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⑰明かされた真実
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東京行きの新幹線が発車した後、小宮美沙は空席になっている隣の座席に新聞を置き、シートを斜め後ろに倒して眼を閉じた。直ぐに、浅い眠りに落ちた。
目を覚ました後、彼女はシートの下の足元に置いたアタッシュケースに手を伸ばして仕事用のファイルを取り出した。
美紗がふと顔を上げたその時だった。一人の男性が通路を歩いて此方に向かって来た。
ダークブラウンのシャツとズボンにツイードのジャケットを合わせている。男は薄い茶色がかった眼鏡で眼を隠し、片手をズボンのポケットに入れて、大股の急ぎ足で此方に向かい乍ら、何か考え事をしている様子だった。
・・・彼だわ!何ということだろう!
「忠彦さん!」
男は美沙に目を凝らし、やがて何かに気付くと、眼鏡の奥で何度か素早く瞬きをし、繁々と彼女を見た。
「君か?・・・」
男は小さな叫び声を上げ、真白い歯を見せて微笑した。
「美紗!」
彼女は立ち上がった。二人は笑い合い、ごく自然に互いの両肘を抱え合った。
「驚いたわ。眼鏡を架けているんだもの。それに、スーツじゃなくてラフなジャケットにノーネクタイ!まるで人が変わったみたいね」
そんな風に言う美沙の声の調子は、嘗て、五年前まで、互いが狂おしいほどに激しい恋の相手であった頃と同じように、明るかった。彼女の眼の前に居る水谷忠彦は、嘗て、彼女が結婚することになっていた相手だったのである。
「立ち話もなんだから、食堂車へ行かないか?」
「うん、そうね。それじゃ一緒にお昼を食べましょうか。五年振りなんだものね」
食堂車は比較的空いていた。二人は窓際の白いテーブルに向かい合って座った。忠彦が手慣れた様子で、美沙にはスモークド・サーモン・サンドイッチと自分にはシュリンプサラダを注文した。
美沙は陽に焼けた忠彦の貌を見ながら驚くほどの早口で話し始めた。
「わたし、今、大手の銀行のコンピューター・オペレーションに関するコーディネーターをしているの」
「へえ、凄い仕事なんだな」
「一年前に結婚して子供は未だだけど、夫は小児科医なの」
「なるほど。それなりに幸福な生活を送っているんだ」
「あなたは今、どんなお仕事を?」
彼はサラダをつつきながら短く答えた。
「俺は、売れない映画のシナリオを書いているよ」
「まあ、素敵なお仕事なのね」
美沙は忠彦の貌を見ながら、昔と変わらず、やっぱり良い男振りなのを確認していた。
眼の周りにはうっすらと小さな皺が現れてはいるけれども、高い鼻梁の顔には張りが在り、顎の辺りはすっきりと余分な肉が無く、髭剃り後はつやつやと輝いている。
やがて、舞い上がったような再会の興奮が鎮まると、二人の間に妙に居心地の悪い雰囲気が漂い出した。二人とも暫くの間、黙って食べ物を口に運んだ。
「もう五年になるのね」
美沙が口を切った。
彼女は自分の声が上辺だけの落ち着きを装っていることに苛つきながらも平静に話した。
「五年も前に起こったことについて、あなたとこうして話し合うなんて思ってもみなかったわ」
美沙は飲物を一口、呑み込んだ。
「あれは、何日のことだったかしら?」
彼女は窓の外を流れる景色に視線を投げかけながら少し微笑んだ。
五年前の夏、暑い夜にすっぽりと包まれていたあの日、突然に忠彦は美沙の前から姿を消してしまった。
「何があったの?ねぇ、忠彦さん?」
美沙は出来るだけさり気なく訊いてみた。が、忠彦は急に黙りこくってしまった。
美紗は眼の前のテーブルをじっと見つめ、やがて、遠い所から聞こえてくるような声で話し出した。
「あの後、二年経っても私、あなたを捜していたの。あなたと行った処へは全て行ってみたわ。サイクリングロードを走り、琵琶湖へ行き、神戸にも行ってみた。イブの夜には“北山ウエディングストリート”にも行ったし、お正月には地主神社にも出かけたの」
