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第七章 バーテンダー嶋木
②女は未だマンションの部屋で眠っていた
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マンションに戻った嶋木は直ぐに冷蔵庫から冷たいペットボトルを取り出して一気に水を飲んだ。部屋には夏の熱気が篭っていて汗が引くところまでは行かなかったが、喉は潤った。
それから嶋木は、気だるく隣の寝室へ入って行った。其処はエアコンが効いて心地良い空気が流れていたが、その中に鼻をつく女の体臭が篭ってもいた。もう起きているかと思っていたが、女は未だベッドで眠りこけていた。
厚手のカーテンで閉め切った薄暗い中で服を脱いだ龍司は、ダブルベッドの女の傍に横たわった。
「あんたぁ、帰ったの?」
「ああ」
女が気だるく向き直って嶋木の首に腕を廻したが、嶋木はその腕を煩そうに外して眼を瞑った。
女はクラブのホステスで名を奈美と言った。
二年ほど前、深夜に客や同輩と一緒に嶋木の酒場へやって来た奈美が、その客にしつこく絡まれたのを助けてやったのが契機だった。
男が女の首に手を巻いて抱きすくめようとしていた。
「嫌や、止めて、何するのよ!」
女は大声を挙げて男を突き離した。
よろめいた男は、このアマ、という怒りを眼の中に紅く燃やして立ち上がった。
助けを求めるように女が嶋木の方を見た。
「止しなよ、嫌がっているじゃないか」
嶋木は男と女の間に割って入った。
「喧しい!手前ぇは黙っていろ!」
いきなり男が殴りかかって来た。
男が振り廻した腕をかわし損ねて一発浴びた嶋木は、次の瞬間、猛然と反撃に出た。
左の強烈なフックを男の鳩尾に見舞い、う~っと呻いて前のめりになった男の左頬に十分に体重の乗った右ストレートを打ち込んだ。横飛びに倒れた男はカウンターの止まり木に肩や首の辺りを強かに打った。
男の胸倉を掴んだ嶋木は引き摺り挙げるようにして男を立たせ、そのまま扉の方へ引っ張って行った。放り出すようにして扉の外へ投げ出された男は向き直って身構えたが、扉を背にしてすっくと立った長身の嶋木を見て、チッという表情を浮かべ、ぷいと横を向いてそのまま足早に去って行った。
それから奈美は頻繁に嶋木の店にやって来た。客と連れ立って来ることもあったが、次第に一人でクラブの閉店後に立ち寄るようになり、いつしか二人は男と女の関係になって行った。
直ぐに欠伸が込み上げて来て眠気が一気に嶋木の身体を包んだ。眠りに落ちる直前に、ふっと先程出会った老婦人の笑顔が頭を過ぎったようだった。
桐島美禰と言う名のその老婦人に、嶋木はリハビリの度に出会うようになった。会う度に二人は短い話を交わすようになっていた。話は老婦人の家族のことだったり、テレビ番組や新聞記事やその他取り止めの無い世間話だったりした。
嶋木は自分のリハビリが終わり医師の巡回診察を受けた後も未だ、桐島美禰が歩行訓練を続けているのを見ると、「ほら、しっかり」とか「さあ、頑張って」等と声を掛けて彼女を励ました。彼女も「今日は昨日より上手く歩けているわよ」等と叫んで返したりした。嶋木は笑いながら手を挙げ、しっかり頑張れよ、と心の中で呼び掛けながら、背を向けてリハビリセンターを出て行った。
「変ねぇ、あんたも」
老婦人の話をすると、同棲している奈美はいつもそう言う。
「二十歳の娘相手じゃあるまいし、そんな年寄りに調子の良いこと言ってさ。あんたはよっぽどお婆ちゃんっ子だったの?」
「俺が物心着いた頃には婆ちゃんはもう居なかったよ」
「それじゃ何であんた、その年寄りに優しくしているのよ?」
「気持ちの良い人だからだ。爽やかでいじけたところが無く、必死でリハビリ訓練に取組んでいる。昨日より一寸でも多く歩けるように一所懸命にやっている。転んでも自分ひとりで立ち上がろうとする、健気なもんだ」
