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挑み戦う冒険者
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頭上で葉を重ねる木々の合間から、細く砕かれた陽光が降り注ぎ地面にまだらな光と影を描き出していた。
風が吹くたびに葉擦れの音が微かに揺れ、湿り気を含んだ土の匂いと若い葉の青さを帯びた香りが混ざり合って、ゆっくりと肺の奥へ染み込んでくる。
森は生きている――そんな感覚を否応なく意識させられる空気だった。
その中心で空は剣を構えたまま微動だにせず立っていた。両足でしっかりと地を踏みしめ、体重のかかり具合を無意識に調整しながら視線だけを前方の『それ』に固定する。
一歩も動かない。
動けないのではなく動かない。
呼吸を浅く整え刃先をわずかに下げたまま、次の瞬間に訪れるであろう衝突に備える。
目の前の存在から決して目を逸らさず――空はただ、静かにしかし確かな意志をもって睨み据えていた。
――森の魔物。
狼を思わせる体躯をしているがそれは決して自然なものではなかった。全身を覆う毛並みは本来あるべき艶を失い、煤を被ったように不自然な黒へと変色している。ところどころが絡まり皮膚に張り付くように逆立っているのがまともな生き物ではないことを雄弁に物語っていた。背中からは骨を無理やり外へ押し出したかのような歪な角が突き出ている。左右非対称でねじれたその形状は成長の過程で何かが狂った結果のようにも見え、見る者に生理的な不快感を与える。
魔物は低く喉の奥を震わせるような唸り声を漏らしていた。黄色く濁った双眸が空のわずかな重心移動や呼吸の変化すら逃すまいと執拗にこちらを追い続けている。
距離は――およそ十歩。
剣を振るうにはまだ遠い。だが、相手が飛びかかるにはあまりにも近すぎる。
不用意に踏み込めば次の瞬間には地面を蹴る音すら置き去りにしてその牙が喉元へと迫るだろう。
その光景がありありと想像できてしまうほど魔物の身体には張り詰めた力が満ちていた。
森の静けさの中で両者は互いの出方を待ち続けていた。
先に動いた方が――命を賭けることになると感じてしまう。
そんな空の初めての戦闘を背後から見守る影があった。シエルは一歩も前に出ることなくその場に立ち尽くしている。息を詰めるように浅く呼吸をし小さな両手を胸の前で強く握りしめていた。白く繊細な指先がわずかに震えているのが分かる。透き通るような青い瞳は一瞬たりとも空から逸れることがない。
剣を構える背中、踏みしめた足、わずかな重心の揺れ――そのすべてを祈るような思いで見つめ続けていた。
声をかけたい衝動を必死に飲み込みただ無事を願うことしかできない立場。
その静かな緊張が彼女の全身から伝わってくる。
一方で少し離れた場所。
太い木の根が地表に露出したその陰ではリィナが腕を組んで立っていた。猫耳はぴんと立ち風向きや音、空と魔物の間合いを冷静に捉えている。視線は鋭く感情に流される様子はない。今すぐ助太刀に入ろうと思えばいつでも動ける距離だ。だが、その気配は微塵も感じられなかった。
――これは完全に見極めだ。
目の前の少年がどこまで戦えるのか。どんな判断をしどんな一歩を踏み出すのか。リィナはただ黙ってそれを見届けようとしていた。
空は剣を握る手にわずかに力を込めた。指の関節がきしむほどに柄を締め上げると刃の先端がほんの少しだけ震える。恐怖からくる微細な揺れだと、自分でも分かっていた。
(……逃げるな)
誰に聞かせるでもなく胸の奥でそう呟く。震えを叱りつけるように深く息を吸い込みゆっくりと吐き出した。
目を逸らすな。
瞬きすら惜しい。
視界の中心に魔物の姿だけを据える。四肢の配置、前脚にかかる体重、地面を踏みしめる爪の角度。背筋に走る力の流れや、次に動くであろう筋肉の張り――そのすべてを噛み砕くように観察する。
