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⑳秘めた思い
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東京から単身赴任している高井健二が毎日の夕食を京のおばんざい屋「あだち」で摂るようになってから丸四年になろうとする三月中旬、その時刻に「あだち」の客は高井一人だった。閉店間際の午後九時過ぎ、彼は先程から店の外の雨音を聞きながら、頭の中で言葉を捜していた。女将の信子は高井のいつもの「おまかせ」惣菜を見繕ってお盆の上に並べていた。
高井が出されているお通しを肴に熱い燗酒を一口啜った時、信子が料理の載ったお盆をカウンターの上に置いて密やかに微笑いかけた。
信子はじっと高井の眼を覗き込みながら不安げに問いかけた。
「何か、心配事が有るみたいですね、高井さん」
柔らかい穏やかな口調であった。
「ええ」
高井は深く息を吸い込んだ。
「実は・・・今度、東京へ帰ることになったんです、配置換えで。本社勤務を命じられました」
「そう、ですか・・・」
信子はそれっ切り黙って俯いた。
それから、高井の視線を避けるように身体を回して、くるりと背を向けた。信子の滑らかな肩の線が何かを耐えるように、一瞬、震えた。
信子の胸に高井が初めて「あだち」にやって来た日のことが哀切の思いと共に鮮明に蘇えった。
四年前の四月初め、一人の男が店に入って来た。黒くて太い眉、切れ長の鋭い眼、筋の通った鼻梁、百八十センチを超える長身痩躯、白いワイシャツにきりりと結ばれた濃紺のネクタイ、背筋をピンと伸ばして大股で歩く、歳の頃は四十歳くらいの如何にもビジネスマン然とした男だった。
「おこしやす」
女将の信子が愛嬌良い笑顔で迎え入れた。彼女は三十歳中半、嶋のお召に西陣帯を締めてその上に白い割烹着を羽織っていた。零れる笑顔に気品が在った。
「どうぞ、此方へ」
信子が案内したのはカウンターの一番奥の席だった。彼は椅子に腰かけながら、店内に掲げられたメニューを眺め、「おまかせ」を注文した。
「あっ、それから、熱燗二本も一緒に・・・」
「はい」
信子は急いでてきぱきと品を揃え、酒の癇を始めた。
男は、次の日も、その次の日も、独りでやって来た。その間、男は料理を注文する以外に口を利くことはなかった。男は寡黙だった。黙々と独りで食べ、独りで飲んで、一時間ほどで帰って行った。
そして、四日目の夜に、信子に、躊躇いがちに、一つの頼み事をした。
「明日から毎晩、此方で晩飯を食べさせて頂けないでしょうか?」
「はいっ?」
「三日間通わせて頂きまして、大変に美味しかったものですから、もし可能ならばお世話になりたいと・・・」
「そうですか、有難うございます。解りました。うちで宜しければ承ります」
男は近くに在る大企業の技師で名を高井健二と言った。彼は長い身体を九十度に折り曲げて礼を言った。
それから高井は毎晩八時前後にやって来て晩酌と夕食を愉しみ、きっちり一時間で帰って行った。相変わらず、聞かれたことに答える以外には必要最小限のことしか話さず、独りで寡黙に時を過ごすのだった。そうかと言って、不機嫌であったり不愉快であったりという風ではなく、一日の仕事を終えて穏やかにゆっくりと寛いでいるのは信子の眼にも明らかだった。
高井は無口だったが律儀だった。席は何時も一番奥のカウンターの隅で他の客の邪魔にならないようにひっそりと腰かけたし、食べた後の食器類はきちんとカウンターに一つずつ戻した。お代は毎日キチンと殆ど釣銭の要らないようにして支払った。
暫くして、高井の方へ振り向いた信子の口元が微かにヒクついていた。
「そうですか、愈々、お帰りになるのですか・・・」
高井はぬるくなった酒を猪口に移して一気に飲み乾した。苦い舌触りだった。
唐突に信子が聞いて来た。
