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㉒半欠けの二人
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日曜日の午後、愛理の携帯にメールが届いた。
「親方の言い付けで旅修行に出ることになった。午後七時に駅東の遊歩道で待っている」
愛理は夕暮れになって時間の来るのを待ちかねたように遊歩道へ急いだ。
駅東のロータリーから川に沿って続く遊歩道には夏草のむせかえるような匂いが立ち込めていた。その先に黒い影が立っていた。
「修二さん」
愛理は名前を呼んで影に近づいて行った。
「悪いな、こんな所へ呼び出して」
修二の声は低くて優しげだった。
「ねえ、どうしたの?何があったの?」
「メールに書いた通りだよ」
「旅修行って、何処へ行くの?ちゃんと話してよ、ね」
愛理は修二の上着の裾を掴んだ。何か言わないと此の侭修二が何処かへ消えてしまい、二度と自分の処へは戻って来ない気がした。
「ねえ、以前、約束したじゃない」
「約束?」
「そうよ。二人の心が互いに真実に求め合うまで、それは大事に取っておこう、って」
修二がまじまじと愛理の顔を凝視した。
「今から私を抱いてよ、ね、抱いてよ、直ぐに!」
事が終わった後、愛理は修二のマンションの浴槽の中で、自分が女に成ったことを感じた。部屋へ戻ると修二は壁に凭れて何かを考えている風だった。
「あなたは何処で生まれたの?」
「熊本だよ」
「熊本の何処?」
「八代だ。晩白柚と塩トマトと、それから、辛子蓮根と日奈久竹輪で有名な町だよ」
「晩白柚って?」
「柑橘類では最大クラスで、直径は凡そ二十五センチ、重い物は三十キロを超える、ギネスにも認定されている代物だ。香りも豊かで果汁がたっぷりなので贈答品としても喜ばれているよ」
「私は辛子蓮根が大好きなの。しゃきっとした蓮根の歯触りと辛子味噌が絶妙の味を醸し出すのね」
其処まで話した時、突然、修二の顔が近付いて愛理の視界を遮った。
キスを繰り返しながら修二が愛理の耳元で囁いた。
「旅から帰ったら、俺の田舎へ行こう。両親に俺の嫁として引き合わせるし、晩白柚も辛子蓮根もたっぷりと食わせてやるよ、な」
「ほんとうに?待って居ても良いのね。約束よ」
「ああ、大丈夫だよ」
「わたし、一生あなたに従いて行くわ、真実よ!」
二人はまた唇を重ね合わせた。
修二が東京へ旅立つ前、二人は連れ立って幸徳神社へお詣りした。
「この人が早く立派な板前さんになって、きっと私の前に戻って来ますように」
愛理はそう言って長い間、手を合わせた。
「包丁一本を晒に巻いて旅へ出るのも板場の修業だ。腕を磨いて戻って来たら、必ずお前と所帯を持つから、それまで待って居てくれよ、な、愛理」
意地と恋とを包丁に賭けて修二は本尊に手を合わせて瞑目し続けた。
程無くして、藤田修二は旅修行に出て町からいなくなった。
修二が旅修行に出てから三年の歳月が経過した或る日、親方から一本の電話が架かって来た。
「隣町の繁華街に居抜きの店を見つけて置いた。其方の大将も、もう大丈夫だろうと言ってくれているし、そろそろ帰って来ねえか・・・」
親方は修二が戻ると直ぐに、愛理をも伴って、わざわざ下見に連れて行ってくれた。
「この街は商いの難しい土地だ。昔からの商売人が居る。広い屋敷の旧家も多い。それに、小料理屋に通うのは、所詮は土地の人間だ。そこん処を考え違いしないようにな。味だけじゃ客は来ない、が、味が悪けりゃもっと来ない。丁寧に客を一人ずつ拾って行くことだ」
下見を終わった後の蕎麦屋で親方は二人を前にそう言った。
屋号も親方が付けてくれた。
「屋号をつけるのに何か希望か条件は在るか?」
「はい、出来れば、私ら二人の名前のどれか一文字でも入れて貰えれば・・・」
「よし、解った」
次の日、親方は女文字のような筆跡で「ふじ半」と書いた半紙を広げて言った。
