死んだ俺は、神に頼まれて世界を救うことになった

藤井 サトル

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転生者

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 空が踏み出した、その瞬間だった。

 モンスターが居た場所の――地面が弾けた。

 乾いた破裂音が森に走る。踏み固められた土と腐葉が内側から抉り返され、細かな土塊と木屑が宙へ舞った。次の刹那、黒ずんだ狼型の魔物が地面から解き放たれるように跳び出していたのだ。

 予備動作はほとんどない。低く沈められていた身体が一気にしなやかに伸びきる。筋肉の束が軋むように収縮し、獣の体躯が弾丸のように前方へ射出された。

 十歩――距離にして、ほんの数メートル。それが『距離』として存在していたのはほんの一瞬だけだった。
 魔物は枝葉を踏み砕き下草を薙ぎ払い、空気そのものを切り裂いて突進してくる。視界の端で黒い影が膨張する。輪郭を保ったまま、まっすぐにただ一直線に――狙いを一点に定めて。

 その視線が確かに空を捉えた。
 生臭い息。地を這う低い唸り声。迫り来る圧に肺が押し潰される錯覚すら覚える。

「――っ!?」

 喉から、息を呑む音が漏れた。
 理解よりも先に身体が『危険』を叫ぶ。思考が追いつく前に死の輪郭だけがはっきりと目前に迫っていた。

 考えるよりも早く身体が反応した。視界の端で跳ね上がる影を捉えた瞬間、空の思考はそこで途切れ、反射だけが先に動く。両手が剣の柄を強く引き寄せほとんど無意識のまま正面に構えた。
 次の刹那――鈍く、硬い衝撃が剣を通して腕へと叩き込まれた。

 ガンッ――!!

 牙と刃が真正面からぶつかり合い、乾いた金属音が森の奥まで響き渡る。獣の突進を剣の腹でどうにか受け止めた形だった。

 しかし、その代償は即座に現れた。衝撃は想像していたものを遥かに超えて重く、両腕の骨が軋むような感覚が走る。痺れが一気に指先まで広がり剣を握る感覚が一瞬だけ薄れた。

「ぐっ……!」

 喉の奥から思わず声が漏れる。踏ん張った足裏が地面を噛みしめる間もなく、靴底がずるりと滑った。土と落ち葉が削れ、身体ごと押し込まれる。半歩――いや、一歩分。確実に後退させられている。

 肩が軋み、肘が震え、呼吸が乱れる。

 ――重い。

 単なる体重の話じゃない。突進に乗せられた殺意そのものが剣越しに叩きつけられているようだった。

 剣越しに伝わってくる圧は生き物のそれとは思えないほどだった。筋肉の塊がそのまま押し付けられているような逃げ場のない力。魔物は低く唸り声を上げながら、さらに体重を乗せ空を地面ごと押し潰そうとする。刃がじりと悲鳴を上げた。

 完全に後手だった。

 防ぐことはできた。だが、それだけだ。それも、ただ必死に。

 両腕に力を込め刃を押し返されないよう支える。剣先が少しでも下がれば次の瞬間には牙が喉元に届く。獣の息遣いが生温かい風となって顔にかかり、唾液が飛び散るのが見えた。

 腕が震える。指が痺れ、握力が少しずつ削られていく。剣を握る感覚が薄れ始め、時間だけが無情に引き伸ばされていく。

(まずい……!)

 焦りが一気に胸を締め付けた。

 このまま耐え続ければ先に限界が来るのは自分だ――!

 空は歯を食いしばり残った力をかき集めるようにして無理やり剣を横へ払った。

 獣の頭がほんのわずかに逸れる。その一瞬を空は逃さなかった。
 地面を蹴り反射的に後方へ跳び退く。重たい圧迫感が一気に消え肺に空気が流れ込む――が、それを味わう暇はなかった。

 黒い影が、座に視界を埋め尽くす。

 早い――!?

 思考が追いつくより先に魔物の身体が再び距離を詰めていた。低く身を沈めたかと思うと今度は鋭い爪が横薙ぎに振るわれる。

「っ――!」

 空は慌てて剣を振り上げ真正面から受け止めた。

 ギィン――ッ!!