森のざわめきが遠のき音が削ぎ落とされていく。聞こえるのは自分の心臓の鼓動と魔物の低いうなり声だけ。時間が引き伸ばされたように感じられた。
一瞬の判断ミスが命取りになる。だからこそ、空はただひたすらに神経を研ぎ澄ませる。
剣を構える感触はまだ身体にしっくりと馴染んでいない。
手の中で主張する重さも、振り抜いたときの長さも、刃先の位置感覚も――どれもが微妙にずれている。正直に言えば扱いづらい。思った通りに動かせる自信などまだどこにもなかった。
それでも――。
空は歯を食いしばる。不安がないわけじゃない。むしろ、怖いという感情の方がずっと大きい。喉の奥がひりつき、背中に冷たい汗が滲むのをはっきりと自覚している。だが、この場に立っている理由を空ははっきり理解していた。
誰かに無理やり押し出されたわけでもない。流れに巻き込まれた結果でもない。自分で選んだ。剣を握り魔物の前に立つという選択を。逃げることもできた。怖いと言って、誰かの後ろに隠れることだってできたはずだ。
それでも――そうしなかった。
自分の意思で踏み出した以上、途中で投げ出すわけにはいかない。
震える手を叱咤し、胸の奥に渦巻く恐怖を覚悟へと無理やり押し固める。
――これは自分の戦いだ。
空はそう言い聞かせながら、剣を構える腕にもう一度だけ確かな力を込めギルドでの事を思い出す。
――少し前。
ギルドのテーブルで勢い任せに口から飛び出してしまったあの一言。
『そ、そうなんだ!冒険者になりに来たんだ』
言い切った直後、胸の奥がどくりと跳ねた。
しまった、と思ったのは確かだ。だが同時に――どこかで、悪くないとも感じていた。
冒険者。
この世界で自由に動けて力を示せて何より『理由』になる肩書き。世界を救うなんて大それた目的を口にする必要もない。剣を振るい、依頼を受け、危険な場所へ向かうことが当たり前として受け入れられる。
正直に言えば――ちょっと、いや、かなり都合がいい。
だからこそ、反射的に言葉が出たのだと思う。
嘘をついたつもりはなかった。むしろ、胸の奥にあった本音に近かった。
――冒険者、か。
考えれば考えるほど悪くない――気がする。
怖さはある。危険も多いだろう。それでも、ただ守られる側でいるよりは剣を握って前に出る方が性に合っている気がした。
そんなことをぼんやり考えていると不意に、横から視線を感じた。
ちらり、と首だけを動かして見るとシエルがじっとこちらを見ている。
言葉はない。
だが、視線にははっきりとした温度があった。
ほんのりと、ジト目。
問い詰めるほど鋭くはない。
けれど、『今の発言について、少し説明してもらえますよね?』と言いたげな、静かな圧。
空は思わず口元を引きつらせた。やばい、とは思う。でも同時に――少しだけ、開き直った気持ちもあった。
だって、言ってしまったものは仕方がない。それに間違いでもない。そう自分に言い聞かせた、その瞬間。
シエルが、小さく息を吸い――
「……空さん」
静かにしかし確実に逃げ道を塞ぐような声で、そう呼んだ。
「い、いや、その……」
シエルの静かな視線を正面から受け止めきれず空は思わず言葉を濁した。何か言わなければとは思うものの、納得のいく言い訳は頭に浮かばない。正直なところ、弁明しようとすればするほど墓穴を掘りそうな気しかしなかった。
その、ほんの一瞬の間を――。
ぱん、と小気味のいい音が切り裂いた。
「いいじゃん!冒険者!」
リィナが両手を叩き明るい声を上げる。猫耳がぴん、と勢いよく立ち、尻尾があればきっとぶんぶん振っていそうなほどのノリだった。
「だったら、さっそく登録しよっか!」
迷いも確認もない。決定事項のように言い切るその勢いに場の空気が一気に持っていかれる。
「え、あ、ちょ――」
