人生の時の瞬

相良武有

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第8話 別れても・・・

⑦「もう暫く女優で頑張ってみるわ」

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 松木が支払いを済ますと二人は夜の街へ歩き出した。
一町ほど歩いたところで千穂の腕が松木の腕に絡んだ。
二人は思い出を語りながら暫らくそぞろ歩いた。
「ねえ、私が歌謡ショーの番組に出ていた頃、あなたが連載していたあの雑誌、何て言ったかしら?」
「週刊文学だよ」
「そう、そうだったわね。名前まではなかなか覚えて居られないわ。あなた、小説を書き始めてから直ぐに売れ出して、殆ど缶詰め状態で執筆して、私のことなど丸で構ってくれなかった」
松木は頷いた。
「あの頃、私はもう下り坂で毎日不安に苛まれていたけど、あなたのことだけは、この人、凄い物書きになるわ、って思っていたのよ」
「俺は物凄く忙しくて、ものをゆっくり考える余裕なんて無かったんだ、これッぽっちも」
「ねえ、あそこへ行きましょうよ、あの頃二人で暮らしたあのマンションの在る街へ」
二人はタクシーを止めて思い出の街へ向かった。
千穂はタクシーの中からすっかり変わってしまった街の通りを彼方此方眺めながら、それこそ、女優らしくドラマティックな声を挙げてオーバーに驚いていた。
松木はその時、長い間、千穂について抱き続けて来た自分の気持について、色々と考えを巡らせていた。
愛だったのか?それとも単なる共感だったのか?或は、やみくもに灯に飛び込む蛾のように惹きつけられたのか・・・
何れにしても、人気小説家になった松木とアイドル歌手から売れない女優に転身した千穂は違う人生を歩き始め、この先一緒にやって行くことは難しい、此の侭ではお互いに傷つけ合い、憎しみ合ってしまう、そう考えて二人は別れ別れになった。もう五年も前の話である。
「うわあ!ちっとも変って居ないのねぇ!」
通りの角でタクシーを降りた時、千穂が叫んだ。
「あら、ちょっと待って。此処に在ったあの大きな会社はどうなったの?ほら、其処の上に在ったじゃない?大きな看板が。それに、あそこに在ったあの店は?あら?あれは横文字の名前じゃなかった?喫茶店か何かの、学生でいつも一杯だったあの店、どうしちゃったのかしら?・・・」
千穂と松木は名前の変わった昔の店に入って窓際のテーブルに腰掛けた。千穂がラム酒を頼み、恋人同士に返ったように二人はグラスを傾けた。
千穂は松木と別れた後の男関係について、問われるままに、差し障りのない程度に少し話した。
「最初の男は私のお金でコカインをやって、直ぐに死んでしまったの」
年上の映画スターとの恋もあった。逗子の別荘で暫く暮らしたロック歌手のこともある。
「彼は私の為に作詞や作曲もしてくれたわ」
やがて、千穂の表情がどんよりと曇り、眼には何やら険しい色の幕が架かったり消えたりし始めた。彼女の口の周りにも二本の深い皺がくっきりと現れた。
松木は作家協会が何故、脚本家たちに様々な制限を敷いているのか等について話しながら、千穂の変わりようを観察していた。
その時、千穂がラム酒をもう一杯注文した。
「さあ、もうそろそろ帰ろうか」
松木はそう言ってウエイターに勘定を促した。
「もうちょっと歩きたいわ、乃木坂辺りまで」
「この次にしよう、な」
タクシーの中で千穂は不機嫌に黙り込んでいた。
松木が突然に、言った。
「なあ、俺のマンションへ引っ越して来ないか?また昔のように一緒に暮らすのも良いかも知れないぞ」
千穂は一瞬、えっ?という驚いた表情を顔に浮かべた。が、直ぐに頭を振って答えた。
「有難う、嬉しいわ。でも、やっぱり辞めておくわ」
「どうして?」
「あなたは優しいし、私は今でもあなたが好きだけど、でも、私は、憐みは受けたくないの」
「そうじゃないよ。俺は君を放っておけないんだよ!」
「嬉しいわ、真実に!でも、同じことをまた繰り返すのはご免だわ。同情は要らないの、わたし」
「そうか・・・」
「もう暫く女優で頑張ってみる。一人芝居なんかもやってみたいし・・・。コンパニオンになったり身を売ったりはしないから・・・。大丈夫よ」
車はちょっぴり寂しい一ツ木通りを下って、千穂のマンションの前に着いた。
「寄って行く?」
車のドアに手をかけて千穂が言った。
「いや、行かない方が良いだろう」
「本気でそう答えているの?」
「そうだ、本気だよ、君」
「そうね、あなたの言うのが正解かも知れないわね」
車から降りた千穂に松木が軽く手を挙げた
「じゃ、な」
「有難う。逢えて嬉しかったわ。おやすみなさい」
そう言って千穂はふらつく足取りでマンションの中へ消えて行った。
走り去る車のテールランプが赤く滲んだ。
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