「悪かったよ!美沙」
美沙は忠彦の言葉を無視するかのように続けた。
「わたし、あのことから未だちゃんと立ち直っていないの。あなたが行ってしまってから何週間も泣いたわ。死んでしまいたいとも思った。あなたの写真は前部燃やしちゃったし、あなたに関わるものは全て何もかも・・・でも、それでも役に立たなかったわ」
「君を傷つける心算は無かったんだ、誰も傷つけたくはなかった、真実に・・・」
その時、美沙の感情が急に盛り上がって哀しみが一気に噴き出した。
「そりゃ、あなたとの後、夫と結婚するまでには、色々あったわ」
淋し気な口調で美沙が続けた。
「私は自分に言い聞かせたの。あなたから解放されなきゃ駄目だって・・・そして、ジャズを聴くことは止めた。だってあれを聴くとあなたを思い出すし・・・サイクリングも止めた。それもあなたを思い出すから。イブを祝うことも止めたし初詣にも行かなくなった。全部あなたを思い出すから・・・あなたと行った場所、あなたと歩いた街、あなたと一緒にやったこと、全てを消し去ったの。そして、仕事も変えて自立を図ったわ」
美沙は無理して微笑っているような表情を見せた。
「今の主人に出会って漸く私は救われたの。あの人はまるで子供をカウンセリングするようにして私の心をゆっくりと溶き解してくれた、一年以上もの時間をかけて。そして今、ご覧の通りの私が此処にこうして居るってわけ。だから、今は幸せな結婚生活を送っているわ」
忠彦は俯きながら小さく言った。
「そうか・・・それは、良かったぁ・・・」
美沙が続けた。
「別に謝って貰う心算でこんなことを言っているんじゃないのよ、忠彦さん。わたしには一体何が起こったのかまるで解らない。そのことがずっと気に懸っていたの。長い間、私は自分を責めた。きっとあなたに対して優しさが足りなかったんだって。それに知性も美貌も不足していたし・・・一生懸命になって自分を責めては言い聞かせたの、私に何かが足りなかったんだって・・・夫と出逢った後になって漸く私はそういう自責の念から少しは解放されたけれども、でもやっぱり、あなたと私の二人の間に実際に何が有ったのかは解らないままだったわ」
美沙はそこまで言って、じっと忠彦の顔を見た。
忠彦は寂しそうな悲しそうな面持ちで頭を振った。
「今なら君も理解出来るだろうと思うから、もう話すけど・・・俺は男の機能を失ったんだ、あの事故で」
「えっ?何ですって?」
「男として不能になってしまったんだよ、五年前のあの交通事故で」
「まさか・・・そんな・・・」
言いながら美沙は忠彦の顔をまじまじと見詰めた。
五年前の五月、青空に薫風香る交差点で、信号を無視して突っ込んで来た大型トラックに激突された忠彦の乗用車は原型を留めぬほどに大破して、彼はその中に閉じ込められた。漸く助け出された忠彦は腰の骨と大腿骨を折り、脊椎にも損傷を負って二か月間の入院生活を余儀なくされた。その間、美沙は献身的に忠彦の看病と介護に力を尽くし、その甲斐あって、彼は、身体的損傷はほぼ跡形を残さずに治癒した。退院の日には、忠彦の乗った車椅子を満面の笑顔を浮かべた美紗が後を押して、病院の玄関を出た。季節は既に炎天の夏を迎えていた。
話を聴いていた美沙が両手で顔を覆って啜り泣きを始め、途切れ途切れに言葉を繋いだ。
「わたしって・・・なんて・・・無知で、無神経で、馬鹿だったんだろう・・・」
「君は優しかったよ。無神経でも馬鹿でもなかったよ。真実に良く尽くしてくれたんだ。心から感謝しているよ」
美沙は静かに泣き続けた。
「俺は君を心底、愛していた。だから、入院中も退院してからも、丸三か月間、考えに考えた。三カ月苦しみ悩んで、漸く、君の元を黙って去ることにしたんだ」
「可哀相な、あなた・・・」
暫くして美沙が言った。