「ねえ、あの日のことを覚えていますか?太陽が丘の運動公園で話した時のことを」
「ええ。息子さんの信吾君が自転車に乗る練習を手伝いました」
高井は走りながら自転車の後ろを押した。それは信子が驚くほどのスピードだった。
今までに無いスピードで押された信吾は必死で懸命にペダルを漕いだ。はらはらしながら見守る信子を気に懸ける風も無く、高井は手を離さずに自転車を押し続けた。
そうして、何回目かに気が付くと、信吾は独りで乗ることが出来ていた。乗り始めにペダルを漕ぎ出すコツも高井は教えた。三十分も経つと信吾は一人で乗れるようになっていた。
「有難うございます。今日まで何回か練習に来ていたんですが、なかなか思うように行かなくて・・・」
「まあ、これでもう少し練習すれば、道路でも乗れるようになるでしょう」
高井はそう言って信吾の頭を軽く撫でた。顔には口元を少し歪めた微笑が覗いて居た。
それは高井が信子に対して初めて見せた打ち解けた姿だった。
「やっぱり女親では駄目なんですねぇ・・・」
「ご主人は・・・?」
「亡くなりました、三年前に、癌で・・・」
「えっ!」
高井は暫く絶句した。言葉が出て来ない様子が信子にもありありと見て取れた。
「或る日、突然に食べ物が呑み込めなくなって・・・嘔吐を繰り返して・・・気が付けば食道の半分が既に塞がって居て・・・診断の結果は末期の進行性の食道癌でした。最後は胃瘻までして・・・十カ月余りの闘病の末に呆気無く死にました」
頭を垂れて信子の話を聴いていた高井が、徐に謝った。
「済みません、知らなかったものですから・・・軽はずみに余計なことを聞いて、あなたの心の中に土足で踏み込んでしまいました。許して下さい」
それは、心から信子の哀しみと痛みを思いやるもの言いだった。切れ長の鋭い眼が包み込むような優しい眼差しで信子を見詰めた。
信子は、店にやって来る寡黙で気難しそうな高井とは異なる別の一面を見た気がした。
この人は懐の深い優しい人なんだわ、きっと・・・信子はこれまでに無い親しみを高井に感じた。
「わたし、あの時、あなたに救われたんです」
「えっ?」
あの後、二人は、信子の夫が亡くなったことに関して、こんな会話を交わしたのであった。
「私がいけなかったんです。夫があれほど悪くなるまで気付かなかった私が、いけなかったんです。家事と育児と店の仕事の忙しさに感けて、夫とちゃんと向き合っていなかった私の所為で、夫は・・・」
「女将さん、そんな風に自分を責めてはいけませんよ。運命です、寿命なんですよ。一人一人の個人ではどうしようもないのが運命というものです。そんな風に自分を責めて居てもご主人は決して喜んでは居られませんよ。その思いはご主人が残された大事な信吾君に注がれる方が良いんじゃないかと自分は思いますが・・・」
「わたしはあの時、ふっと身体の力が抜けて気持が楽になったんです。夫を死なせてしまった責務の呪縛から解き放たれたんです。私はあなたに救われたんです」
「あなたも、僕が尿道結石で入院した時、毎日見舞いに来てくれました」
一週間、信子は毎日病室を見舞った。肌着やパジャマなどの衣料品と歯磨きやタオルなどの身の回り品を買い、果物も差し入れた。花瓶に花を入れ替え、病院のコインランドリーで汚れ物を洗濯した。二人は互いに心の垣根を取り払い、私的な会話を交わすようになって行った。
「高井さん、お子さんは?」
「女の子が二人です。上の娘は来年、中学に入ります。下の子は三歳年下ですから未だ未だ子供です」
「そうですか、可愛いでしょうね、女のお子さんは」
「ええ、まあ・・・家内と結婚してもう十五年近くになるんですが、その内の半分以上は単身赴任の別居生活でして、家事も育児も全て妻に任せ切り、真実に済まないと思っているんです」
それは初めて高井が信子に語った私事の断片だった。
「サラリーマンというのは渡り鳥なんですよ。辞令と言う紙切れ一枚で北海道から九州ま
