ナキ症候群

四季の二乗

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その焦がれを手放す方法

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 朝、目が覚めると泣いていた気がした。
 顔を洗う為に鏡を覗くと、目が純血していた。何か夢を見ていた気がするが、どの様な内容だったかは思い出せない。一二度水を被ると、玄関のインターフォンが鳴っていた。
 待ち人来るには早い時刻だとは思ったが、予想通りの待ち人は、コンビニ袋を片手に綽々と言う。
 朝食は未だ。何かを作る気にもなれなかった。

「__いじめられたの?」

 誤解を解くには、それほど時間はかからなかった。
 彼女、矢隠やがくれ先輩が訪れたのは予定通りの時刻としては一時間前だった。目覚ましの群生地とは言えないが、一般的には一つで事足りるそれが三つも並べられているので、二階からの音量が下まで響く。何時もは締め切りなどで時間を計る道具も、ここ最近の落ち着きも相まって活躍の機会に恵まれていない。
 目を覚まさせるという本来の用途として活用されている彼ら、彼女らの鬱憤を晴らすようなその声を止める為に、とりあえず先輩を上がらせ、俺は寝室へと急いだ。
 居間へと戻ると、先輩が買いだしたサンドイッチとお茶が置かれていた。
 自分の文のお茶を口にする先輩に、定例文を口にする。その過程で目頭の赤味を指摘されたので、先程の事情を話した。
 
「それで泣いてたんだ」
「目頭を熱くしていたんです」

 食卓に並べられたサンドイッチを流し込みながら答える。
 泣くような理由は思い浮かばないし、理由となるような夢の中の記憶も無くなったのだから説明をしようもない。ただ黙々と食事を行う俺に対して、彼女はにこやかにほほ笑むばかりだ。
 遠くの神社から聞こえる蝉時雨が、夏の到来を実感させる。猛暑に触発されたからかは知らないが、健気なその騒音が嫌に残る。冷房で満たされた室内では分からないが、外に行けば夏の洗礼を浴びる事は自明の理だろう。

「それとも、風邪かな?大丈夫かね?」

 夏風邪と言うには、寒暖差には期待できなさそうだ。
 連日の猛暑も相まって、午後の六時を過ぎようにも熱帯夜の如く熱が溜まっている。夜になれば多少はマシになるとはいえ、エアコンを使うにも躊躇われる曖昧な気温だ。
 だからこそ、季節外れの寒さのせいにも出来ない訳で。
 季節外れと言えば、どちらかと言えば。

「花粉症で無ければ、あり得ますね」
「夏真っ盛りに花粉症は聞いたことが無いよ。陽炎」

 俺は単に、貴方が掛けた梯子を取るなと言いたくなった。
 先日、俺が言った矢隠やがくれ先輩。そう、このバックパッカー先輩に対する恩義ってのはこれに当たる。作業が没頭してしまうと食事を忘れる俺の代わりに、何かしらの食事を買ってきてくれるのがこの先輩への恩義だ。
 餌付けというには代金はちゃんと払ってるし、してもらう代わりにお願いも聞いている。あの部活に籍を置く事だってお願いの一つだ。そして今回の事件に対しても、俺はお願いの反中だと思っていた。
 日ごろ労いも本当にあるかもしれないが、期待をするには年数を過ごした訳じゃない。

「でも、良かった。陽炎が病気じゃなくって」
「何処に心配するんですか。泣く事を専門とする病気なんてないでしょ?」

 花粉症で息を引き取った症例があったとしても、限りなく低いだろう。
 アレルギーの過剰反応は確かに怖いが、涙目になるだけでどれくらいの人間が死ぬだろうか?

「この辺りの風土病にはね。ナキ症候群っていう病気があるんだ」
「聞いたことないですよ」
「まあ、昔からの言い伝えみたいな物だからね。でも、病気自体は今でもあるんだよ」

 ナキ症候群。
 それはどうやらこの一帯のみで確認されている風土病で、他の地域では類を見ない病らしい。被害者は一週間の号泣の末に死亡すると言われており、その特徴的な死因からナキ症候群と名付けられたそうだ。確かに一週間泣き続けられるのなら、体中の水分が失われて死ぬだろう。
 