「“ふじ半”だ。藤田の“藤”の字を取ったと思ってくれたら良い。“半”と言うのは、めでたいことも何もかも半分くらいが丁度良い、という意味だ。欲張らずに地道にコツコツ店をやって行け」
「はい、解りました」
「いや、解っちゃいめえ。そんなに簡単に解るもんじゃねえ。良いか、お前は未だ腕も人生経験も何もかも半人前だ。残りの半分は正直で足して行け。修二って人間がまだまだ修行中の半人前だと肝に銘じて仕事をしな」
「良い名前ですよ、あなた」
傍から声を出した愛理に親方は鋭い目つきで言った。
「お前たちは二人足して漸く一人前だろうから、何方かが欠けたら店は終わりだと思ってやって行けよ」
全くそうだな、と修二は今も思っている。
修二は出刃包丁を手に、水をかけたばかりの大魚と向き合っていた。半分は刺身に、半分は鍋にしよう、と彼は考えていた。
調理場の隅では、大鉢に大根おろしを拵えている愛理が額に浮いた汗を拭いながら横目で修二を見ていた。修二は口を“へ”の字に結んで魚を見詰めている。夢中になって真剣に考えている時の表情である。
修二が唇を窄めてふぅ~っと息を吐いた。さあ仕事の始まりである。そうなると彼にはもう周囲のものが眼に入らなくなる。
上がり座敷の柱時計がボーンと鳴った。
修二は骨だけになった魚を持つ手を停めて時計を見た。二時半である。
「おい、銀ボールの大きい奴をくれ」
調理場の奥に居る愛理に声を掛けた。
「はい」
割烹着の下の赤いセーターを水に濡らしながら愛理が銀ボールを持って来た。
「隣の流しに置いてくれ」
「はい」
愛理は片方の流しに置いた銀ボールに入った魚の肝や胃袋を覗き込んだ。
「迫力あるわね、この肝。それにしても大きな魚だったわねえ。何人前くらいになるのかしら?」
「三、四十人くらいはいけるだろう」
「三十人じゃうちの店は溢れちゃうね」
愛理は目を丸くして魚を見ていた。
「あっ、いけない、南瓜が焦げちゃう」
舌を出して奥へ行こうとした。その時、床の簾の子に躓いて前のめりになった。修二が咄嗟に手を伸ばして愛理の二の腕を掴んだ。
「気を付けろ!」
修二の真剣な顔に、愛理は押さえていたお腹から慌てて手を放した。その仕草を修二はちらりと見た。愛理は首を竦めて奥へ入って行った。
あれは二ヶ月前の十月、定休日の前夜だった。
愛理がテレビの画面を見ながらぽつんと言った。
「子供を作ってはいけないかしら?」
修二は新聞を読んでいた眼を愛理の背中に向けた。
「何だって?」
「子供・・・」
愛理はじっとテレビを観ていたが、息を止めているようなその背中が彼女の真剣味を修二に伝えた。
「出来たのか?」
「違うの。私ももう直ぐ三十歳でしょう。もし産むとしたらそろそろ潮時だと思うの。でも、良いのよ、あなたが子供を欲しくないのなら・・・」
修二は黙って愛理の背中を見ていた。どう返事して良いのか判らなかった。
「子供が欲しいのか?」
修二は小さな声で訊いた。
「欲しいのかって言っても、私だけが欲しいんじゃ、産まれて来る子供が可哀相だもの」
愛理の返事の仕方は、何処か修二の返答を予期していたような感じがあった。
あれから子供の話は口にしていない。然し、この頃、どこか気になることが愛理の態度にはあった。
「四時になったので花屋さんへ行って来て良いかしら」
中暖簾をかきわけて愛理が顔を出した。
「ああ、良いよ、行って来な」
愛理は分厚いコートを着ていた。丈夫が取り柄だと日頃から言っているように、愛理は風邪を拗らせたことも無い。冬でも薄着で平気だった。それが眼の前で、冬靴下の上に登山靴下のような毛糸の半ソックスを重ねている。
思い過ごしだろうか・・・それとも、ひょっとして?・・・
愛理は店を始めてから明るくなった。以前は、人見知りする性格だと思っていたが、所帯を持って二人の店を開くと、いつの間にか、出逢った頃のあのぎこちなかった笑顔が愛嬌のある笑顔に変わっている。
運転免許も自分から取りたいと言い出して取得した。
