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⑯雨に浄われて
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「毅さん」と言う書き出しでそれは始まっていた。
「わたし、十日ほど、テレビの取材で京都に居るの。是非お会いしたいんだけど・・・」
奈緒美・・・京都に来ているのか・・・
レストランの仄暗い灯の下で見る奈緒美は記憶に有るよりはずっと美貌だった。
瓜実顔に感じの良い小さめの唇、間隔の開いた円らな黒い瞳、微笑むと出来る片笑窪は整った顔立ちを際立たせている。その美貌に毅は己の心の始末が悪いほどに見惚れた。
無論、その美貌はジャーナリストとしての奈緒美に幸いしたが、反面、彼女の足を引っ張るものでもあった。年配の記者や老練な編集者には、これほどの美人が記者としての実力を具えているとは信じられなかったのである。奈緒美は自らの美貌に打ち克つ為に、同僚たちの何倍も働かなければならなかった。
「今、取材班を組んで観光都市京都のこれまでとは違う新しい魅力を取材しているところなの」
「以前、観光と芸能の仕事だけはしたくない、と言ったことがあったよな」
「まだ若かったのよ、あの頃は」
奈緒美は続けて言った。
「あなただって、ファッション写真だけは撮りたくない、って言っていたじゃないの」
「あれは喰う為に仕方なくやったことだ。でも、もう三年前に止めたよ」
「知っているわ。名の売れたあなたが何かの雑誌で語っているのを読んだから。あなたの為にはその方が良かった、と喜んでいたのよ、わたし」
気まずい瞬間が生まれた。
奈緒美はどう続けて良いのか迷っているようだった。可能な限り簡潔な言葉を探し出そうとでもするかのように、奈緒美はスプーンでコーヒーを掻き混ぜた。
「戦争や戦場や戦闘員や、地震や原発や、惨禍の人々やその土地を報道する、それがあなたの生き方なのね」
毅は微笑を浮かべた。
「ああ、それが僕の生き方だよ。危険な場所に身を置いて、埃まみれ、塵塗れ、泥まみれになっている」
奈緒美は小さく笑った。
毅はつづけた。
「君だってそうだったじゃないか。然も、あんなに有能だった。あの当時の君くらい有能な記者はそうザラには居なかったよ」
「記者の仕事って好きだったなぁ、わたし」
「今だってその気になれば出来るじゃないか」
ニュース番組のキャスターをしている彼女は、毎日スタジオに座って、テレプロンプターの掲げるニュースを読まなければならない。
「遠く離れて自分たちとは直接関わりの無い激動するシリアのニュースなどに、一般の日本人はあまり興味を持っていないのね。破壊された街や家、転がる死体、惨たらしい戦場、そんな悍ましいものを見たくないのよ、平和な日本人は。旅やファッションやグルメやお笑いのような毒にも薬にもならないものが観たいのよ、きっと。そんなものはシリア関係のニュースには決して登場しないからね。だから、この京都に派遣されたってわけ」
「此処だったら、その毒にも薬にもならないものが一杯在るってことか?外国人を初め観光客だらけで生粋の京都人が殆ど居ない、気品も風情も情緒も地に落ちたこの京都に何を観ようって言うんだ?」
「ええ。でも、替わりに観光客の落とすお金が溢れるほどに入って来るじゃない?お金には関心が有るんですもの、視聴者は」
毅は笑った。
低く笑いながら、同時に、アフガニスタンの戦地で危険に晒されながらも必死に抵抗した時の奈緒美を思い出していた。あの時、奈緒美は泣き叫びながら残ろうとしたのだった、絶対に最後まで見届けるんだ、と言って。あの時の取材では、それこそ数え切れないほどの死体や惨たらしい惨禍を目撃したのだが・・・
毅は言った。
「でも、なんとかシリアに行ってみるべきだよ。行かないとこの先の歴史的瞬間を見逃すことになるかも知れないぞ」