「でも、打ち明けてくれれば、わたし、あなたと結婚したものを・・・傍に一緒に居てあげられたのに・・・」
「君ならきっとそう言うだろうと俺も思った。だが、それが怖かったんだよ、俺は」
美沙が顔を上げて忠彦を見た。眼の縁が赤かった。
「一年、二年は良いよ。四年、五年も良しとしよう。だが、十年或は二十年が経った時、君に人並みの女の幸せを与えられなかった大きな後悔がきっと来る。その時はもう手遅れなんだ。君に一生涯、尼僧のような暮らしは強いられない。君には、心身共に健康な夫を持ち、子供にも恵まれる人生を送って欲しい、俺はそう思った。だから、このことは言わないでおこうと心に決めて、君の元を去ったんだ。それしか道が無かったんだよ」
美沙は黙ったまま放心したように眼を上げて窓の外を眺めて居た。
忠彦が言った。
「幸い、君は俺以上の人物に巡り会って、今、幸せで居るならそれに越したことは無い。俺も真実に嬉しいよ」
「・・・・・」
暫くして、美沙が呼びかけた。
「忠彦さん、許して・・・あなたの苦悩を何も知らないで・・・わたし、何と言ってあなたに謝ったら良いのか・・・」
忠彦が美沙の手を取った。
「君は何も謝ることなんか無いよ。謝らなければならないのは俺の方だ」
蒼ざめていた美沙の顔に幾らか血の色が戻っていた。不意にもう一度、泣き出しそうな表情になったが、泣き出しはせずにはにかむように笑って忠彦の顔を見た。
「愛していたの、わたし、心から・・・」
「ああ、解っているよ、美沙。俺も君に夢中だった・・・でも、もう過ぎてしまった昔の話だ」
二人は暫く、お互いを見詰め合った。沈黙が続いた。
やがて美沙が言った。
「あぁ、もう直ぐ東京だわ、そろそろ自分の席へ戻らなくっちゃ」
「うん、そうだな」
忠彦は座席から立ち上がる美沙に手を貸した。
その時、カーブに差し掛かった列車が揺れて美沙の身体が大きくよろめいた。忠彦は咄嗟に手を伸ばして彼女を抱えると、両腕に抱き締めた。忠彦の方を向いた美沙は首を縦に大きく振り、何度も頷きながら、にっこり笑った。
忠彦はゆっくりと歩み去る美沙の後姿を心に包み込むようにじっと見送った。
目を覚ました後、彼女はシートの下の足元に置いたアタッシュケースに手を伸ばして仕事用のファイルを取り出した。
美紗がふと顔を上げたその時だった。一人の男性が通路を歩いて此方に向かって来た。
ダークブラウンのシャツとズボンにツイードのジャケットを合わせている。男は薄い茶色がかった眼鏡で眼を隠し、片手をズボンのポケットに入れて、大股の急ぎ足で此方に向かい乍ら、何か考え事をしている様子だった。
・・・彼だわ!何ということだろう!
「忠彦さん!」
男は美沙に目を凝らし、やがて何かに気付くと、眼鏡の奥で何度か素早く瞬きをし、繁々と彼女を見た。
「君か?・・・」
男は小さな叫び声を上げ、真白い歯を見せて微笑した。
「美紗!」
彼女は立ち上がった。二人は笑い合い、ごく自然に互いの両肘を抱え合った。
「驚いたわ。眼鏡を架けているんだもの。それに、スーツじゃなくてラフなジャケットにノーネクタイ!まるで人が変わったみたいね」
そんな風に言う美沙の声の調子は、嘗て、五年前まで、互いが狂おしいほどに激しい恋の相手であった頃と同じように、明るかった。彼女の眼の前に居る水谷忠彦は、嘗て、彼女が結婚することになっていた相手だったのである。
「立ち話もなんだから、食堂車へ行かないか?」
「うん、そうね。それじゃ一緒にお昼を食べましょうか。五年振りなんだものね」
食堂車は比較的空いていた。二人は窓際の白いテーブルに向かい合って座った。忠彦が手慣れた様子で、美沙にはスモークド・サーモン・サンドイッチと自分にはシュリンプサラダを注文した。
美沙は陽に焼けた忠彦の貌を見ながら驚くほどの早口で話し始めた。
「わたし、今、大手の銀行のコンピューター・オペレーションに関するコーディネーターをしているの」
「へえ、凄い仕事なんだな」
