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相良武有

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㉓花陰のひと

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 今日は年末の二十八日、大掃除と仕事納めの日である。川島俊彦は机の上の書類箱を整理して壁際の棚に収め、ロッカーからトレーナーを引っ張り出して袖を通し、徐に、床から天井、机の下から棚の上まで丹念に掃除機を掛け始めた。傍らでは、事務職員の井川加奈が寒さにもめげず上衣を脱いだ長袖のTシャツにジーンズ姿で、お湯と洗剤を使って机やカウンターや丸テーブルの上を雑巾で磨き上げている。いつもは地味な服装の井川加奈が、原色の人形模様が鮮やかに踊るTシャツと腰の辺りが大きく膨らんだ今風のジーンズを履いて、不安定に腰を捻りながら雑巾掛けをしている。彼女はこの豊徳学園大学文学部の出身で、母校の研究室で安月給の事務職員になり早や丸八カ月が経過した。元々小柄で子供っぽく見える上に、そうした気楽な服装をすると殆どまだ女子学生と見栄えは変わらない。華のある晴れやかな貌ではないが、よく見ると、色白で眼鼻の整ったなかなかの美形である。
「こりゃ、掃除機では落ちないや。油とゴミがこびり着いている。ね、其処が終わったら此処もお願いしますよ」
俊彦が声を掛けて頼むと井川加奈が雑巾片手にやって来た。
「私、其処、届くかしら。ね、椅子、ちゃんと支えていて下さいよ、先生」
この四月に一緒に研究室に入った気安さか、井川加奈がいつもに似合わぬ親しげな声を挙げた。
俊彦は国立大学の大学院修士課程を終えた後、この大学に職を得て英文科の講師になった。国立大学の学部長と豊徳学園の理事長が親しい知古であったことから、求められての着任であった。
 夕方になると大掃除も大方片が付いて、そろそろ退勤の時刻になった。
教授が研究室の皆を集めて納会の挨拶をした。
「今年一年間、真実に、ご苦労だった。四月から新しく加わった人たちも含めて、皆、よく頑張ってくれた。正月休みの間、心身ともにリフレッシュして、年が開けたら又、新たな気持ちで頑張ってくれるよう今からお願いしておく。ではこれで、今年の打ち上げとしょう」
 その後、俊彦は井川加奈と彼女の同僚の辻井紗香を近くの行きつけの店へ食事に誘った。小料理屋と言うほどでもないが食事が出来る店で、多少の慰労を兼ねて、と思って誘ったのである。
だが、直ぐに、辻井紗香が時計を見てもじもじし始めた。
「あのぉ、先生、実はちょっと約束があって、行かなきゃなりませんので・・・」
辻井紗香があたふたと出て行った後、井川加奈と二人で取り残された俊彦は、早々に酒を切り上げて食事にした。考えてみれば、もう一年近くも秘書の如くにして働いて貰って居ながら井川加奈と慰労の食事をするのはこれが初めてだった。
「もう今年も終わりなんですねぇ」
食事を終わって駅の方へ、年末の夜の雑踏の中を歩き始めた時、井川加奈が独り言のように呟いたその言葉が俊彦の足を止めた。彼がもう一件誘うと、彼女は素直に頷いた。
 井川加奈はバーで勧められるままにゆっくりと飲みながら、自分の育った北海道の話をした。
「札幌から一時間ほど東に行った岩見沢と言う雪の多い町なんです。だから、小さい頃から父親とよくスキーをして一緒に遊びました。私が一番楽しかった頃です」
井川加奈は世間の二十二、三歳の若い娘とは少し趣を異にしていた。別に地味で陰気という訳ではないが、燥いで華やかという雰囲気は余り無く、何処か老成しているような処があった。戸外で友人たちと戯れることよりも、独りマンションの自室で本を読んだり音楽を聴いたりしている方が好きというタイプだった。
バーから出て、俊彦は井川加奈をタクシーで送り、マンションの入口で彼女と別れた。 
 