「わたしはこの侭、あなたを見逃す方が辛いの」
「今更、そんなことは言わないでくれよ。僕は歳を取り過ぎたよ。そう言うゲームはもう出来ないよ」
「ゲームとは違うと思うけど、これは」
「否、違わないよ。ただ、あの時、僕たちは別々のルールでゲームをしていたんだな、きっと」
長い沈黙が続いた。
低い声で奈緒美が言った。
「悪かったわ、ご免なさい、毅さん。此処に来たらあなたを怒らせることだけはしたくない、と思っていたの・・・。真実に私、もう随分前からあなたに逢いたかったのよ」
それには答えず毅は勘定を頼んだ。
外に出乍ら、彼は囁いた。
「僕も会いたかったよ、君に」
人が溢れかえる五条坂の交差点から清水坂の細い道を通って、彼女の泊まるホテルに足を向けた。
奈緒美が坂道の通りを見上げて何か言おうとした。
「そう言えば、あの時・・・」
「止そう、昔の話は。もう過ぎたことじゃないか。遠い昔の物語だよ」
だが、毅の脳裏には、嘗て東京神田の同じような坂下で、雨に濡れながら腕を組んでいた自分たち二人の姿が蘇っていた。あの時、肌まで沁み通って来る雨をもものともせず、靴を踏みしめて、二人は神田の書店街を抜け、坂の上のホテルに通じる長い道を登って行ったものだった。
アフガニスタンの取材から帰って来る毅を奈緒美は心待ちしていた。殺戮と死の凄絶な戦争の呪縛から心身を解き放つ為に二人は求め合った。
蠅のたかる死体の散乱するカンダハールの街から遥か遠く離れた雨の東京で、二人は丸二日間ホテルに閉じ籠った。そして、様々な誓いを交わし、将来を語り合った。笑い合って食事を摂った。愛し合った。耳を聾する空爆の爆音から遠く離れた東京の一角で・・・。
毅は身体を前に進めることが出来なくなった。両手をポケットに突込んだまま立ち止まって、彼は話の継歩を捜した。
「ご主人はどうして居るんだい?」
「別れたわ、あの人とは」
毅はまじまじと奈緒美の顔を見た。
「悪かった。僕はてっきり・・・。でも、彼はとても良くしてくれる、って君は言いていたじゃないか」
「ええ、そう。でも、私が彼を辛く苦しめたの、結果的には」
奈緒美は眼を逸らした。
不意に風が立って、店の前の幟がはためいた。
「あの人の紹介と引き立てで私はテレビ界に入り、スターになった」
「その美貌が大いに役立ったと言うわけだ」
「皮肉は言わないで」
奈緒美は続けた。
「でも、それが返ってあの人の辛苦の基になったのよ。スターキャスターを妻に持つと言う境遇があの人には重荷になったのね。或る時、突然に転職して・・・それから次々と職を変えるようになった、それをみんな私の所為にして。世間の誰もが私のヒモの如くにあの人を見るようになった。それが決定的だったみたい。いつしか酒に溺れるようになって、とうとう或る日、荷物を纏めて出て行ってしまったの」
「優しそうな男だったのに、な」
「優しそうではあっても、優しくはなかったわ」
「君だってそうだった」
「ええ、私もそうだった」
すると、毅の頭にアフリカの取材から三週間ぶりに戻った日の記憶が甦った。
羽田空港からタクシーを飛ばして二人のマンションに駆け戻ると、奈緒美の持ち物が一切合切消えていた。衣類や化粧品から、タオルやティーポットまで全て消えていた。彼女の本も書棚から引き抜かれて、跡には歯の抜けた櫛のように隙間が出来ていた。呆気無いほど簡潔な書置きが残っていた。
翌日、毅は友人から奈緒美の番号を聞き出して電話した。慎重に言葉を選び、逸る感情を抑えて彼女と話した。
「戻って来てくれないか」
「ご免なさい。わたし、思い切ってこうするしかなかったの。わたしにとってはとても重要な選択なの。一生で一番重要な選択かも知れない。わたしがあの人に巡り合った、と言うか、あの人が私を見つけてくれたのかも知れないけど、これを機会に新しい道に進んでみたいのよ。新しい仕事を始める心算なの、テレビの世界で自分を試してみようと思って・・・」