 刃と爪が擦れ合い甲高い音とともに火花が弾ける。衝撃が腕を貫き痺れが一気に走った。剣が跳ね上がりそうになるのを必死に押さえ込む。

 足元がふらつく。踏み直そうとした瞬間、地面の感触が一瞬遅れ身体が僅かに傾いた。その隙を魔物は見逃さない。

 追撃。

 間髪入れずさらに一撃が飛んでくる。
 空は反射的に剣を振るがそれは形だけの防御だった。重い衝撃に身体が揺れ腕が悲鳴を上げる。攻める余裕はどこにもない。一太刀を振るう間もなく次の攻撃が来る。距離を取れば詰められ防げば押される。その繰り返しで完全に防戦一方だった。

 ――このままじゃ、削り殺される。

 そんな最悪の予感がはっきりと形を持って空の脳裏に浮かび上がっていた。

 魔物は執拗だった。
 一度距離を取ったかと思えば次の瞬間には別の角度から迫ってくる。正面だけではない。左から、右から、低く、そして高く。間合いを変え、軌道を変え、逃げ道を潰すように襲いかかってきた。休む隙は与えられない。空はそのたびに剣を振るった。狙って振る余裕などない。ただ、来るものを弾くために叩き落とすために反射で刃を動かす。

 ギンッ、ガンッ、と金属音が連続して森に響く。
 防ぎきれないと判断した瞬間には身を捻り地面を蹴って距離を取る。時には避けきれず肩や腕を掠める風圧に身を竦ませながら転がるようにして逃げた。

 落ち葉と土が視界を舞う。背中を打ち息が詰まる。すぐさま起き上がろうとするが脚がもつれ一拍遅れる。その遅れが命取りになると分かっているから歯を食いしばって無理やり身体を起こす。

 また――来る!?

 魔物の影が何度も視界を横切る。気配を追い切れず剣を振るのが一瞬遅れる。そのたびに心臓が跳ね冷たい汗が背中を伝った。

 息が荒くなる。肩が上下し肺が熱を持つ。吸っても吸っても空気が足りない。腕は重く脚は鉛のようだった。

「はっ……はぁ……!」

 呼吸の音が自分でも分かるほど大きく漏れ出る。

 それでも止まれない。止まった瞬間、次の一撃が来る。そう理解しているからこそ空は必死に剣を構え続けていた。

(くそ……!)

 胸中で吐き捨てるように叫びながら空は後ろへ跳ぼうとした。だが、一拍遅い。足が地面を蹴るより先に魔物は好機を逃すまいとさらに踏み込んできた。

 距離が一気に詰まる。

 空は反射的に剣を振り抜く。狙ったわけじゃない。来ると分かったから振っただけだ。だが――当たらない。
 刃が届く寸前、魔物の身体が不自然なほど滑らかに軌道を変える。剣先は毛並みを掠めるだけで肉を捉えることはない。空振りした反動がそのまま体勢の崩れに直結する。

「っ……!」

 その隙を即座に突かれた。爪が唸りを上げて振り下ろされ空は半ば転ぶように身を沈めた。頭上を風圧が叩き髪が乱れる。避けたというよりたまたま当たらなかっただけだ。

 立て直す暇はない。次の瞬間には横からの突進。空は咄嗟に剣を突き出す。今度こそ、という感触が手応えとして伝わる――が、やはり紙一重で逸らされる。魔物の肩口を掠めた刃が虚しく空を切った。

 ――速い。

 それだけじゃない。動きが読めない。踏み込みの癖も間の取り方も毎回微妙に違う。考えて対応する余裕はなく、すべてが後手に回る。剣を振るたび魔物は半歩ずれる。半歩ずれるだけ……。しかし、その半歩が致命的に遠い。

 何度も、何度も。

 斬れると思った瞬間に避けられ当たると思った刃が虚を切る。そのたびに空の呼吸は荒れ腕は重くなっていく。

 ――何度目か分からない攻防。

 時間の感覚はすでに曖昧だった。どれだけ剣を振ったのかもどれだけ避けたのかも分からない。ただ分かるのは、状況が少しも好転していないという事実だけ。

 魔物の動きは鈍らない。

 対して、空の身体は確実に削られていた。
 それでも、剣を下ろすという選択肢は最初から存在しなかった。


 荒く乱れる空の呼吸をリィナは一瞬で見逃さなかった。

 剣を振るうたびに重くなる動き。防ぐだけで精一杯になり足運びにも余裕がなくなっている。その様子を見てリィナは静かに判断を下す。

 ――そろそろ、限界かな。

 腰に差していた長剣に手をかけ残る一本を鞘から引き抜く。金属が擦れる澄んだ音が森の中に小さく響いた。

 依頼の魔物の強さは分かっている。本来なら今の空が一人で相手をするには荷が重い存在だ。
 それでも、この依頼を受けさせた。理由は単純でそして重い……。

 なりたての冒険者がどれほど簡単に命を落とすか。モンスターを甘く見た結果、取り返しのつかない結末を迎える者をリィナは何人も見てきた。だからこそ、空には知ってもらう必要があった。

 力の差。判断の遅れが命取りになる現実。そして――生き残るためには決して油断してはならないということを。
 無謀な相手では意味がない。助けに入れる距離と実力があり、最悪の場合でも自分が止められる相手。そうやって選んだのがこの魔物だった。