「一年前に結婚して子供は未だだけど、夫は小児科医なの」
「なるほど。それなりに幸福な生活を送っているんだ」
「あなたは今、どんなお仕事を?」
彼はサラダをつつきながら短く答えた。
「俺は、売れない映画のシナリオを書いているよ」
「まあ、素敵なお仕事なのね」
美沙は忠彦の貌を見ながら、昔と変わらず、やっぱり良い男振りなのを確認していた。
眼の周りにはうっすらと小さな皺が現れてはいるけれども、高い鼻梁の顔には張りが在り、顎の辺りはすっきりと余分な肉が無く、髭剃り後はつやつやと輝いている。
やがて、舞い上がったような再会の興奮が鎮まると、二人の間に妙に居心地の悪い雰囲気が漂い出した。二人とも暫くの間、黙って食べ物を口に運んだ。
「もう五年になるのね」
美沙が口を切った。
彼女は自分の声が上辺だけの落ち着きを装っていることに苛つきながらも平静に話した。
「五年も前に起こったことについて、あなたとこうして話し合うなんて思ってもみなかったわ」
美沙は飲物を一口、呑み込んだ。
「あれは、何日のことだったかしら?」
彼女は窓の外を流れる景色に視線を投げかけながら少し微笑んだ。
五年前の夏、暑い夜にすっぽりと包まれていたあの日、突然に忠彦は美沙の前から姿を消してしまった。
「何があったの?ねぇ、忠彦さん?」
美沙は出来るだけさり気なく訊いてみた。が、忠彦は急に黙りこくってしまった。
美紗は眼の前のテーブルをじっと見つめ、やがて、遠い所から聞こえてくるような声で話し出した。
「あの後、二年経っても私、あなたを捜していたの。あなたと行った処へは全て行ってみたわ。サイクリングロードを走り、琵琶湖へ行き、神戸にも行ってみた。イブの夜には“北山ウエディングストリート”にも行ったし、お正月には地主神社にも出かけたの」
「悪かったよ!美沙」
美沙は忠彦の言葉を無視するかのように続けた。
「わたし、あのことから未だちゃんと立ち直っていないの。あなたが行ってしまってから何週間も泣いたわ。死んでしまいたいとも思った。あなたの写真は前部燃やしちゃったし、あなたに関わるものは全て何もかも・・・でも、それでも役に立たなかったわ」
「君を傷つける心算は無かったんだ、誰も傷つけたくはなかった、真実に・・・」
その時、美沙の感情が急に盛り上がって哀しみが一気に噴き出した。
「そりゃ、あなたとの後、夫と結婚するまでには、色々あったわ」
淋し気な口調で美沙が続けた。
「私は自分に言い聞かせたの。あなたから解放されなきゃ駄目だって・・・そして、ジャズを聴くことは止めた。だってあれを聴くとあなたを思い出すし・・・サイクリングも止めた。それもあなたを思い出すから。イブを祝うことも止めたし初詣にも行かなくなった。全部あなたを思い出すから・・・あなたと行った場所、あなたと歩いた街、あなたと一緒にやったこと、全てを消し去ったの。そして、仕事も変えて自立を図ったわ」
美沙は無理して微笑っているような表情を見せた。
「今の主人に出会って漸く私は救われたの。あの人はまるで子供をカウンセリングするようにして私の心をゆっくりと溶き解してくれた、一年以上もの時間をかけて。そして今、ご覧の通りの私が此処にこうして居るってわけ。だから、今は幸せな結婚生活を送っているわ」
忠彦は俯きながら小さく言った。
「そうか・・・それは、良かったぁ・・・」
美沙が続けた。
「別に謝って貰う心算でこんなことを言っているんじゃないのよ、忠彦さん。わたしには一体何が起こったのかまるで解らない。そのことがずっと気に懸っていたの。長い間、私は自分を責めた。きっとあなたに対して優しさが足りなかったんだって。それに知性も美貌も不足していたし・・・一生懸命になって自分を責めては言い聞かせたの、私に何かが足りなかったんだって・・・夫と出逢った後になって漸く私はそういう自責の念から少しは解放されたけれども、でもやっぱり、あなたと私の二人の間に実際に何が有ったのかは解らないままだったわ」