空が何か言おうとした時にはもう遅かった。リィナは当然のように立ち上がりそのまま二人を促す。
「ほらほら、カウンター空いてるし!」
有無を言わせないテンポ。反論する隙もシエルが口を挟む余地もない。
結局、空とシエルは顔を見合わせることすらできないまま、半ば流されるようにギルドのカウンターへと連れて行かれた。
――そして。
いざ登録が始まってみるとそれは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
渡された紙に名前を書き簡単な説明を受ける。危険な依頼は自己責任だとかギルドの規則を守れだとかそういう定型文を一通り聞かされただけ。
そして最後に受付の職員がカウンターの下から小さな箱を取り出した。
「こちらが冒険者の証になります」
箱の中に入っていたのは小さな金属製のタグだった。刻印の入ったそれは細い革紐に通されネックレスのような形になっている。空がそれを受け取るとひんやりとした感触が指先に伝わった。軽い。だが不思議と存在感がある。首に下げると胸元で小さく揺れた。
――これが冒険者。
肩書きとしてはたったそれだけのもの。それでも、空の胸の奥で何かが小さく切り替わる感覚があった。
横を見る、シエルも同じようにタグを受け取り静かに胸元へと下げている。その表情はまだ納得しきっていないようで、どこか複雑だった。
「これで二人は、正式に冒険者ね」
そう言ってリィナはにっと笑った。そのまま迷いのない動きで空とシエル、それぞれの手をぎゅっと握る。
突然の接触に空は思わず肩を強張らせ、シエルも一瞬だけ目を丸くする。リィナの手は思ったより温かく、指先には確かな力がこもっていた。祝福というより、仲間入りを宣言するようなそんな握り方だ。
空は視線を逸らし、胸元で揺れる冒険者タグに意識を逃がす。シエルも軽く息を整えながらそっと手を引こうとするが――気恥ずかしさなどお構いなしにリィナはそのまま続けた。
「……じゃあさ」
少しだけ声の調子が変わる。
さっきまでの勢いがほんのわずかに影を潜めた。
「さっきの件のお詫びも兼ねて、依頼、一緒にやらない?」
――そうして選ばれたのが森に出没する魔物の討伐依頼だった。
理由は単純だ。街の外に出る必要はあるが、あまりにも特殊な条件が付いているわけでもなく、初めて動くにはちょうどいい内容に見えたからだ。
そして――剣のこともその時に決まった。
「武器、ないでしょ?」
依頼書を確認し終えた直後、リィナは当然のようにそう言った。
言われてみれば空は何も持っていない。腰に下げる鞘も背負う武具もない。
リィナは自分の腰元に手を伸ばす。そこには左右それぞれに長剣が吊られていた。使い慣れた様子から、二刀流で戦う冒険者なのだと一目で分かる。そのうちの一本を彼女は迷いなく引き抜いた。
刃が鞘から離れると金属の澄んだ音が小さく鳴る。そして、その剣を――空の方へと差し出してきた。
「それで、今回の依頼のお金で自分の武器を買うといいよ」
そう言って笑うリィナの表情にはためらいがなかった。まるで当然のことをしているかのような、軽やかな口調。渡された剣は使い込まれているのが一目で分かった。柄には手の形に馴染んだ癖があり、鞘にも細かな傷が刻まれている。
だが――刃こぼれはない。刃はきちんと研がれ、光を受けて静かに輝いていた。油も行き届いており、持ち主が日頃から丁寧に手入れしていることが伝わってくる。
空は恐る恐る、その剣を受け取った。手に伝わる重みがずしりと現実感を伴って胸に落ちてくる。
軽くはない。だが、不思議と拒絶するような重さでもなかった。借り物だが、それでも、この一本に命を預けることになる。それが今、空が握っている剣だ。
――そして、現在。
森の中で空は魔物から目を離さなかった。黒ずんだ毛並みの隙間から覗く濁った瞳。低くうなる喉の振動。獣の身体が地面を捉える、その一挙一動を逃すまいと視線で縫い止める。