「顔や姿の映るテレビの方が君の美貌を引き立たせると言うのか?」
彼女はそれには答えずに、続けた。
「ご免なさいね、真実に。もしかすると、わたし、間違った選択をしているのかも知れないけど、でも、兎に角やってみなきゃ、間違っているかどうかも判らないしね」
要するに、そう言うことだった。
一方的で突然の別離。受話器を置いた時、毅は、奈緒美が去って行く・・・もう東京には居られない、と思った。奈緒美が新しい男、あの熱っぽい貪欲そうな眼をした下らない男とこの街に、そう遠くも無い目と鼻の先に、住んでいるのを知りながら、此処に住み続けることなど出来っこない。毅は生まれ育った故郷の京都に戻って活動の拠点を関西に移した。それ以後、唯の一言も奈緒美と話さなかったし、それっきり、今日まで逢うことも無かった。
「でも・・・」
あれから何年も経った中秋のこの夜、京都清水道の坂下で奈緒美は言った。
「わたしは天から罰を受けたわ。あなたに冷たくしたあの日の罰を。だって、あなたと言う掛け替えの無い人を失ったんですもの」
毅が何か言おうとした時、突然、雨が降り始めた。
初めは小降りだったのが、直ぐに篠突くような本降りに変わった。溢れかえっていた観光客は蜘蛛の子を蹴散らすようにタクシーに乗り込んだり、店々に入り込んだりして、忽ち街路から姿を消した。
不意に、毅は奈緒美の手を捕った。そして、遥か昔の無鉄砲なあの神田の夜のように、人気の絶えた長い坂を上り始めた。
最初、奈緒美はその勢いに気圧され、上衣を頭に被って、よろめきながら従いて来た。ハイヒールを履いて居た所為で足元が不確かだった。
その内、あの晩を思い出したように、奈緒美は笑い出した。そして、ハイヒールを蹴り捨てるように脱いだ。
叩きつけるような雨が二人の歳月と傷を洗い流した・・・。
奈緒美は毅の身体にしがみついて、一緒に坂を上って行った、雨に煙る街を後にして・・・
奈緒美は言った。
「京都に来たのはね、あなたを取り戻す為だったの」
毅は答えた。
「そうか。じゃあ、目的は果たしたことになるね」
「わたし、十日ほど、テレビの取材で京都に居るの。是非お会いしたいんだけど・・・」
奈緒美・・・京都に来ているのか・・・
レストランの仄暗い灯の下で見る奈緒美は記憶に有るよりはずっと美貌だった。
瓜実顔に感じの良い小さめの唇、間隔の開いた円らな黒い瞳、微笑むと出来る片笑窪は整った顔立ちを際立たせている。その美貌に毅は己の心の始末が悪いほどに見惚れた。
無論、その美貌はジャーナリストとしての奈緒美に幸いしたが、反面、彼女の足を引っ張るものでもあった。年配の記者や老練な編集者には、これほどの美人が記者としての実力を具えているとは信じられなかったのである。奈緒美は自らの美貌に打ち克つ為に、同僚たちの何倍も働かなければならなかった。
「今、取材班を組んで観光都市京都のこれまでとは違う新しい魅力を取材しているところなの」
「以前、観光と芸能の仕事だけはしたくない、と言ったことがあったよな」
「まだ若かったのよ、あの頃は」
奈緒美は続けて言った。
「あなただって、ファッション写真だけは撮りたくない、って言っていたじゃないの」
「あれは喰う為に仕方なくやったことだ。でも、もう三年前に止めたよ」
「知っているわ。名の売れたあなたが何かの雑誌で語っているのを読んだから。あなたの為にはその方が良かった、と喜んでいたのよ、わたし」
気まずい瞬間が生まれた。
奈緒美はどう続けて良いのか迷っているようだった。可能な限り簡潔な言葉を探し出そうとでもするかのように、奈緒美はスプーンでコーヒーを掻き混ぜた。
「戦争や戦場や戦闘員や、地震や原発や、惨禍の人々やその土地を報道する、それがあなたの生き方なのね」
毅は微笑を浮かべた。
「ああ、それが僕の生き方だよ。危険な場所に身を置いて、埃まみれ、塵塗れ、泥まみれになっている」
奈緒美は小さく笑った。
毅はつづけた。