長い間、一人淋しく、不安を抱えて、じっと修二の帰りを待ち続けたその反動だったかも知れないし、また、二人で始めた店の仕事に額に汗して懸命に取り組み、修二と歩く人生に生き甲斐と希望を見出しているのかも知れなかった。
「さあ準備完了よ」
愛理が南瓜の大皿をカウンターに置いて声を上げた。
先程買って来た花を見やりながら、急きも慌てもせずに言う。
「綺麗でしょう。水仙って良いわよねぇ」
その花の向こうに愛理はうっすらと額に汗を滲ませて立っている。
「“ふじ半”の半はお前たち二人が共に半人前だと言うことだぞ」
親方の言葉を思い出した修二は、確かに二人でやっと一人前かな、と思った。
「今日の日高課長さんの人数は十二人で良かったのかしら?」
日高課長と言うのは「ふじ半」が店を出した当初からのお客さんで、今日は、仕事が一段落したのを機に部下たちを労う席を設けての予約だった。
「うん、十二人と言っていたのは間違いないよ」
「十四、五人にしておいた方が良いかも知れないわね、どんな飛び入りが入っているかも分からないものね」
電話が鳴った。
「はい、“ふじ半”でございます。あっ、大島様、いつもご贔屓に有難う存じます。はい、お三方ですか?大丈夫でございますよ。六時に、はい、お待ち申し上げております。有難うございます」
愛理が明るい声で受話器を置いた。
そろそろ暖簾を上げようか・・・
「おい」
修二が愛理の顔を見て言った。
「汗を拭いて来い」
風邪を引くぞ・・・子供が欲しいんだろう、いや、既に腹の中に居るんだろう・・・
修二は続けようとした言葉を呑み込んだ。
修二は外へ出て表戸の鴨居に架けた味暖簾を見詰めた。
「ふじ半」の“半”の字だけが垂れて“ふ”と“じ”は竹に架かったままである。色は浅葱に白地で抜いた零れ松葉のこの暖簾・・・麻地に紺で染め抜かれた文字・・・
「良いか、兎に角、三年間頑張れ。三の次は五だ、七とか十とか先のことは考える必要は無い」
親方はそうとしか言わなかった。
「五時、開店ですね」
愛理がにこやかな笑顔で言った。
暖簾が微かに揺れている。“半”の文字が色鮮やかであった。
「親方の言い付けで旅修行に出ることになった。午後七時に駅東の遊歩道で待っている」
愛理は夕暮れになって時間の来るのを待ちかねたように遊歩道へ急いだ。
駅東のロータリーから川に沿って続く遊歩道には夏草のむせかえるような匂いが立ち込めていた。その先に黒い影が立っていた。
「修二さん」
愛理は名前を呼んで影に近づいて行った。
「悪いな、こんな所へ呼び出して」
修二の声は低くて優しげだった。
「ねえ、どうしたの?何があったの?」
「メールに書いた通りだよ」
「旅修行って、何処へ行くの?ちゃんと話してよ、ね」
愛理は修二の上着の裾を掴んだ。何か言わないと此の侭修二が何処かへ消えてしまい、二度と自分の処へは戻って来ない気がした。
「ねえ、以前、約束したじゃない」
「約束?」
「そうよ。二人の心が互いに真実に求め合うまで、それは大事に取っておこう、って」
修二がまじまじと愛理の顔を凝視した。
「今から私を抱いてよ、ね、抱いてよ、直ぐに!」
事が終わった後、愛理は修二のマンションの浴槽の中で、自分が女に成ったことを感じた。部屋へ戻ると修二は壁に凭れて何かを考えている風だった。
「あなたは何処で生まれたの?」
「熊本だよ」
「熊本の何処?」
「八代だ。晩白柚と塩トマトと、それから、辛子蓮根と日奈久竹輪で有名な町だよ」
「晩白柚って?」
「柑橘類では最大クラスで、直径は凡そ二十五センチ、重い物は三十キロを超える、ギネスにも認定されている代物だ。香りも豊かで果汁がたっぷりなので贈答品としても喜ばれているよ」
「私は辛子蓮根が大好きなの。しゃきっとした蓮根の歯触りと辛子味噌が絶妙の味を醸し出すのね」
其処まで話した時、突然、修二の顔が近付いて愛理の視界を遮った。
キスを繰り返しながら修二が愛理の耳元で囁いた。