空はゆっくりと息を吸い込み肺いっぱいに森の空気を満たした。湿った土と青葉の匂いが熱を帯びた思考を冷ましていく。剣先をわずかに下げる。力みすぎないようにしかし油断もしない角度。
背中に――視線を感じた。
振り返らずとも分かる。シエルだ。祈るように息を殺し、ただ自分を見つめ続けている。
同時に少し離れた位置からの気配もはっきりと感じ取れる。鋭く、冷静で、隙を見逃さない。
リィナが冒険者としての目で戦況を観察している。
二人に見られている。いや――支えられている。
(大丈夫……)
胸の奥で言葉を噛みしめる。
(俺には神から貰った能力がある)
それはまだ使い慣れてはいない。だが、確かに『ある』という事実が心を支える。
(覚悟を決めろ。戦うんだ)
恐怖は消えない。
だが、それを理由に立ち止まる気はなかった。
空は静かに――しかし確かな意志を込めて一歩、踏み出した。
落ち葉を踏む音がやけに大きく森に響く。
その瞬間、剣を握る手にはっきりとした覚悟を込める。
これは逃げないと決めた一歩。冒険者として踏み出す最初の一歩だった。
風が吹くたびに葉擦れの音が微かに揺れ、湿り気を含んだ土の匂いと若い葉の青さを帯びた香りが混ざり合って、ゆっくりと肺の奥へ染み込んでくる。
森は生きている――そんな感覚を否応なく意識させられる空気だった。
その中心で空は剣を構えたまま微動だにせず立っていた。両足でしっかりと地を踏みしめ、体重のかかり具合を無意識に調整しながら視線だけを前方の『それ』に固定する。
一歩も動かない。
動けないのではなく動かない。
呼吸を浅く整え刃先をわずかに下げたまま、次の瞬間に訪れるであろう衝突に備える。
目の前の存在から決して目を逸らさず――空はただ、静かにしかし確かな意志をもって睨み据えていた。
――森の魔物。
狼を思わせる体躯をしているがそれは決して自然なものではなかった。全身を覆う毛並みは本来あるべき艶を失い、煤を被ったように不自然な黒へと変色している。ところどころが絡まり皮膚に張り付くように逆立っているのがまともな生き物ではないことを雄弁に物語っていた。背中からは骨を無理やり外へ押し出したかのような歪な角が突き出ている。左右非対称でねじれたその形状は成長の過程で何かが狂った結果のようにも見え、見る者に生理的な不快感を与える。
魔物は低く喉の奥を震わせるような唸り声を漏らしていた。黄色く濁った双眸が空のわずかな重心移動や呼吸の変化すら逃すまいと執拗にこちらを追い続けている。
距離は――およそ十歩。
剣を振るうにはまだ遠い。だが、相手が飛びかかるにはあまりにも近すぎる。
不用意に踏み込めば次の瞬間には地面を蹴る音すら置き去りにしてその牙が喉元へと迫るだろう。
その光景がありありと想像できてしまうほど魔物の身体には張り詰めた力が満ちていた。
森の静けさの中で両者は互いの出方を待ち続けていた。
先に動いた方が――命を賭けることになると感じてしまう。
そんな空の初めての戦闘を背後から見守る影があった。シエルは一歩も前に出ることなくその場に立ち尽くしている。息を詰めるように浅く呼吸をし小さな両手を胸の前で強く握りしめていた。白く繊細な指先がわずかに震えているのが分かる。透き通るような青い瞳は一瞬たりとも空から逸れることがない。
剣を構える背中、踏みしめた足、わずかな重心の揺れ――そのすべてを祈るような思いで見つめ続けていた。
声をかけたい衝動を必死に飲み込みただ無事を願うことしかできない立場。
その静かな緊張が彼女の全身から伝わってくる。
一方で少し離れた場所。
太い木の根が地表に露出したその陰ではリィナが腕を組んで立っていた。猫耳はぴんと立ち風向きや音、空と魔物の間合いを冷静に捉えている。視線は鋭く感情に流される様子はない。今すぐ助太刀に入ろうと思えばいつでも動ける距離だ。だが、その気配は微塵も感じられなかった。