で、いや、アメリカからヨーロッパ、中国から東南アジアまでも飛んで行くんです。ですが、自分はそれが技術屋としての使命だと思っています。己の知識と技能と経験と創意とで、世の中の、世界の、人類の、未来に貢献する新しいものを創り出して行く、それが技術屋たる者の使命だと思っているんです。一カ所に居続けたのでは、其処に在る技術に関わるものしか創り出すことは出来ません。身勝手だと謗られるかも知れませんが・・・」
日頃寡黙な高井がこの日は驚くほど能弁だった。信子は、彼が漸く自分に心を許してくれていることを確信した。
「あなたは私が立ち眩みと眩暈で倒れた時、直ぐに病院に運び込んでくれました」
仕事が早く終わった金曜日、高井が珍しく午後七時前に「あだち」にやってきた。が、彼の前に立ったのは六十歳中半の大女将だった。女将の信子は立眩みと眩暈がして二階で休んで居ると言う。
「如何でしょう、うちの会社の病院で診察を受けられては?今なら時間的にも大丈夫ですから」
高井は信子と信吾を乗せて病院へ車を走らせた。
診察室に入った信子は直ぐに寝台に寝かされて安静にするように言われ、それから、そのままの姿勢で医師の問診が行われた。眩暈の状態や普段の生活等について問い質された後、検査が始まった。
行われたのは、血液検査、眼振検査、聴力検査、重心動揺検査の四つであった。これらの検査を行って、眩暈の原因が何であるかを調べていくのだと言う。診察の結果はメニエール症候群と診断された。
メニエール症候群とは、耳や脳などには問題がなく、原因が不明で、眩暈や難聴や耳鳴りなどの症状を繰り返す疾患の総称であり、三十代後半から四十代前半に発症することが最も多く、比較的女性に多発する病気であった。
めまい止めの薬の他に精神安定剤やビタミン剤、血管拡張剤や吐き気止めを処方され、幸いにして、その後、信子に眩暈が発生することは無かった。信子は高井に大いに感謝し心からの信頼を寄せるようになった。
「信吾の面倒も良く見て戴きました。自転車だけでなく、その後も野球を教わり、サイクリングや魚釣りにも連れて行って貰って、あの子はあなたにとても良く懐きました」
信子はじっと高井の顔を見詰めて更に続けた。
「あなたの居ないこの街なんて何を見ても空虚です」
高井も信子を凝視して応えた。
「あなたの顔を見ない自分の眼は何を見ても朧です」
「あなたの来ないこの店はどんなに灯が燈って居ても、私には暗いんです」
「あなたの声を聞かない自分の耳は何を聴いても素通りです」
「あなたの座らないその椅子は、いつまで経っても温まることはありません」
「あなたに逢えない自分の心は何をしても虚ろです」
「・・・・・」
「女将さん、いや、信子さん、自分は・・・」
「駄目!おっしゃらないで!」
信子が人差指を唇に当てて強く遮った。
二人は釘づけされたように互いの眼を見つめ合った。
見る間に、信子の眼から大粒の涙が溢れ出した。彼女は顔を覆い、踵を返して、厨房から勝手口を通って外へ出て行った。
信子は十五分ほど戻って来なかった。
その間、高井は信子の消えた勝手口辺りを凝然と見詰めていた。
やがて、戻って来た信子は目を赤く腫らしてはいたが、貌はもう普段の表情だった。
「それで、何日、発たれるんですか?」
「ぎりぎり最後の月末、三十一日の午後に発つ予定です」
「それじゃ、未だ半月近くありますわね。発たれるまでは毎日来て下さいね、精々美味しいものを見繕いますから」
そして、愈々、最後の夜、何時も通りに食事を終えた高井は信子とその義父に心からの礼を言った。
「四年間、真実にお世話になりました。有難うございました。皆さんのことは生涯忘れません」
深々と頭を垂れた。
いつの間にか、信吾とその祖母も厨房に降りて来ていた。
高井は鞄の中から軟式野球のボールを一つ取り出して信吾に手渡した。真新のボールには“高井健二”のサインが入っていた。