 大学では毎年の年中行事であるのだが、初めての俊彦にとっては、一月、二月、三月は途轍もなく慌しく忙しい時期となった。卒業論文、修士論文、学年末試験、大学院入試、卒業面接、それらと殆ど重なり合っての入学試験という大行事とその採点、将に大苦行の連続であった。その上、卒業式に謝恩パーティまであって、教授や助教授たちは振り袖姿の若い女の子に囲まれて至って上機嫌であるのだが、俊彦にしてみれば、結局のところは、縁も所縁もない他人が良い気になって浮かれているのに付き合うだけで、是も月給のうちか、と心に呟くほかなかった。
 その間、井川加奈とは、無論、毎日仕事で顔を合わせてはいたが、外でゆっくり食事をしたりすることは出来なかった。正月明けの初出の日に故郷の土産を手渡して二人で遅い正月を祝ったくらいである。
「うちの町で通用する三種の神器と言うのはね、謡に盆栽に茶道具なんだ。何しろ、殿様が代々、皆、武張ったことが嫌いな人ばかりだったものでね。全く付き合っていられないんだけれども、これが又、付き合わない訳にも行かなくてね、故郷へ帰ると・・・」
「それでお帰りがぎりぎりになったんですね。わたし、二度ばかりマンションへお電話したんです、お話したくて」
「えっ?」
「お正月にマンションで一人閉じ籠っていて、無性に寂しくなったんです、それで・・・」
淋し気に俯いて話す井川加奈の姿に俊彦の心が少し震えた。
薄い橙色のレストランの灯の下で、彼はテーブルに置かれた井川加奈の手に自分の掌をそっと重ねた。
 然し、俊彦の毎日は手一杯の学年末スケジュールに追い立てられる日々であった。
研究室の会議、内外の打合せ、懇談、講義、指導、発信、受信、通話、眼を通すべき資料や報告の山・・・。
マンションの一室で朝に眼覚め、立ったままトーストを咥えてネクタイを結び、コーヒーをがぶ飲みして出かければ、夜そこに戻るのは深夜となり、眠る前にベッドの中でシェークスピアの一ページでも拾い読みするのが関の山だった。普通なら井川加奈のことなど日々押し寄せる重要事や雑事のうちに雲散霧消してしまう筈であるが、だが、手を重ね合わせて以来、そうはならなかった。
 毎日否でも応でも顔を合わせてしまうのがいけなかった。彼女のことが心に引っ掛ってすっきりしなかった。研究室に入って自分の席へ向かう時に、片隅に座っている井川加奈が眼の端に入って来て、ああ居るな、と思ってしまう。小さな研究室だから職員は皆、一人何役かで、俊彦が記した下書きをパソコンに入力して校閲に持って来るのも彼女であった。が、その度に、子供っぽい横顔の頬の膨らみについ眼が行ってしまうし、内容の訂正の為に顔を突き合わせたりすると何やら息苦しくなってくる。
俊彦は慌しく忙しい時間をやり繰りしつつ二、三週間に一度ほど、彼女を誘って食事をしたり酒を飲んだり、郊外へ出たりした。彼女も黙って従いて来た。
やがて研究室の学年末行事もどうやら終わり、年度替わりの仕事にも片がついて三月の末になった。

 午後の仕事が始まる少し前の昼休みに、俊彦はデスクの前でコーヒーを飲みながら椅子に凭れて、書類に眼を通していた。
「何をご覧になっているんですか?」
傍を通りかかった井川加奈が声を掛けて覗き込んだ。
「なに、別に大したものじゃ無いよ、新学期の講義のレジュメだよ」
「そうですか、ご熱心なんですね」
そう言って向きを変えようとした井川加奈の上衣の裾が机の端に置いて在ったコーヒーカップに触れて、カップがひっくり返った。コーヒーが零れて彼女の膝の辺りと机の上を濡らした。
「あっ、済みません!」
咄嗟に、井川加奈はそのまま、自分の上衣の袖で、無造作に机の上に零れたコーヒーをさあ~っと拭き取った。今日着下ろしたばかりと思われる真新しい服の袖を雑巾代わりに使ったのである。
驚いた俊彦が少し語気を荒めて言った。
「汚れるじゃないか、折角の服が!」
「いえ、良いんです。済みません、コーヒー、煎れ替えて来ます」
彼女はそう言い置いて部屋を出て行った。
さり気ない仕草に見えたが、俊彦は彼女の仕草に、ほのぼのとした温もりと優しさを視た気がした。
そうか、そういう娘だったのか・・・
彼は其処で少し考えこみ、何かを心に決めた。
 その日の夕方、井川加奈が帰途の私鉄駅に着くと、改札口の前で俊彦が人待ち顔に佇んでいた。買い物袋を下げた彼女は少し手前で足を止めて彼に呼びかけ、悪戯っぽい眼で笑い掛けた。
「どなたかをお待ちなのですか、先生?」
「うん、待って居たんだよ、逢いたい人を、ね」
「その人、もう直ぐ来られるんですか?」
「うん、来る、と言うより、もう来ているんだよ、眼の前に。僕が逢いたくて待って居たのは、井川君、君なんだ」
「わたしを、ですか?でも、何故?」
「話したいことが一杯在ってさ。口ではなかなか上手く言えないんだが・・・」
そこで、俊彦はちょっと息をついてから、話を続けた。
「真実の女の息吹と言うのは、井川君、君のような人のことなんだ。君の優しさ、穏やかさ、和やかさこそが女の息吹なんだ。一年間も毎日仕事で顔を合わせながら解らなかったが、僕はやっとそれに気が付いた。今日、君が零れたコーヒーを服の袖で拭いてくれた時に、解ったんだ。とにかく君に、それを伝えたかった、だからこうして待って居たんだ」
井川加奈は眼を見張り、放心して、手にした買物袋を落としそうになり、その後、不意に激しく瞬きをした。更に、彼女は狼狽え、当惑し、じっとしていられない素振りになって、言った。
「少し歩いて下さい、あちらへ。あの踏切を渡って向うへ行きませんか?」
彼女は俊彦の返事を待たずに先に立って歩き出した。
その少し前屈みの肩が、歩きながら頻りに揺れている。しゃくり上げているようにも見える。
俊彦は足を速めて追いつき、その肩にそっと手をかけた。
 それから二人はレストランで食事をし、バーでワインを飲んで心穏やかなひと時を過ごした。それは二人が出会って初めての、寛いだ和やかな解き放たれた時間だった。
バーから出て、俊彦はいつものように彼女をタクシーで送った。
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