――これは完全に見極めだ。
目の前の少年がどこまで戦えるのか。どんな判断をしどんな一歩を踏み出すのか。リィナはただ黙ってそれを見届けようとしていた。
空は剣を握る手にわずかに力を込めた。指の関節がきしむほどに柄を締め上げると刃の先端がほんの少しだけ震える。恐怖からくる微細な揺れだと、自分でも分かっていた。
(……逃げるな)
誰に聞かせるでもなく胸の奥でそう呟く。震えを叱りつけるように深く息を吸い込みゆっくりと吐き出した。
目を逸らすな。
瞬きすら惜しい。
視界の中心に魔物の姿だけを据える。四肢の配置、前脚にかかる体重、地面を踏みしめる爪の角度。背筋に走る力の流れや、次に動くであろう筋肉の張り――そのすべてを噛み砕くように観察する。
森のざわめきが遠のき音が削ぎ落とされていく。聞こえるのは自分の心臓の鼓動と魔物の低いうなり声だけ。時間が引き伸ばされたように感じられた。
一瞬の判断ミスが命取りになる。だからこそ、空はただひたすらに神経を研ぎ澄ませる。
剣を構える感触はまだ身体にしっくりと馴染んでいない。
手の中で主張する重さも、振り抜いたときの長さも、刃先の位置感覚も――どれもが微妙にずれている。正直に言えば扱いづらい。思った通りに動かせる自信などまだどこにもなかった。
それでも――。
空は歯を食いしばる。不安がないわけじゃない。むしろ、怖いという感情の方がずっと大きい。喉の奥がひりつき、背中に冷たい汗が滲むのをはっきりと自覚している。だが、この場に立っている理由を空ははっきり理解していた。
誰かに無理やり押し出されたわけでもない。流れに巻き込まれた結果でもない。自分で選んだ。剣を握り魔物の前に立つという選択を。逃げることもできた。怖いと言って、誰かの後ろに隠れることだってできたはずだ。
それでも――そうしなかった。
自分の意思で踏み出した以上、途中で投げ出すわけにはいかない。
震える手を叱咤し、胸の奥に渦巻く恐怖を覚悟へと無理やり押し固める。
――これは自分の戦いだ。
空はそう言い聞かせながら、剣を構える腕にもう一度だけ確かな力を込めギルドでの事を思い出す。
――少し前。
ギルドのテーブルで勢い任せに口から飛び出してしまったあの一言。
『そ、そうなんだ!冒険者になりに来たんだ』
言い切った直後、胸の奥がどくりと跳ねた。
しまった、と思ったのは確かだ。だが同時に――どこかで、悪くないとも感じていた。
冒険者。
この世界で自由に動けて力を示せて何より『理由』になる肩書き。世界を救うなんて大それた目的を口にする必要もない。剣を振るい、依頼を受け、危険な場所へ向かうことが当たり前として受け入れられる。
正直に言えば――ちょっと、いや、かなり都合がいい。
だからこそ、反射的に言葉が出たのだと思う。
嘘をついたつもりはなかった。むしろ、胸の奥にあった本音に近かった。
――冒険者、か。
考えれば考えるほど悪くない――気がする。
怖さはある。危険も多いだろう。それでも、ただ守られる側でいるよりは剣を握って前に出る方が性に合っている気がした。
そんなことをぼんやり考えていると不意に、横から視線を感じた。
ちらり、と首だけを動かして見るとシエルがじっとこちらを見ている。
言葉はない。
だが、視線にははっきりとした温度があった。
ほんのりと、ジト目。
問い詰めるほど鋭くはない。
けれど、『今の発言について、少し説明してもらえますよね?』と言いたげな、静かな圧。
空は思わず口元を引きつらせた。やばい、とは思う。でも同時に――少しだけ、開き直った気持ちもあった。
だって、言ってしまったものは仕方がない。それに間違いでもない。そう自分に言い聞かせた、その瞬間。
シエルが、小さく息を吸い――