戸口へ向かう高井に信子が小さな紙包みを手渡した。それは紫の生地に金色で“幸徳大神守護”と刺繍されたお守り袋だった。
「これを私の心だと思って持って行って下さい」
高井は守り袋をスーツの胸ポケットに大事に仕舞い込み、それから、真直ぐに信子の眼を見乍ら、一言、「さよなら」と言った。信子は頷くようにして「さようなら」と小さく答えた。
信子は高井を見送らなかった。
閉じられた格子戸の内と外で二人は思い合った。
もうこれで、あの人とは生涯巡り合うことは無いのだ・・・
信子の眼からまた涙が滴り落ちた。
高井は小糠のような春雨の中へ歩を進め、おばんざい屋「あだち」の灯を後にした。
高井が出されているお通しを肴に熱い燗酒を一口啜った時、信子が料理の載ったお盆をカウンターの上に置いて密やかに微笑いかけた。
信子はじっと高井の眼を覗き込みながら不安げに問いかけた。
「何か、心配事が有るみたいですね、高井さん」
柔らかい穏やかな口調であった。
「ええ」
高井は深く息を吸い込んだ。
「実は・・・今度、東京へ帰ることになったんです、配置換えで。本社勤務を命じられました」
「そう、ですか・・・」
信子はそれっ切り黙って俯いた。
それから、高井の視線を避けるように身体を回して、くるりと背を向けた。信子の滑らかな肩の線が何かを耐えるように、一瞬、震えた。
信子の胸に高井が初めて「あだち」にやって来た日のことが哀切の思いと共に鮮明に蘇えった。
四年前の四月初め、一人の男が店に入って来た。黒くて太い眉、切れ長の鋭い眼、筋の通った鼻梁、百八十センチを超える長身痩躯、白いワイシャツにきりりと結ばれた濃紺のネクタイ、背筋をピンと伸ばして大股で歩く、歳の頃は四十歳くらいの如何にもビジネスマン然とした男だった。
「おこしやす」
女将の信子が愛嬌良い笑顔で迎え入れた。彼女は三十歳中半、嶋のお召に西陣帯を締めてその上に白い割烹着を羽織っていた。零れる笑顔に気品が在った。
「どうぞ、此方へ」
信子が案内したのはカウンターの一番奥の席だった。彼は椅子に腰かけながら、店内に掲げられたメニューを眺め、「おまかせ」を注文した。
「あっ、それから、熱燗二本も一緒に・・・」
「はい」
信子は急いでてきぱきと品を揃え、酒の癇を始めた。
男は、次の日も、その次の日も、独りでやって来た。その間、男は料理を注文する以外に口を利くことはなかった。男は寡黙だった。黙々と独りで食べ、独りで飲んで、一時間ほどで帰って行った。
そして、四日目の夜に、信子に、躊躇いがちに、一つの頼み事をした。
「明日から毎晩、此方で晩飯を食べさせて頂けないでしょうか?」
「はいっ?」
「三日間通わせて頂きまして、大変に美味しかったものですから、もし可能ならばお世話になりたいと・・・」
「そうですか、有難うございます。解りました。うちで宜しければ承ります」
男は近くに在る大企業の技師で名を高井健二と言った。彼は長い身体を九十度に折り曲げて礼を言った。
それから高井は毎晩八時前後にやって来て晩酌と夕食を愉しみ、きっちり一時間で帰って行った。相変わらず、聞かれたことに答える以外には必要最小限のことしか話さず、独りで寡黙に時を過ごすのだった。そうかと言って、不機嫌であったり不愉快であったりという風ではなく、一日の仕事を終えて穏やかにゆっくりと寛いでいるのは信子の眼にも明らかだった。
高井は無口だったが律儀だった。席は何時も一番奥のカウンターの隅で他の客の邪魔にならないようにひっそりと腰かけたし、食べた後の食器類はきちんとカウンターに一つずつ戻した。お代は毎日キチンと殆ど釣銭の要らないようにして支払った。
暫くして、高井の方へ振り向いた信子の口元が微かにヒクついていた。
「そうですか、愈々、お帰りになるのですか・・・」
高井はぬるくなった酒を猪口に移して一気に飲み乾した。苦い舌触りだった。