美沙はそこまで言って、じっと忠彦の顔を見た。
忠彦は寂しそうな悲しそうな面持ちで頭を振った。
「今なら君も理解出来るだろうと思うから、もう話すけど・・・俺は男の機能を失ったんだ、あの事故で」
「えっ?何ですって?」
「男として不能になってしまったんだよ、五年前のあの交通事故で」
「まさか・・・そんな・・・」
言いながら美沙は忠彦の顔をまじまじと見詰めた。
五年前の五月、青空に薫風香る交差点で、信号を無視して突っ込んで来た大型トラックに激突された忠彦の乗用車は原型を留めぬほどに大破して、彼はその中に閉じ込められた。漸く助け出された忠彦は腰の骨と大腿骨を折り、脊椎にも損傷を負って二か月間の入院生活を余儀なくされた。その間、美沙は献身的に忠彦の看病と介護に力を尽くし、その甲斐あって、彼は、身体的損傷はほぼ跡形を残さずに治癒した。退院の日には、忠彦の乗った車椅子を満面の笑顔を浮かべた美紗が後を押して、病院の玄関を出た。季節は既に炎天の夏を迎えていた。
話を聴いていた美沙が両手で顔を覆って啜り泣きを始め、途切れ途切れに言葉を繋いだ。
「わたしって・・・なんて・・・無知で、無神経で、馬鹿だったんだろう・・・」
「君は優しかったよ。無神経でも馬鹿でもなかったよ。真実に良く尽くしてくれたんだ。心から感謝しているよ」
美沙は静かに泣き続けた。
「俺は君を心底、愛していた。だから、入院中も退院してからも、丸三か月間、考えに考えた。三カ月苦しみ悩んで、漸く、君の元を黙って去ることにしたんだ」
「可哀相な、あなた・・・」
暫くして美沙が言った。
「でも、打ち明けてくれれば、わたし、あなたと結婚したものを・・・傍に一緒に居てあげられたのに・・・」
「君ならきっとそう言うだろうと俺も思った。だが、それが怖かったんだよ、俺は」
美沙が顔を上げて忠彦を見た。眼の縁が赤かった。
「一年、二年は良いよ。四年、五年も良しとしよう。だが、十年或は二十年が経った時、君に人並みの女の幸せを与えられなかった大きな後悔がきっと来る。その時はもう手遅れなんだ。君に一生涯、尼僧のような暮らしは強いられない。君には、心身共に健康な夫を持ち、子供にも恵まれる人生を送って欲しい、俺はそう思った。だから、このことは言わないでおこうと心に決めて、君の元を去ったんだ。それしか道が無かったんだよ」
美沙は黙ったまま放心したように眼を上げて窓の外を眺めて居た。
忠彦が言った。
「幸い、君は俺以上の人物に巡り会って、今、幸せで居るならそれに越したことは無い。俺も真実に嬉しいよ」
「・・・・・」
暫くして、美沙が呼びかけた。
「忠彦さん、許して・・・あなたの苦悩を何も知らないで・・・わたし、何と言ってあなたに謝ったら良いのか・・・」
忠彦が美沙の手を取った。
「君は何も謝ることなんか無いよ。謝らなければならないのは俺の方だ」
蒼ざめていた美沙の顔に幾らか血の色が戻っていた。不意にもう一度、泣き出しそうな表情になったが、泣き出しはせずにはにかむように笑って忠彦の顔を見た。
「愛していたの、わたし、心から・・・」
「ああ、解っているよ、美沙。俺も君に夢中だった・・・でも、もう過ぎてしまった昔の話だ」
二人は暫く、お互いを見詰め合った。沈黙が続いた。
やがて美沙が言った。
「あぁ、もう直ぐ東京だわ、そろそろ自分の席へ戻らなくっちゃ」
「うん、そうだな」
忠彦は座席から立ち上がる美沙に手を貸した。
その時、カーブに差し掛かった列車が揺れて美沙の身体が大きくよろめいた。忠彦は咄嗟に手を伸ばして彼女を抱えると、両腕に抱き締めた。忠彦の方を向いた美沙は首を縦に大きく振り、何度も頷きながら、にっこり笑った。
忠彦はゆっくりと歩み去る美沙の後姿を心に包み込むようにじっと見送った。
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