パラッと読める超短編集

相良武有

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第23話 追憶の一コマ

70 その頃、一色彩は日本映画界を代表する人気女優の一人だった 

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 その頃、一色彩は日本映画界を代表する人気女優の一人だった。
映画雑誌が催す人気投票の女優部門で毎年ベスト・スリーに名を連ねていたし、二年連続で一位に輝いたこともあった。地方にロケにでも行けば、溢れるばかりの黒山の人だかりで、撮影終了後の脱出は将に命懸けと言える程のものだった。映画会社が毎週競って封切り公開するプログラム・ピクチャーの中で、彼女は年に十二本もの作品に出演し、カメラレンズの向こうで光り輝き、弾け、躍動して、スクリーンを通して彼女を見る観客たちに溢れるばかりのオーラを届けていた。
 一色彩は誰からも美しいと讃えられた。映画を見る観客たちは彼女の魅力的な眼や唇に熱狂した。顔だけではない。一色彩は脚が長く均整の取れた肢体を持っていた。彼女は美女の代名詞になっていた。スクリーンにただ出て来るだけで拍手が湧いた。
だが、彼女は疲れてもいた。若いとは言え、二本立て興行に間に合わせる為に、毎週二本の封切り公開作品を製作することは、スタッフにとっても俳優にとっても並大抵のことでは無かった。
 或る時、彼女は相手役の貌を彼女の背後から撮るカットで、眠気に抗し切れなくなって、立ったままうとうとと居眠ってしまった。突然、冷たいものが眼に宛がわれて彼女は吃驚して眼を開けた。その眼の前に助監督を務めていた桂木遼太郎の顔が在った。
「君、大丈夫か?」
「あっ、済みません、はい、大丈夫です」
「そうか、じゃ、次のシーンへ行こうか」
彼はそれまで脚本部に所属して、いつか自分の作品を撮るべく、脚本の習作に励んでいたが、翌年には、自作の脚本で監督デビューを果たし、その大胆なカメラアングルとカメラワークで注目を浴びて将来を嘱望されたのだった。
 
 数年後、桂木監督と一色彩はヌーヴェルヴァーグの映画を撮って居た。それまでにも彼女は桂木監督の作品に数本出演していたが、ヌーヴェルヴァーグのそれは初めてだった。二人が取り組んだ映画は、東京から青森まで、惚れた男を追ってひたすら車を走らせる日本で初めてのロードムービーだった。その脚本は手にした時からそれまでのものとは違っていた。台詞が極端に少なく、ト書きには「ひたすら車を走らせる」とだけ記されていた。
監督は彼女を、アヤ、と言う愛称で呼んだ。
「アヤ、ただこの女に成り切って自然に動いてよ。あとは遠くからカメラを回して行く。これはそう言う映画なんだ」
桂木監督は自分が本当に納得するまで何回も何回も同じシーンを繰り返す。たった一言の台詞のOKが出ず何十回も撮り直すこともあった。
「これがお芝居だ、これが映画だ、と思っているものを全部捨てて、ただ、その女に成り切ってよ、ね」
「そんな難しいことを言われても・・・」
「この女はね、賢くて自信に満ち溢れていて、それにこの男に惚れているんだけれども、あまりそのことを表に出さない女なんだよ。だから、キスしたり寝たりはしないんだ」
彩には今一つ良く解らなかった。
 この映画ではカメラを固定して据えるのではなく、出来る限りカメラマンの手に持たせていた。監督が言った。
「勿論ブレるし、途轍もなく可笑しな構図になって行くけれども、それで良いんだ。アヤ、今まで誰も撮ったことの無い映画を創ろう。女の心のブレと揺れと一緒にカメラも揺れる。素晴らしい映画になるよ」
そして、ロケに入ってから、この映画には驚くほどに群衆ロケが多いことに彩は気付いた。
 東京の丸の内では怪訝な顔で人々に取り囲まれ、立ち並ぶ屋台の前には女たちの群が在った。本物の一色彩を見る晴れがましさと困惑とで女たちの表情は鈍いものになっていた。皆、照れたように笑っていた。最新鋭のハンディカメラが群衆を追って行くが監督のOKが得られない。何度も撮り直しが続いた。
 東北青森でねぶた祭りのシーンを撮る時には、祭りの真只中へ彩の乗ったジャガーを乗り入れた。忽ち、抗議の声が湧き起った。
「何やっているんだよォ、こいつ!」
「馬鹿か、この女!」
彩は批難の声を浴び、群衆に小突かれ、祭りの水もかけられた。エキストラを雇っていたが、彼等の表情はその使命をとうに越えて、貌も本能的に歪んでいた。わたしは彼等に襲われるのではないか、そんな恐怖と水の冷たさに彩は今にも倒れそうになった。ふらふらと群衆の波を掻き分けて歩く彩を最新のハンディカメラが追って行く。
彩に不思議なことが起こった。
 ロケの恐怖に慄き乍ら撮影に挑む内に、台詞やアクションが自然に出るようになった。演じているのではなく、自然に台詞が口を吐いて出、身体が無意識のうちに動く。ヒロインの感情が彩の胸の内に湧き上がって溢れ出し、もはや、脚本の台詞ではなく彩自身の言葉が口から発せられ、アクションが自ずと生れ出た。やがて爽快感が込み上げて来た。彩が役者魂に眼覚め演技者として開眼した一瞬だった。

 数日後、彩が雨に濡れた街路を駆け抜ける重要なショットを何日もかけて撮影したことがあった。
「さあ、君の用意が出来次第撮るからな、アヤ」
「よし、もう一丁行こう、アヤ」
そして、或る晩、二人は黄色いオープンカーで京浜高速道路を飛ばしていた。咽び泣くように騒いでいる海を左手に見乍ら、二人は横浜を目指した。海辺のレストランに着くとロブスターを食べ、監督が繰り返しジュークボックスでかけたブルースの曲に合わせてダンスをした。
「今回良く解ったよ。うちのスターたちの映画が大当たりしたのは、彼らの力だけじゃない。君が居たからだ。そんなことは皆、解っている筈だったのに、実は解って居なかった。どの映画もね、スターたちが主役のようでいて、実は主役は君だったんだ。俳優たちのアクションは君の精を引き出す為の仕掛けだったんだな。君の美しさは映画の中では母性となって観ている男たちを癒し祝福して行く。君の魅力は今までの日本の女優とはまるで違う。君の美しさと言うのはフランスの女優と同じで、乾いているんだ。僕は今度の映画で確信を持ったよ。君が居るならば丸切り新しい映画が撮れる、今まで誰も見たことの無い映画を僕の手で創り出すことが出来るんだ、ってね」
そして、彼は言った。
「よし、アヤ、今夜は泊まって行こうじゃないか」
この年の暮れ、一色彩はこの作品で日本アカデミー賞の主演女優賞を受賞し、彼女の代表作の一本となった。毎日映画コンクール、キネマ旬報、日刊スポーツ映画大賞など数々の主演女優賞を受賞して名実ともに大女優の道を歩み始めたのだった。
 
 後年になって一色彩は、活躍の場を映画やテレビから舞台へと移した。
其処では青春の若い娘の役を演じることが出来た。彼女は昔スクリーンで輝いていたように、光り、撥ねて躍動した。彼女は常に桂木監督から教わった、その人物に成り切って自然に動くこと、に全力を傾けた。そして、六十五歳の若さで紫綬褒章を、七十二歳で旭日小綬章を受賞した。
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