唐突に信子が聞いて来た。
「ねえ、あの日のことを覚えていますか?太陽が丘の運動公園で話した時のことを」
「ええ。息子さんの信吾君が自転車に乗る練習を手伝いました」
高井は走りながら自転車の後ろを押した。それは信子が驚くほどのスピードだった。
今までに無いスピードで押された信吾は必死で懸命にペダルを漕いだ。はらはらしながら見守る信子を気に懸ける風も無く、高井は手を離さずに自転車を押し続けた。
そうして、何回目かに気が付くと、信吾は独りで乗ることが出来ていた。乗り始めにペダルを漕ぎ出すコツも高井は教えた。三十分も経つと信吾は一人で乗れるようになっていた。
「有難うございます。今日まで何回か練習に来ていたんですが、なかなか思うように行かなくて・・・」
「まあ、これでもう少し練習すれば、道路でも乗れるようになるでしょう」
高井はそう言って信吾の頭を軽く撫でた。顔には口元を少し歪めた微笑が覗いて居た。
それは高井が信子に対して初めて見せた打ち解けた姿だった。
「やっぱり女親では駄目なんですねぇ・・・」
「ご主人は・・・?」
「亡くなりました、三年前に、癌で・・・」
「えっ!」
高井は暫く絶句した。言葉が出て来ない様子が信子にもありありと見て取れた。
「或る日、突然に食べ物が呑み込めなくなって・・・嘔吐を繰り返して・・・気が付けば食道の半分が既に塞がって居て・・・診断の結果は末期の進行性の食道癌でした。最後は胃瘻までして・・・十カ月余りの闘病の末に呆気無く死にました」
頭を垂れて信子の話を聴いていた高井が、徐に謝った。
「済みません、知らなかったものですから・・・軽はずみに余計なことを聞いて、あなたの心の中に土足で踏み込んでしまいました。許して下さい」
それは、心から信子の哀しみと痛みを思いやるもの言いだった。切れ長の鋭い眼が包み込むような優しい眼差しで信子を見詰めた。
信子は、店にやって来る寡黙で気難しそうな高井とは異なる別の一面を見た気がした。
この人は懐の深い優しい人なんだわ、きっと・・・信子はこれまでに無い親しみを高井に感じた。
「わたし、あの時、あなたに救われたんです」
「えっ?」
あの後、二人は、信子の夫が亡くなったことに関して、こんな会話を交わしたのであった。
「私がいけなかったんです。夫があれほど悪くなるまで気付かなかった私が、いけなかったんです。家事と育児と店の仕事の忙しさに感けて、夫とちゃんと向き合っていなかった私の所為で、夫は・・・」
「女将さん、そんな風に自分を責めてはいけませんよ。運命です、寿命なんですよ。一人一人の個人ではどうしようもないのが運命というものです。そんな風に自分を責めて居てもご主人は決して喜んでは居られませんよ。その思いはご主人が残された大事な信吾君に注がれる方が良いんじゃないかと自分は思いますが・・・」
「わたしはあの時、ふっと身体の力が抜けて気持が楽になったんです。夫を死なせてしまった責務の呪縛から解き放たれたんです。私はあなたに救われたんです」
「あなたも、僕が尿道結石で入院した時、毎日見舞いに来てくれました」
一週間、信子は毎日病室を見舞った。肌着やパジャマなどの衣料品と歯磨きやタオルなどの身の回り品を買い、果物も差し入れた。花瓶に花を入れ替え、病院のコインランドリーで汚れ物を洗濯した。二人は互いに心の垣根を取り払い、私的な会話を交わすようになって行った。
「高井さん、お子さんは?」
「女の子が二人です。上の娘は来年、中学に入ります。下の子は三歳年下ですから未だ未だ子供です」
「そうですか、可愛いでしょうね、女のお子さんは」
「ええ、まあ・・・家内と結婚してもう十五年近くになるんですが、その内の半分以上は単身赴任の別居生活でして、家事も育児も全て妻に任せ切り、真実に済まないと思っているんです」
それは初めて高井が信子に語った私事の断片だった。