「君だってそうだったじゃないか。然も、あんなに有能だった。あの当時の君くらい有能な記者はそうザラには居なかったよ」
「記者の仕事って好きだったなぁ、わたし」
「今だってその気になれば出来るじゃないか」
ニュース番組のキャスターをしている彼女は、毎日スタジオに座って、テレプロンプターの掲げるニュースを読まなければならない。
「遠く離れて自分たちとは直接関わりの無い激動するシリアのニュースなどに、一般の日本人はあまり興味を持っていないのね。破壊された街や家、転がる死体、惨たらしい戦場、そんな悍ましいものを見たくないのよ、平和な日本人は。旅やファッションやグルメやお笑いのような毒にも薬にもならないものが観たいのよ、きっと。そんなものはシリア関係のニュースには決して登場しないからね。だから、この京都に派遣されたってわけ」
「此処だったら、その毒にも薬にもならないものが一杯在るってことか?外国人を初め観光客だらけで生粋の京都人が殆ど居ない、気品も風情も情緒も地に落ちたこの京都に何を観ようって言うんだ?」
「ええ。でも、替わりに観光客の落とすお金が溢れるほどに入って来るじゃない?お金には関心が有るんですもの、視聴者は」
毅は笑った。
低く笑いながら、同時に、アフガニスタンの戦地で危険に晒されながらも必死に抵抗した時の奈緒美を思い出していた。あの時、奈緒美は泣き叫びながら残ろうとしたのだった、絶対に最後まで見届けるんだ、と言って。あの時の取材では、それこそ数え切れないほどの死体や惨たらしい惨禍を目撃したのだが・・・
毅は言った。
「でも、なんとかシリアに行ってみるべきだよ。行かないとこの先の歴史的瞬間を見逃すことになるかも知れないぞ」
「わたしはこの侭、あなたを見逃す方が辛いの」
「今更、そんなことは言わないでくれよ。僕は歳を取り過ぎたよ。そう言うゲームはもう出来ないよ」
「ゲームとは違うと思うけど、これは」
「否、違わないよ。ただ、あの時、僕たちは別々のルールでゲームをしていたんだな、きっと」
長い沈黙が続いた。
低い声で奈緒美が言った。
「悪かったわ、ご免なさい、毅さん。此処に来たらあなたを怒らせることだけはしたくない、と思っていたの・・・。真実に私、もう随分前からあなたに逢いたかったのよ」
それには答えず毅は勘定を頼んだ。
外に出乍ら、彼は囁いた。
「僕も会いたかったよ、君に」
人が溢れかえる五条坂の交差点から清水坂の細い道を通って、彼女の泊まるホテルに足を向けた。
奈緒美が坂道の通りを見上げて何か言おうとした。
「そう言えば、あの時・・・」
「止そう、昔の話は。もう過ぎたことじゃないか。遠い昔の物語だよ」
だが、毅の脳裏には、嘗て東京神田の同じような坂下で、雨に濡れながら腕を組んでいた自分たち二人の姿が蘇っていた。あの時、肌まで沁み通って来る雨をもものともせず、靴を踏みしめて、二人は神田の書店街を抜け、坂の上のホテルに通じる長い道を登って行ったものだった。
アフガニスタンの取材から帰って来る毅を奈緒美は心待ちしていた。殺戮と死の凄絶な戦争の呪縛から心身を解き放つ為に二人は求め合った。
蠅のたかる死体の散乱するカンダハールの街から遥か遠く離れた雨の東京で、二人は丸二日間ホテルに閉じ籠った。そして、様々な誓いを交わし、将来を語り合った。笑い合って食事を摂った。愛し合った。耳を聾する空爆の爆音から遠く離れた東京の一角で・・・。
毅は身体を前に進めることが出来なくなった。両手をポケットに突込んだまま立ち止まって、彼は話の継歩を捜した。
「ご主人はどうして居るんだい?」
「別れたわ、あの人とは」
毅はまじまじと奈緒美の顔を見た。
「悪かった。僕はてっきり・・・。でも、彼はとても良くしてくれる、って君は言いていたじゃないか」
「ええ、そう。でも、私が彼を辛く苦しめたの、結果的には」
奈緒美は眼を逸らした。
不意に風が立って、店の前の幟がはためいた。