「旅から帰ったら、俺の田舎へ行こう。両親に俺の嫁として引き合わせるし、晩白柚も辛子蓮根もたっぷりと食わせてやるよ、な」
「ほんとうに?待って居ても良いのね。約束よ」
「ああ、大丈夫だよ」
「わたし、一生あなたに従いて行くわ、真実よ!」
二人はまた唇を重ね合わせた。
修二が東京へ旅立つ前、二人は連れ立って幸徳神社へお詣りした。
「この人が早く立派な板前さんになって、きっと私の前に戻って来ますように」
愛理はそう言って長い間、手を合わせた。
「包丁一本を晒に巻いて旅へ出るのも板場の修業だ。腕を磨いて戻って来たら、必ずお前と所帯を持つから、それまで待って居てくれよ、な、愛理」
意地と恋とを包丁に賭けて修二は本尊に手を合わせて瞑目し続けた。
程無くして、藤田修二は旅修行に出て町からいなくなった。
修二が旅修行に出てから三年の歳月が経過した或る日、親方から一本の電話が架かって来た。
「隣町の繁華街に居抜きの店を見つけて置いた。其方の大将も、もう大丈夫だろうと言ってくれているし、そろそろ帰って来ねえか・・・」
親方は修二が戻ると直ぐに、愛理をも伴って、わざわざ下見に連れて行ってくれた。
「この街は商いの難しい土地だ。昔からの商売人が居る。広い屋敷の旧家も多い。それに、小料理屋に通うのは、所詮は土地の人間だ。そこん処を考え違いしないようにな。味だけじゃ客は来ない、が、味が悪けりゃもっと来ない。丁寧に客を一人ずつ拾って行くことだ」
下見を終わった後の蕎麦屋で親方は二人を前にそう言った。
屋号も親方が付けてくれた。
「屋号をつけるのに何か希望か条件は在るか?」
「はい、出来れば、私ら二人の名前のどれか一文字でも入れて貰えれば・・・」
「よし、解った」
次の日、親方は女文字のような筆跡で「ふじ半」と書いた半紙を広げて言った。
「“ふじ半”だ。藤田の“藤”の字を取ったと思ってくれたら良い。“半”と言うのは、めでたいことも何もかも半分くらいが丁度良い、という意味だ。欲張らずに地道にコツコツ店をやって行け」
「はい、解りました」
「いや、解っちゃいめえ。そんなに簡単に解るもんじゃねえ。良いか、お前は未だ腕も人生経験も何もかも半人前だ。残りの半分は正直で足して行け。修二って人間がまだまだ修行中の半人前だと肝に銘じて仕事をしな」
「良い名前ですよ、あなた」
傍から声を出した愛理に親方は鋭い目つきで言った。
「お前たちは二人足して漸く一人前だろうから、何方かが欠けたら店は終わりだと思ってやって行けよ」
全くそうだな、と修二は今も思っている。
修二は出刃包丁を手に、水をかけたばかりの大魚と向き合っていた。半分は刺身に、半分は鍋にしよう、と彼は考えていた。
調理場の隅では、大鉢に大根おろしを拵えている愛理が額に浮いた汗を拭いながら横目で修二を見ていた。修二は口を“へ”の字に結んで魚を見詰めている。夢中になって真剣に考えている時の表情である。
修二が唇を窄めてふぅ~っと息を吐いた。さあ仕事の始まりである。そうなると彼にはもう周囲のものが眼に入らなくなる。
上がり座敷の柱時計がボーンと鳴った。
修二は骨だけになった魚を持つ手を停めて時計を見た。二時半である。
「おい、銀ボールの大きい奴をくれ」
調理場の奥に居る愛理に声を掛けた。
「はい」
割烹着の下の赤いセーターを水に濡らしながら愛理が銀ボールを持って来た。
「隣の流しに置いてくれ」
「はい」
愛理は片方の流しに置いた銀ボールに入った魚の肝や胃袋を覗き込んだ。
「迫力あるわね、この肝。それにしても大きな魚だったわねえ。何人前くらいになるのかしら?」
「三、四十人くらいはいけるだろう」
「三十人じゃうちの店は溢れちゃうね」
愛理は目を丸くして魚を見ていた。
「あっ、いけない、南瓜が焦げちゃう」
舌を出して奥へ行こうとした。その時、床の簾の子に躓いて前のめりになった。修二が咄嗟に手を伸ばして愛理の二の腕を掴んだ。
「気を付けろ!」