 しかし矢隠やがくれ先輩曰く、この病の死因は脱水ではないという。

「泣くだけで、特段症状が無いんでしょ?病気と言うには味気ないですね」
「何もすべての病気が死につながる物ではないよ。それにね、そうは言うけど泣き続けるのも大変だとおもうよ?」
「仕事には影響しそうですね」
「学生の本分にもね。それだけじゃなくて」
「それだけではない?」
「ナキ症候群はね、臓器を欠損させるんだ」

 臓器を、欠損させる病気。
 臓器にダメージを与えるとかではなく欠損。つまり、臓器が無くなる病気だと彼女は付け加えた。

「臓器を?」
「うん。臓物を」
「なんか言い方がひどくなってません?」
「言葉的には変わらないよ」

 いわば。泣いて、無くなるという訳だ。
 その臓器の欠損には法則性は無く、肺を失った李肝臓を失ったり。被害者はあらゆる臓器の中で一つ失う事になる。それがどれであぅたとしても人体へのダメージは深刻であり、全ての症例において患者は死に至るという。
 しかし少なくとも、涙を流し続けた結果の脱水には至らない。被害者の全ての死因は臓器の欠損による出血。もしくは臓器機能の停止による死因だそうだ。

「まあ、いいですけど」

 手を合わせ、御馳走様と呟いた。
 ごみ箱代わりのレジ袋のごみを入れ、お茶を口にする。パサついたパン生地に座れた校内の水分が補給されていく感覚に満たされながら、少し思ったことを付け足した。

「そんな病気が実在するなら、もっと世に浸透していても良いと思うんですが」
「さっきも言ったように、この病気はこの周辺特有の風土病だからね。それほど症例が少ないってのもあるけど。もう一つはアレかな」
「アレ?」
「それが病気じゃなくって、呪いみたいなものだから……かな」
「いきなり臓器が無くなるからですか?」
「うん。いきなり体から臓器が無くなる手段を科学的に説明できないからだね」

 半分閉め切られたカーテンから零れた光が、先輩の髪を照らす。
 
「先輩は、」
「何?」
「その実例を見た事があるんですか?」

 先輩は間を置く。

「見た事があるってのは正しくないかもね」

 そろそろ出発しようかと言われたので、事前に用意していた用具だけを携えて席を立った。
 先輩の格好は夏らしい半袖のシャツと、とても動きやすそうな長ズボン。背丈程の草をかき分けるのだから虫よけやけが予防も含まれているのだろう。その白い手は皮の手袋に包まれている。

 暑い故に麦わら帽子を忘れずに何て言うが、彼女の頭に帽子らしき影は見当たらない。




「僕は単に知っているだけだから」











 夏の日差しと言うのは、どうにも調子を狂わせる。
 普段から火元を歩くのを好まない正確な事もあるのだろう。温室と冷房になれた体には、過剰な外の刺激が毒となるようだ。
 それでも、矢隠やがくれ先輩に付き合いながら様々な場所を巡っていたから、昔よりは多少マシになったが、慣れてきたというには額の汗が止まらない。

 口を開けるのも億劫だったが、先輩との会話が途切れる事は無かった。

 世間話に花を咲かせていると、件の建物が見えてくる。
 その建物は住宅地の一角に居を構えており、植物のツタで外壁が埋められていた。先輩の説明の通り、庭は整備されていないらしく相応の年期が感じられる。二十年の重みと言うのは実に厄介で、腰辺りまで成長した雑草が足の踏み場も見えぬほどに群生している
 警察が残したと思われる規制線が、其処で何かあったのだという余韻を残していた。
 表札には、紅葉亭と表記されていた。

 今更だが、こういった肝試しと言うのは夜に行う事が恒例だろう。

「ようこそ、紅葉亭へ」
「こういうのって、夜とかじゃないんですか?」
「君は夜中に不法侵入したい派?」
「エアコンの中で過ごしたい派ですね」

 その言葉に笑う。

「夜中だと危ないからね。何かあったら手が付けないし」

 手が付けられない。
 確かに、この様子なら中の様子はどうなっているのか分からない。ガラスが割れているでも壁の一部が損壊している訳ではないが、如何やら年季が入った建物である事はどうにかわかる。中の様子がどうなっているか分からないのだから、夜間の散策は危険を伴うだろう。

「それ、ジョークですよね?」
「ふふふ。どうでしょうかね?」

 それが冗談ではない様に、先輩は笑っていた。
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