「……空さん」
静かにしかし確実に逃げ道を塞ぐような声で、そう呼んだ。
「い、いや、その……」
シエルの静かな視線を正面から受け止めきれず空は思わず言葉を濁した。何か言わなければとは思うものの、納得のいく言い訳は頭に浮かばない。正直なところ、弁明しようとすればするほど墓穴を掘りそうな気しかしなかった。
その、ほんの一瞬の間を――。
ぱん、と小気味のいい音が切り裂いた。
「いいじゃん!冒険者!」
リィナが両手を叩き明るい声を上げる。猫耳がぴん、と勢いよく立ち、尻尾があればきっとぶんぶん振っていそうなほどのノリだった。
「だったら、さっそく登録しよっか!」
迷いも確認もない。決定事項のように言い切るその勢いに場の空気が一気に持っていかれる。
「え、あ、ちょ――」
空が何か言おうとした時にはもう遅かった。リィナは当然のように立ち上がりそのまま二人を促す。
「ほらほら、カウンター空いてるし!」
有無を言わせないテンポ。反論する隙もシエルが口を挟む余地もない。
結局、空とシエルは顔を見合わせることすらできないまま、半ば流されるようにギルドのカウンターへと連れて行かれた。
――そして。
いざ登録が始まってみるとそれは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
渡された紙に名前を書き簡単な説明を受ける。危険な依頼は自己責任だとかギルドの規則を守れだとかそういう定型文を一通り聞かされただけ。
そして最後に受付の職員がカウンターの下から小さな箱を取り出した。
「こちらが冒険者の証になります」
箱の中に入っていたのは小さな金属製のタグだった。刻印の入ったそれは細い革紐に通されネックレスのような形になっている。空がそれを受け取るとひんやりとした感触が指先に伝わった。軽い。だが不思議と存在感がある。首に下げると胸元で小さく揺れた。
――これが冒険者。
肩書きとしてはたったそれだけのもの。それでも、空の胸の奥で何かが小さく切り替わる感覚があった。
横を見る、シエルも同じようにタグを受け取り静かに胸元へと下げている。その表情はまだ納得しきっていないようで、どこか複雑だった。
「これで二人は、正式に冒険者ね」
そう言ってリィナはにっと笑った。そのまま迷いのない動きで空とシエル、それぞれの手をぎゅっと握る。
突然の接触に空は思わず肩を強張らせ、シエルも一瞬だけ目を丸くする。リィナの手は思ったより温かく、指先には確かな力がこもっていた。祝福というより、仲間入りを宣言するようなそんな握り方だ。
空は視線を逸らし、胸元で揺れる冒険者タグに意識を逃がす。シエルも軽く息を整えながらそっと手を引こうとするが――気恥ずかしさなどお構いなしにリィナはそのまま続けた。
「……じゃあさ」
少しだけ声の調子が変わる。
さっきまでの勢いがほんのわずかに影を潜めた。
「さっきの件のお詫びも兼ねて、依頼、一緒にやらない?」
――そうして選ばれたのが森に出没する魔物の討伐依頼だった。
理由は単純だ。街の外に出る必要はあるが、あまりにも特殊な条件が付いているわけでもなく、初めて動くにはちょうどいい内容に見えたからだ。
そして――剣のこともその時に決まった。
「武器、ないでしょ?」
依頼書を確認し終えた直後、リィナは当然のようにそう言った。
言われてみれば空は何も持っていない。腰に下げる鞘も背負う武具もない。
リィナは自分の腰元に手を伸ばす。そこには左右それぞれに長剣が吊られていた。使い慣れた様子から、二刀流で戦う冒険者なのだと一目で分かる。そのうちの一本を彼女は迷いなく引き抜いた。
刃が鞘から離れると金属の澄んだ音が小さく鳴る。そして、その剣を――空の方へと差し出してきた。
「それで、今回の依頼のお金で自分の武器を買うといいよ」
