クラブ「純」のカウンターから

相良武有

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第五章 同級生、印刻師の菅原

⑤菅原、工房を退職して独立する

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「丁度良い家だったわね、あの家」
由紀はコーヒーを飲みながら未だ先刻見て来た家のことを言っていた。
「あそこならあなたが独立して仕事を始めても工房も確保出来るし、家族の生活が脅かされることも無いわ」
菅原もその物件を見た時、由紀と同じことを思ったのだった。
 大通りに面した二階建ての、古民家を改造した店舗住宅だった。通り廊下を挟んで左側に十畳ほどの土間が在り、その奥に六畳大の洋間が二つ続いていたし、廊下の右側には七畳半ほどの洋間とその奥に同じ大きさのダイニングキッチンと六畳大の洋間が並んでいた。土間はそのまま仕事場に使えそうだし、土間の奥の洋間の一つは事務所として格好である、
右側の七畳半は応接室に丁度良かった。
二階には六畳の和室が三つと四畳半の洋間が一部屋在って、生活するには十分に広いスペースだった。
間口が狭く奥行きの広い典型的な古民家作りで、家の中が少し暗いのが難点と言えば難点だったが、その他は申し分無かった。一応手付けは打って来たが、二人が其処に住むのは年が明けて菅原が独立する一ヶ月後のことである。
「俺たちには贅沢過ぎて勿体無いようにも思うが、な」
夕刻前の喫茶店は客の姿もまばらで、二人の話に聞き耳を立てるような者は居なかった。
ウエイトレスがカウンターの奥で手持ち無沙汰に外を見ていた。
 菅原の胸には微かな躊躇いがあった。家賃の高さが引っ掛かっていた。今の賃貸マンションよりかなりの高値だった。独立して仕事が直ぐに有るとは限らないし、喰っていける保証は何一つ無い。由紀が共働きをしてくれているとは言え、それを生計の当てにする訳にはいかなかった。由紀は(有)龍鳳印刻堂が彫刻刀や朱墨や判木等を仕入れる商社で販売を担当していたが、菅原と結婚した後も引続いて其処に勤めている。切れ長の澄んだ瞳が人を惹きつける十人並みの容姿を持った明るい働き者で、気持も常に前を向いて強いものを持っていた。が生活の面倒までも由紀に背負わせる訳には行かなかった。
気持の底にそんな引っ掛かりを隠して、手放しでは喜べない思いを菅原は口にした。
「良い家だが、二人で住むには広過ぎると思うんだが・・・」
「何言っているのよ。子供が出来て、職人さんを雇いでもしたら、直ぐに狭くなるわよ」
「・・・・・」
「それにね、わたし、今までずうっと団地やマンション暮らしだったの、だから一戸建ての家に住みたいと前から思っていたの。ううん、解かっているわ、あなたの気持。確かに家賃は高いわ。でも大丈夫、決して贅沢なんかしないし少しは貯金もしてある。仕事はこれからも続けるしあなたに家計の心配なんか掛けはしないわ」
由紀の本心を打ち明けた話し振りに菅原の心の蟠りは少し解れたようだった。
ま、何とかなるだろう・・・俺も遊んで暮らす訳じゃない、独立してばりばり仕事をするのだから、な。
 
 菅原は、神聖苑の仕事で師匠龍鳳と寺尾が別室に籠もった後、年末に掛けて、残っている細々とした仕事を、職人達を急き立てながら滞り無く片付けた。菅原が(有)龍鳳印刻堂を辞めたのは暮れも押し詰まった師走の二十九日だった。龍鳳が執拗に引き止めはしたが、それを振り切って退職した。
 菅原の胸には一つの思いが沸々と湧き上がっていた。
菅原は自分の創りたいものを自分の手で彫りたいと思った。一等印刻師岡本龍鳳の枠の中で作るのではなく、その制約や呪縛から解き放たれて自由に好きなものを創りたかった。(有)龍鳳印刻堂では、たとえ最初から最後まで自分でやらせて貰ったにしろ、それは所詮龍鳳の手の中のものでしかなかった。印刻の仕事は伝統工芸であり、それは止むを得ないことであったかも知れないが、菅原は技術競技会や展覧会で賞を取るような立派なものでなくても、広く一般の人が手にしてくれる身近なものを彫りたいと思った。
 経つ鳥、後を汚さず、残り仕事は全て片付けて退職した。引き際は綺麗だった。
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