修二の真剣な顔に、愛理は押さえていたお腹から慌てて手を放した。その仕草を修二はちらりと見た。愛理は首を竦めて奥へ入って行った。
あれは二ヶ月前の十月、定休日の前夜だった。
愛理がテレビの画面を見ながらぽつんと言った。
「子供を作ってはいけないかしら?」
修二は新聞を読んでいた眼を愛理の背中に向けた。
「何だって?」
「子供・・・」
愛理はじっとテレビを観ていたが、息を止めているようなその背中が彼女の真剣味を修二に伝えた。
「出来たのか?」
「違うの。私ももう直ぐ三十歳でしょう。もし産むとしたらそろそろ潮時だと思うの。でも、良いのよ、あなたが子供を欲しくないのなら・・・」
修二は黙って愛理の背中を見ていた。どう返事して良いのか判らなかった。
「子供が欲しいのか?」
修二は小さな声で訊いた。
「欲しいのかって言っても、私だけが欲しいんじゃ、産まれて来る子供が可哀相だもの」
愛理の返事の仕方は、何処か修二の返答を予期していたような感じがあった。
あれから子供の話は口にしていない。然し、この頃、どこか気になることが愛理の態度にはあった。
「四時になったので花屋さんへ行って来て良いかしら」
中暖簾をかきわけて愛理が顔を出した。
「ああ、良いよ、行って来な」
愛理は分厚いコートを着ていた。丈夫が取り柄だと日頃から言っているように、愛理は風邪を拗らせたことも無い。冬でも薄着で平気だった。それが眼の前で、冬靴下の上に登山靴下のような毛糸の半ソックスを重ねている。
思い過ごしだろうか・・・それとも、ひょっとして?・・・
愛理は店を始めてから明るくなった。以前は、人見知りする性格だと思っていたが、所帯を持って二人の店を開くと、いつの間にか、出逢った頃のあのぎこちなかった笑顔が愛嬌のある笑顔に変わっている。
運転免許も自分から取りたいと言い出して取得した。
長い間、一人淋しく、不安を抱えて、じっと修二の帰りを待ち続けたその反動だったかも知れないし、また、二人で始めた店の仕事に額に汗して懸命に取り組み、修二と歩く人生に生き甲斐と希望を見出しているのかも知れなかった。
「さあ準備完了よ」
愛理が南瓜の大皿をカウンターに置いて声を上げた。
先程買って来た花を見やりながら、急きも慌てもせずに言う。
「綺麗でしょう。水仙って良いわよねぇ」
その花の向こうに愛理はうっすらと額に汗を滲ませて立っている。
「“ふじ半”の半はお前たち二人が共に半人前だと言うことだぞ」
親方の言葉を思い出した修二は、確かに二人でやっと一人前かな、と思った。
「今日の日高課長さんの人数は十二人で良かったのかしら?」
日高課長と言うのは「ふじ半」が店を出した当初からのお客さんで、今日は、仕事が一段落したのを機に部下たちを労う席を設けての予約だった。
「うん、十二人と言っていたのは間違いないよ」
「十四、五人にしておいた方が良いかも知れないわね、どんな飛び入りが入っているかも分からないものね」
電話が鳴った。
「はい、“ふじ半”でございます。あっ、大島様、いつもご贔屓に有難う存じます。はい、お三方ですか?大丈夫でございますよ。六時に、はい、お待ち申し上げております。有難うございます」
愛理が明るい声で受話器を置いた。
そろそろ暖簾を上げようか・・・
「おい」
修二が愛理の顔を見て言った。
「汗を拭いて来い」
風邪を引くぞ・・・子供が欲しいんだろう、いや、既に腹の中に居るんだろう・・・
修二は続けようとした言葉を呑み込んだ。
修二は外へ出て表戸の鴨居に架けた味暖簾を見詰めた。
「ふじ半」の“半”の字だけが垂れて“ふ”と“じ”は竹に架かったままである。色は浅葱に白地で抜いた零れ松葉のこの暖簾・・・麻地に紺で染め抜かれた文字・・・
「良いか、兎に角、三年間頑張れ。三の次は五だ、七とか十とか先のことは考える必要は無い」
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