしかし迷いのない足運び。
重々しさとは無縁のどこか軽やかで鋭い踏み込みが距離を一気に詰めてくる。周囲の冒険者たちは無意識のうちに息を潜め、視線だけを音の正体へと向けた。ざわめきは自然と鎮まり、ギルドの空気が張りつめていく。
やがて――軋む音を立ててギルドの扉が再び開かれた。
逆光の中、ゆっくりと姿を現したのは想像していたような屈強な男ではない。視界に入ったのは驚くほど細身の体躯をした――一人の女性だった。
その女性はいわゆる獣人と呼ばれる種族だった。頭の上には感情に呼応するかのようにぴんと立った猫耳。均整の取れた背後には細く長い尻尾が自然に揺れている。どちらも飾りではなく生き物としての機能美をそのまま形にしたような存在感を放っていた。
しなやかに引き締まった体躯は無駄がなく長年の実戦をくぐり抜けてきた者だけが持つ『軽さ』を感じさせる。身に着けているのは布と革を組み合わせた軽装の戦闘服。防御力よりも機動性を優先した造りで彼女の動きに一切の抵抗を与えない。腰元には短剣が複数本、使い込まれた革の鞘に収められており、その刃がただの装飾ではないことを雄弁に物語っていた。全身から滲み出るのは速さと、そして場数を踏んだ者特有の落ち着き――。
その金色の瞳が床に倒れ伏す大男を捉える。
次いでその影に完全に隠され身動きも取れずに押し潰されている空の姿を認識した――その瞬間。
「……え?」
短く間の抜けた声が零れた。
それは驚愕でも怒りでもなく、状況を一瞬で飲み込もうとするための、ほんの一拍の停止。だが、次の瞬間。猫耳がぴくりと跳ね、金色の瞳に宿っていた鋭さが一気に別の色へと塗り替わった。
「ちょ、ちょっと待って!?なにこれ!?」
慌てた声が弾けるように響いた……その直後だった。
猫耳の女性は地面に倒れ伏す空の姿を視界に捉えるや迷いなく駆け寄ってくる。軽やかな足取りとは裏腹にその表情は一瞬で険しさを帯びていた。
空の胸元にのしかかる大男。状況を一目で理解した彼女はほんの一拍の躊躇すら挟まず、その襟首を片手で掴み上げる。
「え、あ、ちょ――」
男が抗議とも困惑ともつかない声を漏らした刹那。
ぶんっ!!
空気を切り裂く音と共に巨体が宙を舞った。細身の身体から放たれたとは到底思えない力で猫耳の女性は大男を――まるで邪魔な荷物でも片付けるかのように誰もいない明後日の方へと放り投げる。
次の瞬間、遠くで鈍く、重い衝突音が響き渡り、地面に叩きつけられた衝撃が遅れて空気を震わせた。
胸をグリグリと押し潰していた圧迫感が――嘘みたいに消えた。
「……はぁ……っ」
空は肺の奥に溜め込んでいた空気、一気に吐き出す。まるで今まで息をする権利を没収されていたかのような解放感だった。
仰向けのまま力なく首だけを傾ける。視界の端にはさっきまで修羅場だったとは思えないほど堂々と建っているギルド。そして、その上に広がる――やたらとご機嫌な青空。
雲一つない。
平和そのものだ。
意識ははっきりしている。頭も回るし手足も動く。なのに、心の奥だけが妙に重い。
胸の中に残っているのは怒りでも恐怖でもなく『なんで俺が?』という、どうしようもないやるせなさだった。
――異世界来て、五分でこれかよ。
空は誰に向けるでもなく、青空に向かって心の中でツッコミを入れた。
異世界転生。冒険。ワクワク。
そんな単語が頭の中で次々と白目を剥いて倒れていくのを感じながら。
「だ、だ、大丈夫ですか、空さん……!」
慌てた様子でシエルが隣にしゃがみ込み、顔を覗き込んでくる。
近すぎる距離に空は一瞬だけ視線を泳がせた。
「……うん。たぶん……生きてる」
「たぶん、ですか!?」
「いや、体は全部あるし……骨も今のところ悲鳴上げてない」
そう言いながら空は指を一本ずつ動かして確認する。
ちゃんと動く。よし、生存確認完了。
「……死ぬかと思った。異世界、想像以上に命が軽い気がするんだけど……」
「空さん、それは今言うことではありません」
即座に返ってきたやや呆れ混じりのツッコミに、空は小さく苦笑した。
ようやく体を起こした空の前で問題の中心人物――あの猫耳の女性が今思い出したかのように声を張り上げた。
「あああっ、ごめんなさい!!」
ぱんっ、と勢いよく両手を合わせたかと思うとそのまま勢い余って深々と頭を下げる。
あまりに鋭角な謝罪に逆にこちらが心配になるレベルだった。
「ほ、ほんとにごめん!外に人がいるなんて思わなくて……!」
言葉と同時に謝罪の圧も全力投球。
だが、その真剣さとは裏腹に――猫耳だけは、ぴくっ、ぴくっ、と落ち着きなく動いている。
右にぴく。
左にぴく。
まるで『反省してます』と『周囲の気配が気になります』が同時進行しているかのようだった。
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