そう言って笑うリィナの表情にはためらいがなかった。まるで当然のことをしているかのような、軽やかな口調。渡された剣は使い込まれているのが一目で分かった。柄には手の形に馴染んだ癖があり、鞘にも細かな傷が刻まれている。
だが――刃こぼれはない。刃はきちんと研がれ、光を受けて静かに輝いていた。油も行き届いており、持ち主が日頃から丁寧に手入れしていることが伝わってくる。
空は恐る恐る、その剣を受け取った。手に伝わる重みがずしりと現実感を伴って胸に落ちてくる。
軽くはない。だが、不思議と拒絶するような重さでもなかった。借り物だが、それでも、この一本に命を預けることになる。それが今、空が握っている剣だ。
――そして、現在。
森の中で空は魔物から目を離さなかった。黒ずんだ毛並みの隙間から覗く濁った瞳。低くうなる喉の振動。獣の身体が地面を捉える、その一挙一動を逃すまいと視線で縫い止める。
空はゆっくりと息を吸い込み肺いっぱいに森の空気を満たした。湿った土と青葉の匂いが熱を帯びた思考を冷ましていく。剣先をわずかに下げる。力みすぎないようにしかし油断もしない角度。
背中に――視線を感じた。
振り返らずとも分かる。シエルだ。祈るように息を殺し、ただ自分を見つめ続けている。
同時に少し離れた位置からの気配もはっきりと感じ取れる。鋭く、冷静で、隙を見逃さない。
リィナが冒険者としての目で戦況を観察している。
二人に見られている。いや――支えられている。
(大丈夫……)
胸の奥で言葉を噛みしめる。
(俺には神から貰った能力がある)
それはまだ使い慣れてはいない。だが、確かに『ある』という事実が心を支える。
(覚悟を決めろ。戦うんだ)
恐怖は消えない。
だが、それを理由に立ち止まる気はなかった。
空は静かに――しかし確かな意志を込めて一歩、踏み出した。
落ち葉を踏む音がやけに大きく森に響く。
その瞬間、剣を握る手にはっきりとした覚悟を込める。
これは逃げないと決めた一歩。冒険者として踏み出す最初の一歩だった。
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その「お詫び」として、健一は剣と魔法の異世界へと30代後半の肉体で転生することになる。チート能力の選択を迫られ、彼はあらゆる経験から無限に成長できる**【無限成長(アンリミテッド・グロース)】**を選び取る。
異世界で早速遭遇したゴブリンを一撃で倒し、チート能力を実感した健一は、くたびれた人生を捨て、最強のセカンドライフを謳歌することを決意する。
定年間際のおじさんが、女神の気まぐれチートで異世界最強への道を歩み始める、転生ファンタジーの開幕。
毒舌アイドルは毒の魔物に転生する。
馳 影輝
ファンタジー
毒舌を売りにして芸能界で活躍できる様になった。
元々はアイドルとしてデビューしたが、ヒラヒラの衣装や可愛い仕草も得意じゃ無かった。
バラエティーの仕事を貰って、毒舌でキャラを作ったらこれがハマり役で世間からのウケも良くとんとん拍子で有名人になれた。
だが、自宅に帰ると玄関に見知らぬ男性が立っていて私に近づくと静かにナイフで私を刺した。
アイドル時代のファンかも知れない。
突然の事で、怖くて動けない私は何度も刺されて意識を失った。
主人公の時田香澄は殺されてしまう。
気がつくとダンジョンの最下層にポイズンキラーとい魔物に転生する。
自分の現象を知りショックを受けるが、その部屋の主であるリトラの助言により地上を目指す。
ダンジョンの中で進化を繰り返して強くなり、人間の冒険者達が襲われている所に出くわす。
魔物でありながら、擬態を使って人間としても生きる姿や魔王種への進化を試みたり、数え切れないほどの激動の魔物人生が始まる。
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