鄧禹

橘誠治

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第三章 敗残編

工作

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 鄧禹の進軍はゆっくりであった。最初は迷いながらだったが、今は意思を持って行軍速度を落としている。急ぎ雲陽へ着いて、戦闘態勢に入っては不都合だからである。
 時間稼ぎは根回しのためだった。雲陽へ放った密使が来歙らいきゅうを動かせるか否か。彼を介して劉嘉を降せれば、これ以上ありがたいことはなかった。
 そしてそれは成果をあらわしつつあった。


「殿下」
 防御態勢を固めた雲陽で、一日、来歙が劉嘉に面談を求めた。現在の劉嘉は漢中王を名乗っているため、敬称は殿下になる。
 余談だが、劉嘉の漢中王の王位は更始帝が下賜したもので、すでに公的には有名無実化している。また劉嘉が守っていた漢中の地もすでに侯丹に奪われており、様々な意味で彼がこの名を使うのはふさわしくないかもしれない。
 だがあえて劉嘉がこの名を使い続けているのは、無位無官のままでは他者に軽んじられる恐れがあること、一時は赤眉も含めた大多数の群雄に「ほぼ正統な漢の後継王朝」と認められた更始帝政権が下賜した王位である以上、多少の権威が残っているであろうこと、そして「自分はまだ新しく誰の傘下にも入っていない」という意思表示のためなどが理由である。また場合によっては亡君(更始帝)への敬意をいまだ忘れぬ忠臣との評判も得られるかもしれない。
 劉嘉のような公明正大な男でも、この程度のあざとさは持ち合わせねば、乱世では生き残れないのだ。


「おう、義兄あに上。何か」
 あらわれた来歙を劉嘉はにこやかに迎えた。来歙は硬骨で有能な男で、もともと更始帝に仕えていたが、更始政権に彼を使いこなす器量がなかったため、劉嘉のもとに身を置いていたのだ。妻の兄でもある来歙は、劉嘉にとって公私ともに信頼すべき重臣だった。
「鄧禹から降伏せよとの密使が来ております。より正確に言えば、鄧禹を介して劉文叔どのからですが」
 いつも通りの謹厳な口調から発せられた言葉が、あまりに唐突で危険な内容だったため、劉嘉は数瞬声を失った。
「…なぜ私ではなく義兄上のところへ」
「私が文叔どのと親しいことを鄧禹が知っていたのでしょう。あるいは文叔どのご本人からの指示があったのかもしれませぬが」
 劉秀が来歙と親交があるだけでなく敬愛していたことは周知であり、どちらも充分にありえた。  


「それともう一つ、文叔どのはしょうが殿下を誤らせていると疑っておられるようです。それが私へ密使を送られた一因かと」
 と、来歙は付け加え、やや沈思していた劉嘉ははっと我に返る。
 本来なら降伏勧告は、このようにひそかにおこなう必要はない。だが今回は堂々とおこなえば、相である李宝が反対するのは目に見えていた。
 劉嘉にもそろそろ李宝の真意が見えてきたように思う。彼は自分を皇帝に立てようとしているらしかった。
 李宝は有能で、劉嘉も彼の智謀や将才には助けられてきた。能があり、野心もある男なら、そのような願望を持つのも無理からぬことかもしれないが、劉嘉にとっては迷惑な話である。


「…潮時かもしれぬな」
 自らに野心なく、周囲に劉秀以上の男が存在しないとなれば、彼にくだるのが一番だろう。それに友人の弟に仕えるのも悪くないではないか。
「わかった、鄧禹に降ろう。お手数だが義兄上、仲立ちを頼めようか」
「御意にございます」
 劉嘉は重荷を下ろしたような晴れやかな表情で義兄に頼み、それを受けた来歙は実直に頭を下げた。


 当然李宝には寝耳に水の話だった。
「殿下、そのような! まだ早まってはなりませぬ!」
 劉嘉から鄧禹に降る意思を告げられた李宝は、思わず声をあげてしまった。これほどの重大事を自分に相談もなく決められてしまったことへの驚きや屈辱もあるが、それ以上に意外の念の方が強かった。
「なにが劉嘉を決断させたのだ」
 邀撃ようげきの準備はしているが、まだ鄧禹に攻撃されたわけでも包囲されたわけでもない。仮にそうなったとしても、持ちこたえる術はいくらでもある。
 鄧禹だけでなく彼の主君である劉秀も確かにあなどれない人物だが、本拠地は遠い洛陽で直接戦火を交えることもない。
 今あわてて鄧禹に降る理由はどこにもないはずだった。
「言うな。もう決めたことだ」
 李宝を諭す劉嘉の表情や口調に、鄧禹や劉秀に対するおびえや焦慮がまったく見えないことも意外である。これでは鄧禹へ降る理由が李宝にはますますわからない。わかるのは、すでに劉嘉に、自らの決心を覆す意思がないことだけである。


 李宝は確かに優秀な男だったが、やはり人である以上限界はあった。
 劉嘉の義兄である来歙と劉秀が個人的に昵懇じっこんの間柄で、その線から鄧禹が劉嘉を篭絡ろうらくしたなど知る由もない。いかに重用されているとはいえ、新参者である李宝が、来歙と劉嘉の絆の深さを越えることは難しかった。
 まして李宝の献策は自らの野心を基部としていることが多い。
 これでは劉嘉に彼に対する絶対の信頼を植えつけることは、結局は不可能だったのだ。
「…わかり申した。御意に従いまする」
 どちらにせよすでに劉嘉を翻意させることはできないだろう。それにもともと李宝も鄧禹(劉秀)に降ることに絶対反対というわけではない。あくまで状況の推移を見て、降るか抗するかを判断しようと思っていただけなのだ。
 こうなればいかに劉秀陣営で優位さを確保するか。李宝の思考はその方向へ傾いていった。


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