 舐めてかかって死ぬ冒険者になってほしくない。それがリィナの本音だった。
 長剣を構え視線を戦場へ向ける。そして、リィナは静かに踏み出す準備を整えた。

 そして今まさにリィナが踏み込み、魔物を仕留めるために動き出そうとした――その瞬間だった。

「――待ってください」

 静かだがはっきりとした声がかかる。
 リィナの動きがぴたりと止まった。
 声の主はシエルだ。空の背後に立つその少女は戦場の只中にいるとは思えないほど落ち着いた表情でリィナを見つめている。

「大丈夫です」

 即座に理屈が反論する。どこが大丈夫だ。息は上がり動きは鈍り攻撃は一度も決定打になっていない。どう見ても空は限界に近い。頭ではそうはっきりと分かっている。

 それでも、なぜか、その言葉は否定できなかった。
 根拠など、どこにも見えない。なのに、シエルの声は不思議と胸の奥へまっすぐ入り込み、疑念を押し流していく。理屈ではなく、感覚に直接触れてくるような、そんな確信だけが残った。
 リィナは無意識のうちに剣を構えたまま、足を止めていた。

「絶対に――」

 シエルははっきりと断言する。

「空さんが倒しますから!」

 その言葉には迷いが一切なかった。願いでも希望的観測でもない。
 ただ、そうなると『知っている』かのような揺るぎない断定。
 戦場の緊張の中でリィナは一瞬だけ息を忘れ――そして、剣を振るう判断をほんのわずか先へと委ねた。


 空は呼吸を荒らしながらも視線だけは決して逸らさず、迫り来る魔物の全身を必死にしかし驚くほど冷静に観察し続けていた。
 剣を握る指先の感覚、足裏に伝わる地面の硬さ、風を切る音――それらすべてが一つの情報として頭の中に積み重なり、余計なものが削ぎ落とされていく。

 そして、その時が訪れた。
 魔物が大きく踏み込んだ直後、前脚に体重が深く乗り、巨体がわずかに沈み込む。
 ほんの一瞬。
 ほんの刹那。
 だが、その一瞬は、確かに存在していた。

 沈み込んだ反動で重心が固定され動きが止まる。同時に今まで決して近づけなかった首筋がまるで導かれるかのように空の視界の中央へと滑り込んできた。

(――今だ)

 言葉にするよりも早く、その判断は自然に当たり前のことのように心の奥で形を成す。

 次の瞬間、空の中で何かが弾けた。
 迷いも、躊躇も、思考の雑音も、一斉に消え去り、ただ「振るう」という行為だけが確かな意志とともに身体の中心に据えられる。
 剣を握る両腕に今までとは違う一本の軸が通り、世界がゆっくりと、しかし確実に切り分けられていく感覚が静かに広がっていった。



 振り抜かれた剣先から一本の線が走った。
 それは刃が届く範囲に限られたものではなく、空気そのものを間に存在する距離そのものを巻き込みながら、一直線に魔物へと伸びていく。視界に映る世界がその線を境にわずかに揺らいだ。

 次の瞬間――魔物の存在が切り裂かれた。肉でも、骨でも、命でもない。そこに「在る」という事実そのものが、否定されるかのように。

 それは技ではなかった。積み重ねた鍛錬の賜物でも洗練された型でもない。素人丸出しの無駄の多い振りであり、剣士として見れば褒められる要素は一つもない。

 それでも――ただ一つ、「切る」と決めた意志だけが純粋な形で具現化していた。
 迷いを削ぎ落とし、躊躇を断ち切り、世界に向かって突きつけられた、あまりにも真っ直ぐな断定。
 音もなく、抵抗もなく、境界線だけを残して世界が断たれる。

 ――ゼロ・ディバイド。

 黒い狼の身体が、まるで時間そのものを失ったかのように静止し、唸り声も呼吸もすべてを途中で断ち切られたまま、森の中に不自然な沈黙だけを残して立ち尽くす。

 そして、ほんの一拍遅れて――ずるり、と湿った音が空気を裂き、切断された首と胴がそれぞれ別の重さをもって地面へと落ち、土と落ち葉をわずかに跳ね上げながら、この戦いがすでに終わっているという事実だけを否応なく突きつけた。

 この世界に数え切れないほど存在するモンスターの中のたった一体を狩っただけ。それは冒険者ギルドの依頼という尺度で見れば取るに足らない成果であり、経験を積んだ冒険者にとっては今日も無事に一日が終わったという程度の日常の一コマに過ぎない出来事だ。

 それでも――この瞬間だけは違った。

 剣を握り、命を賭け、世界を切り分ける選択を自分の意志で下し、その結果をこの目で見届けた今、空は確かに一線を越え、ただ異世界に放り込まれた元日本人ではなく、この世界で生き、この世界で戦い、この世界の理に手を伸ばした存在へと変わっていた。

 そう、この瞬間、空は確かに――別の世界の転生者となったのだ。
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