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相良武有

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第五章 同級生、印刻師の菅原

④菅原、最も大事な仕事から外される

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 街路樹が黄色く色付き始めた晩秋の夕暮れ、外から帰って来た龍鳳に呼ばれて、菅原は工房の向かい側に在る事務室に入って行った。
事務室には入口の近くに応接セットが設えられ、その奥に事務机が二つと龍鳳が座る大きな社長机が並んでいた。普段はその事務机の前で、龍鳳の一人娘の玲奈が経理や庶務の事務を執っている、が、今は不在だった。
「ま、座って楽にしてくれ」
椅子の背に深くもたれ足を組みながら龍鳳がそう言ったが、菅原は両手を膝に乗せ畏まったまま龍鳳の前の椅子に浅く腰掛けた。
龍鳳は徐に上着のポケットからタバコを取り出し一服吸って深々と吐き出した。煙を吐き出しながら顰めた眉の辺りに険しい表情が見て取れた。
菅原は身体が固くなった。龍鳳が何か大事なことを言い出す気配が感じられた。
「話と言うのは他でもないが、今日は版元の神聖苑へ行って来たんだ」
 龍鳳がそう言った時、事務室の奥のドアを開けて玲奈がお茶を運んで来た。玲奈は菅原に少し微笑みかけたが、何も言わずにお茶だけ配って出て行った。二十五歳の成熟した女の色香が残った。玲奈は美人だった。色白の頬に笑窪が刻まれ、ほっそりしているのに胸や腰には豊満な線が浮き出ていた。(有)龍鳳印刻堂の職人達は皆、師匠のこの美しい娘に恋焦がれていた。若い頃の菅原も例外ではなかったが、その内に、この娘は俺には合わないな、と思い始めるようになった。成人して美貌に磨きが掛かるに連れて、怜奈は、男は誰もが皆、自分に魅せられ跪くものと思うようになったようだった。菅原にはそれが次第に鼻持ちならぬほどに疎ましくなった。菅原は早々に自分の気持に見切りをつけて、仕事で出逢った由紀と二年前に結婚した。出逢った当初から由紀とは相惹かれるものがあった。玲奈には無い円やかさや温もりが由紀には有った。菅原はその穏やかさに惹かれた。由紀も、職人特有の尖った鋭さを表に表さない菅原の真の強さに、大きな信頼を寄せた。
「いつもの注文の件ですか」
「ああ。今年は彼方此方合わせて十二個だそうだ」
 神聖苑は神社仏閣に奉納する品物を扱う商社で、毎年、年の瀬が近づくと、(有)龍鳳印刻堂に大きな注文を出してくれる。神社の本殿や寺院の仏像横に飾り付ける大きな台紙の朱印を制作するのである。収める先が異なる毎に一つ一つ違う印章を彫らなければならないので、二つとして同じものは無い。
 その注文が入ると、師匠の龍鳳と工房で一番腕の良い職人の二人で、凡そ二ヶ月係りでその仕事に取組む。納期が迫って来ると居残りや休日出勤或いは徹夜で仕上げなければならない、一年の内でも最も大事な仕事の一つであった。その仕事を去年も一昨年も菅原が師匠龍鳳と二人でやって来た。
「さて、今年なんだが・・・」
龍鳳はここで一息ついて咳払いをし、一寸躊躇ったが、ひょいと顔を上げて菅原を見た。
「今年は寺尾に任せてみようかと思っている。それも一人でやらせようと思う」
「・・・・・」
菅原は思わず顔色が変わるのを自分でも感じた。彼はじっと顔を伏せた。屈辱が胸に溢れた。
 
 寺尾は(有)龍鳳印刻堂の子飼いの弟子ではなかった。龍鳳が親密にしている同業の印刻社から一年半ほど前に移って来た男だった。先輩職人の一人が独立して(有)龍鳳印刻堂を辞めて行った後、手薄になった職人の補充に師匠が連れて来たという話であった。だが、寺尾はそれだけの存在ではなかった。彼は龍鳳の娘玲奈の恋人だったのである。近い将来に二人を一緒にさせる為に、龍鳳が同業の社長と話をつけて引っ張って来たのだ、とその頃職人達の間では噂されていた。寺尾は無口な職人で余り笑うことも無く、新顔だからと周りに気を使って遠慮した態であったが、技量は相当に高く腕の良い職人だった。気に入った仕事に打ち込み出すと残業はおろか徹夜も辞さず工房に籠もり切って見事な作品を創り上げた。寺尾の仕事振りには誰もが一目置いた。
 菅原はそんな寺尾に無関心ではいられなかった。先輩職人が独立して自分の工房を構えたり、他所へ移って行ったりして、一人ずつ抜けて行った後は、菅原が一番古参になっていた。自然に、龍鳳の指示を受けて他の職人に仕事を割り振ったり、新人職人の仕事を見てやったりする役割が菅原に廻って来ていた。菅原には(有)龍鳳印刻堂に居ついた先輩職人としての誇りがあったし、技量でも新参の寺尾には負けられないという意地もあった。
龍鳳の話を聞いて思わず顔色が変わったのはそういうことだった。
 
 だが、菅原の口を突いて出たのは、自分でも思いがけない程の冷静な言葉だった。
「良いんじゃないですか、寺尾なら腕はしっかりしていますし・・・」
辛うじて踏み止まった矜持の言葉だった。が、顔が醜く歪むのが自分でも解かった。
「そうか、賛成してくれるか、有難う」
龍鳳はほっとした色を顔に表して言った。
「最初は、君と寺尾の二人でやって貰おうと思っていたんだが・・・儂ももういい歳だし、今年あたりから君たちに任せてみようと思って、な」
「・・・・・」
「然し、考えてみれば、君と寺尾とでは、何と言うか、手が違うんだな」
龍鳳はいつもと違って注意深く言葉を選んで話していた。
 このことが龍鳳の言う通りに決まって寺尾が別の部屋に籠もり、神聖苑の仕事をするようになれば、他の職人の自分を見る眼も変わって来るだろう、と菅原は思った。
龍鳳もその辺りのことは察していて、古参の子飼い職人の気持を傷つけまいと気を使っていた。
「どっちが良い、どっちが悪い、と言うんじゃないんだ。ただ、任せるならどちらか一人にした方が良いんじゃないかと思って、な。それともう一つ・・・」
菅原は顔を伏せてじっと聞いていた。愈々、玲奈と寺尾の結婚の話だな、と思った。
「儂もそろそろいざという時のことを考えなくてはならん歳だ。君もうすうす知っている通り、玲奈と寺尾は恋仲だ。二人が一緒になれば(有)龍鳳印刻堂の将来も心配無い、とまあこうも考えている次第なんだよ」
「・・・・・」
「君が独り身なら君が良かったんだ。腕に不足はないし気心も知れているし、それに玲奈も若い頃から良く懐いていたし・・・だが、君はさっさと結婚してしまったし、な」
 菅原はもう龍鳳の言葉を聴いていなかった。激しい恥辱に苛まれていた。龍鳳の言葉で労われれば労われるほど、恥辱は深まった。
寺尾が玲奈と結婚して仕事の指図をするようになったら、その下では働けないな、と菅原は心の底で思った。
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