時代小説の愉しみ

相良武有

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第一話 女渡世人

①三味線の撥が陽の光に一閃した

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 大川沿いの通りには、今を盛りと咲き誇る桜の木々が両側に立ち並んでいた。時折、そよ吹く風に花弁がひらひらと舞い落ちる長閑な暖かい夕暮れであった。
 宿場から少し離れた大川原で、遊び人風の男三人を相手に立ち回っている若い女が居た。
立ち回るというよりは、男の振り回しているドスの下で、一瞬、逆手に持った撥をさっと一閃させて、忽ちのうちに稲妻の如くに三人を斬り伏せた。女はそのまま裾についた土砂を払うと、傍らに置いた三味線と小さな振分け荷物を小脇に抱えてゆっくりと立ち去りかけた。川面にきらきらと照り映える煌きよりも速い瞬時の出来事であった。川原には、眼を切られて転げまわる男、耳の下の血筋からどろどろと血を流してのた打ち回る男、喉元を掻っ切られて既に息絶えた男が居た。屈強な男三人で一人の若い娘を手篭めにしようとした外道に対する女の憤怒のような仕打ちであった。
 女は半月形の編み笠を少し上に傾げて、ゆっくりと空を仰いだ。
歳のころ二十三、四歳、切れ長の涼やかな眼にツンと先の尖った鼻、鬢のほつれ毛が二、三本、額から口元へ風に揺れて、惚れ惚れする艶やかないい女であった。が、女の顔にはもの悲しい暗い表情が貼り付いていた。
傍らで慄きながら様子を見ていた十七、八歳の若い娘が、我に返ったように、慌てて女の傍へ駆け寄った。
「危ないところをお助け頂き、有難うございました」
娘は深々と頭を垂れた。
「わたくし・・・」と言いかけた娘の言葉を女が遮った。
「名乗るのはお止しなさい。有ること無いこと、何処でどんな噂になるやもしれません。
嫁入り前に差し障りがあってはいけませんからね」
「いえ。是非、我が家へお立ち寄り頂いて、お父っつぁんやおっ母さんからもお礼のご挨拶をさせて頂きたいと思います」
「わたしゃそんな大それたことをした訳じゃありません。どうぞもうお気遣い無く」
「それでは、あんまり・・・。では、せめてお名前だけでも」
「堅気のお人に、名乗るほどの者じゃござんせんよ、お嬢さん」
微笑んだ女の色白の両頬に、小指が入るほどの笑窪が浮かんだ。
女は、ふわっと春風に吹かれるように歩き出した。その後姿に孤愁の翳りが漂っている。孤独に生き、日々流離って来た流れ者、渡世人特有の雰囲気であった。
 堤の上の通りには数人の見物人がそれまでの様子を眺めていた。
女は何処を見るとも無く視線を伏せて急ぎ足に川岸を歩き出した。やがて川沿いの右向こうの山の麓に小さな寺が見えた時、女は立ち止まってきらきら輝く水の流れに見入った。西に傾きかけた陽射しが赤く水面を照らしていた。沈黙を守る山寺と悠久の流れを見せる大川、その自然が人に語りかけるのは無常の寂寥感であった。女は虚無的な眼で川面を流れて行く桜花を追った。
 
 堤の上の川沿いの道に出て足早やに歩き始めた女の後を、ずうっと従いて来る微かな足音があった。
「其処の姐さん、一寸お待ちなせぇ」
声をかけたのは土地の博打打ちで柴宿の富蔵という親分であった。丁度所用からの戻り道で川原の一件に出くわし、余りに見事な遣り口を見て声を掛ける気になったのだった。
「どうです?あっしの処へ草鞋を脱いで、ゆっくりなすっちゃ貰えませんか」
聞いた女は直ぐに小腰を屈めた。
「お言葉有難う存じます。が、わたくし、ちと急ぐ旅でございますれば、ご辞退させて頂きます」
其の儘、名乗りもせずにすたすたと脇道へ折れようとした。
「まあ、待ちねぇな。あっしの処が不都合なら、こう致しやしょう。この先の宿場にあっしの懇意にしている旅籠がござんすが、其処へ泊ってやっちゃ呉れませんか、もうおっつけ日も暮れる頃ですしね」
「そうですか。そうまで仰って頂いちゃあ、痛み入ります。とても旅籠に泊れるほどの身じゃござんせんが、親分さんのお言葉、有難く頂戴させて頂きます」
そこで初めて女は顎の紐に手をやって編み笠を外り、自分から名乗った。
「人様のご門前で合力を乞う鳥追いの倫と申すしがない旅渡りでございます。以後宜しくお見知り置きを願い上げます」
「それじゃお前さんが鳥追いのお倫さん、否、あの居合いのお倫さんなのか!」
富蔵は吃驚したように改めてお倫の顔を繁々と眺めた。
 旅籠への道すがら、二、三歩後ろを離れて歩くお倫に、富蔵は上機嫌で話し掛けた。
「それにしても大した腕だな、お倫さん。仕込みの刀にゃ手も掛けねぇで、撥一つでああもあっさりと三人もの相手をやっちまう。これほど腕の達者な女が居るものかと俺ぁ吃驚するよりも感心しちまったぜ、全く」
お倫は何も言わずに軽く受け流す態だった。
 
 旅籠の暖簾を潜るなり富蔵は中へ大きな声を掛けた。
「お~い、富蔵だ、亭主は居るか」
出て来た妻女らしい女が丁重に出迎えた。
「これはこれは富蔵親分、ようこそいらっしゃいました。ささ、どうぞお上がりになって下さい」
「いや、今日は俺じゃねぇ、お客人は此方の姐さんだ。大事なお客人だから粗相の無いように十分気をつけろよ。部屋は一番奥の静かな所を、な、頼んだぞ」
「はいはい、いつも有難うございます」
「お倫さん、勘定は俺が払っとくから、気兼ね無くのんびりしておくんなせぇ」
富蔵はそう言って得々として帰って行った。
 宿の主に勧められて入った湯の中で、たゆたう湯煙の向こうに、夕間の川原で助けた娘の姿と重なって、五年前のあの忌まわしい出来事がゆらゆらと甦って来た。お倫の心は今夜も激しく逆立った。
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