「あの人の紹介と引き立てで私はテレビ界に入り、スターになった」
「その美貌が大いに役立ったと言うわけだ」
「皮肉は言わないで」
奈緒美は続けた。
「でも、それが返ってあの人の辛苦の基になったのよ。スターキャスターを妻に持つと言う境遇があの人には重荷になったのね。或る時、突然に転職して・・・それから次々と職を変えるようになった、それをみんな私の所為にして。世間の誰もが私のヒモの如くにあの人を見るようになった。それが決定的だったみたい。いつしか酒に溺れるようになって、とうとう或る日、荷物を纏めて出て行ってしまったの」
「優しそうな男だったのに、な」
「優しそうではあっても、優しくはなかったわ」
「君だってそうだった」
「ええ、私もそうだった」
すると、毅の頭にアフリカの取材から三週間ぶりに戻った日の記憶が甦った。
羽田空港からタクシーを飛ばして二人のマンションに駆け戻ると、奈緒美の持ち物が一切合切消えていた。衣類や化粧品から、タオルやティーポットまで全て消えていた。彼女の本も書棚から引き抜かれて、跡には歯の抜けた櫛のように隙間が出来ていた。呆気無いほど簡潔な書置きが残っていた。
翌日、毅は友人から奈緒美の番号を聞き出して電話した。慎重に言葉を選び、逸る感情を抑えて彼女と話した。
「戻って来てくれないか」
「ご免なさい。わたし、思い切ってこうするしかなかったの。わたしにとってはとても重要な選択なの。一生で一番重要な選択かも知れない。わたしがあの人に巡り合った、と言うか、あの人が私を見つけてくれたのかも知れないけど、これを機会に新しい道に進んでみたいのよ。新しい仕事を始める心算なの、テレビの世界で自分を試してみようと思って・・・」
「顔や姿の映るテレビの方が君の美貌を引き立たせると言うのか?」
彼女はそれには答えずに、続けた。
「ご免なさいね、真実に。もしかすると、わたし、間違った選択をしているのかも知れないけど、でも、兎に角やってみなきゃ、間違っているかどうかも判らないしね」
要するに、そう言うことだった。
一方的で突然の別離。受話器を置いた時、毅は、奈緒美が去って行く・・・もう東京には居られない、と思った。奈緒美が新しい男、あの熱っぽい貪欲そうな眼をした下らない男とこの街に、そう遠くも無い目と鼻の先に、住んでいるのを知りながら、此処に住み続けることなど出来っこない。毅は生まれ育った故郷の京都に戻って活動の拠点を関西に移した。それ以後、唯の一言も奈緒美と話さなかったし、それっきり、今日まで逢うことも無かった。
「でも・・・」
あれから何年も経った中秋のこの夜、京都清水道の坂下で奈緒美は言った。
「わたしは天から罰を受けたわ。あなたに冷たくしたあの日の罰を。だって、あなたと言う掛け替えの無い人を失ったんですもの」
毅が何か言おうとした時、突然、雨が降り始めた。
初めは小降りだったのが、直ぐに篠突くような本降りに変わった。溢れかえっていた観光客は蜘蛛の子を蹴散らすようにタクシーに乗り込んだり、店々に入り込んだりして、忽ち街路から姿を消した。
不意に、毅は奈緒美の手を捕った。そして、遥か昔の無鉄砲なあの神田の夜のように、人気の絶えた長い坂を上り始めた。
最初、奈緒美はその勢いに気圧され、上衣を頭に被って、よろめきながら従いて来た。ハイヒールを履いて居た所為で足元が不確かだった。
その内、あの晩を思い出したように、奈緒美は笑い出した。そして、ハイヒールを蹴り捨てるように脱いだ。
叩きつけるような雨が二人の歳月と傷を洗い流した・・・。
奈緒美は毅の身体にしがみついて、一緒に坂を上って行った、雨に煙る街を後にして・・・
奈緒美は言った。
「京都に来たのはね、あなたを取り戻す為だったの」
毅は答えた。
「そうか。じゃあ、目的は果たしたことになるね」
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