「サラリーマンというのは渡り鳥なんですよ。辞令と言う紙切れ一枚で北海道から九州ま
で、いや、アメリカからヨーロッパ、中国から東南アジアまでも飛んで行くんです。ですが、自分はそれが技術屋としての使命だと思っています。己の知識と技能と経験と創意とで、世の中の、世界の、人類の、未来に貢献する新しいものを創り出して行く、それが技術屋たる者の使命だと思っているんです。一カ所に居続けたのでは、其処に在る技術に関わるものしか創り出すことは出来ません。身勝手だと謗られるかも知れませんが・・・」
日頃寡黙な高井がこの日は驚くほど能弁だった。信子は、彼が漸く自分に心を許してくれていることを確信した。
「あなたは私が立ち眩みと眩暈で倒れた時、直ぐに病院に運び込んでくれました」
仕事が早く終わった金曜日、高井が珍しく午後七時前に「あだち」にやってきた。が、彼の前に立ったのは六十歳中半の大女将だった。女将の信子は立眩みと眩暈がして二階で休んで居ると言う。
「如何でしょう、うちの会社の病院で診察を受けられては?今なら時間的にも大丈夫ですから」
高井は信子と信吾を乗せて病院へ車を走らせた。
診察室に入った信子は直ぐに寝台に寝かされて安静にするように言われ、それから、そのままの姿勢で医師の問診が行われた。眩暈の状態や普段の生活等について問い質された後、検査が始まった。
行われたのは、血液検査、眼振検査、聴力検査、重心動揺検査の四つであった。これらの検査を行って、眩暈の原因が何であるかを調べていくのだと言う。診察の結果はメニエール症候群と診断された。
メニエール症候群とは、耳や脳などには問題がなく、原因が不明で、眩暈や難聴や耳鳴りなどの症状を繰り返す疾患の総称であり、三十代後半から四十代前半に発症することが最も多く、比較的女性に多発する病気であった。
めまい止めの薬の他に精神安定剤やビタミン剤、血管拡張剤や吐き気止めを処方され、幸いにして、その後、信子に眩暈が発生することは無かった。信子は高井に大いに感謝し心からの信頼を寄せるようになった。
「信吾の面倒も良く見て戴きました。自転車だけでなく、その後も野球を教わり、サイクリングや魚釣りにも連れて行って貰って、あの子はあなたにとても良く懐きました」
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「・・・・・」
「女将さん、いや、信子さん、自分は・・・」
「駄目!おっしゃらないで!」
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「それで、何日、発たれるんですか?」
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そして、愈々、最後の夜、何時も通りに食事を終えた高井は信子とその義父に心からの礼を言った。
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深々と頭を垂れた。
いつの間にか、信吾とその祖母も厨房に降りて来ていた。
高井は鞄の中から軟式野球のボールを一つ取り出して信吾に手渡した。真新のボールには“高井健二”のサインが入っていた。
戸口へ向かう高井に信子が小さな紙包みを手渡した。それは紫の生地に金色で“幸徳大神守護”と刺繍されたお守り袋だった。
「これを私の心だと思って持って行って下さい」
高井は守り袋をスーツの胸ポケットに大事に仕舞い込み、それから、真直ぐに信子の眼を見乍ら、一言、「さよなら」と言った。信子は頷くようにして「さようなら」と小さく答えた。
信子は高井を見送らなかった。
閉じられた格子戸の内と外で二人は思い合った。
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