時代小説の愉しみ

相良武有

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第二話 やさぐれ同心

⑩鬼頭は胸の奥深くに重い錘を沈めていた

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 鬼頭は胸の奥深くに重い錘を沈めていた。
 彼は子供の頃、酷く苛められた。禄高の高い上士の年嵩の子等に痛ぶられた。
「下級武士の子!貧乏侍の子!不浄役人の子!」
文武両道を極めよ、と言う父親の教えで通っていた道場の帰り道で、待ち伏せされて苛められた。剣術でも学問でも彼等に秀でていた鬼頭は、妬み半分で寄って集って嘲笑い者にされて虐められた。武士の家は世襲だった。先祖代々、子子孫孫、同心の家は同心だった。それは何も鬼頭個人の所為ではなかった。彼は太刀を抜いて斬り捨てたいのをじっと我慢して耐えた。そんな時にはいつも独り小高い山の頂に登って、樹木の密集している山裾へ向かって小石を投げ続けた。
「こんちくしょう!こんちくしょう!」
だが、鬼頭が幾ら力をこめて石を投げても、石は夕暮れの山の中に吸い込まれて、樹木に当たる音も枝葉にかすれる音も、何一つ聞こえて来なかった。石は無限の空間へ吸収されて、鬼頭の憤懣遣る方無い投石を巨大な何者かの掌が受取ってしまうかのようであった。
あれッ、石は何処へ消えたのだ?何の音も聞こえて来ないぞ!
鬼頭は一瞬、戸惑った。自分の怒気を精一杯の力を込めて散じようとするこの行為がこの世に何の結果も引き起こさないことに、鬼頭は不安と戸惑いを覚えた。
「この野郎!」「今畜生!」
繰り返して何度も何度も試みたが、結果は同じだった。何の物音も返って来ない。
今、安穏に日々の暮らしを生きている大人や年寄りや子供等を、俺の何の悪意も無い小石から守る何か巨大なものが存在するのではないか・・・俺が百回ほども小石を投げてみても、何一つこの世に結果が現れないとすれば、俺は自分がこの世に在るということを確かめる為には、小石などという不確かな小さなものではなく、もっと確かな方法で、この世に凄い結果を引き起こさなければならないのではないか?
鬼頭は思った。
もっと燃焼的で内実的なやり方で、自分の実在感を獲得しなければならない、そうして初めて俺独自の真正性をしっかり持って、自分の存在を俺自身に証明出来るというものだ・・・
 
 それから鬼頭は剣の道に遮二無二励んだ。寝食を忘れるほどに死に狂いで打ち込んだ。奴らが絶対に手の届かぬ強靭な剣の極致に到達してやる!手も足も出ない強さになってやる!今に見て居れ!
鬼頭は剣の道を通じて嘗て無い高揚感と燃焼感と、そして、この世での己の実在感とを実感しようとした。鬼頭は道場で生き生きと輝いて相手と打ち合った。そこには不安や焦燥が湧き上がって来る余地は全く無かった。眦を吊上げて激突する申し合いの中で、相手の弱点を徹底的に突いての打込みの中で、鬼頭は無意識の内に自分自身を賭けて何かを獲ち得ようとした。
鬼頭は太刀を奮って闘っている世界では生きている自分を捉えることが出来た。緊張、闘争、燃焼、驚愕、憧憬、羨望、生命、自由、秩序、そういう他人が簡単には手に入れられない総てのものが、その透明に熱した明るい世界には在った。
人間が蘇生するのは五感が感じて身体が動き、その中で甦る。それは他人に頼ってもならず頼られてもならず、自分一人だけのものであり、他の誰にも奪われることの無い唯一のものである。誰がどう足掻こうとそれは鬼頭が一人で打ち立て、ひとりで味わい満足するものであり、誰も要らないぎらぎらした華やかな孤独そのものである。誰にも立ち入ることの出来ない鬼頭自身なのであった。
人間というのは自分で自分を甦らせる場所をそれぞれ持っている。そして、その中では皆それぞれ独りきりである。独りきりだからこそそれが出来るのである。他人が其処に入ろうとしても入れるものではない。その点で人間は皆独りきりの筈である。
鬼頭が真に望んだものは闘う自分自身ではなく、闘いの向こうに拡がる恍惚とした燃焼を信じることであった。身体の深奥から湧き上がって来る何か異様な激しいものに揺り動かされての憑かれたような狂気の燃焼そのものであった。
だが、鬼頭の剣が群を抜いて強くなり、もはや誰も立ち会える者が居なくなった時、落し穴が待っていた。鬼頭は既に二十歳を超え、父親の跡を継いで同心に成っていた。
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