「よっぽど若々しくて美人なのね、その人」
「何を馬鹿なことを言っているんだ!癇に障るような言い方はするな」
嶋木は自分の胸に置かれている奈美の腕を邪険に掴んで振り払った。
「痛い!」
奈美は甘えた声で言い、嶋木に掴まれた二の腕を擦った。
二人はベッドの上に横たわっている。一度目覚めて朝食とも昼食ともつかぬ食事をして、その後又、何をするでもなくベッドに入ってうつらうつらと居眠った。時計を見ると午後五時近くになっていた。部屋の中は空調が効いて暑くはなかったが、空気は澱んでいる。
嶋木は厚いカーテンを通して微かながらに入ってくる赤い光をぼんやりと眺めた。
「あの人が一生懸命なのが気持ち良いって言っているんだ。俺にもあんな風に一生懸命になった頃もあったからな。チャンピオンを目指して猛練習に明け暮れていた高校生の頃だ」
「でも今はもう駄目ね。あんたは酒場のバーテンだもの」
「喧しい!くだらんことを言うな」
「だって妬けるんだもの」
「妬ける?相手は七十過ぎの年寄りだぞ」
「違うの。そういう意味じゃないの。でも、あんたがその人の話をする時にはとっても活き活きとした眼をして真面目な顔をしている。私が入って行けない別の世界に浸っている気がする。わたしはその時、何故かひどく一人ぼっちになってしまうの」
「人間はな、それぞれ他人が入り込めない世界を持っているものだ、自分で自分を甦らせる場所をそれぞれ持っているものだ。そして、その中じゃ人は皆それぞれ独りきりの筈だ。独りきりだからこそ自分を蘇生することが出来るんだ。他人がそこに入ろうたって出来るものじゃない。その点じゃ人間は皆独りきりなんだよ」
「わたしにはそんな難しいことは良く解からないわ。でも、何だかあんたが何処か遠い所へ行っちゃうような気がして不安なの」
何処か遠くか・・・それも悪くないな、と嶋木は思った。家もあり、帰る故郷もあり、親や女房や子供が居り、一日一日を明日に向かって積重ねて行く普通の人間の堅気の暮らしが、今の俺にはその中の何一つも無い。だが、今ならやろうと思えば未だ出来るかもしれない。此の儘ずうっと行っても先が開ける訳じゃない、精々、酒場を一軒持って、それで一生お終いだ。
「ねえ、何考えているの?」
奈美が肩に頬を寄せて足を絡ませて来た。
「ね、わたし今、とっても淋しいの。やってよ、ね、してよ」
奈美が嶋木の上に被さって来た。習慣的に嶋木も奈美の背に手を回した。冷たい背中だった。
奈美が腰をくねらせた。知り尽くして少し飽きた肉体だったが、嶋木の若さが最初の怠惰な動きを獣の荒々しい身振りに変え、その動きの下で奈美が喘ぎ呻いた。
それから嶋木は、気だるく隣の寝室へ入って行った。其処はエアコンが効いて心地良い空気が流れていたが、その中に鼻をつく女の体臭が篭ってもいた。もう起きているかと思っていたが、女は未だベッドで眠りこけていた。
厚手のカーテンで閉め切った薄暗い中で服を脱いだ龍司は、ダブルベッドの女の傍に横たわった。
「あんたぁ、帰ったの?」
「ああ」
女が気だるく向き直って嶋木の首に腕を廻したが、嶋木はその腕を煩そうに外して眼を瞑った。
女はクラブのホステスで名を奈美と言った。
二年ほど前、深夜に客や同輩と一緒に嶋木の酒場へやって来た奈美が、その客にしつこく絡まれたのを助けてやったのが契機だった。
男が女の首に手を巻いて抱きすくめようとしていた。
「嫌や、止めて、何するのよ!」
女は大声を挙げて男を突き離した。
よろめいた男は、このアマ、という怒りを眼の中に紅く燃やして立ち上がった。
助けを求めるように女が嶋木の方を見た。
「止しなよ、嫌がっているじゃないか」
嶋木は男と女の間に割って入った。
「喧しい!手前ぇは黙っていろ!」
いきなり男が殴りかかって来た。
男が振り廻した腕をかわし損ねて一発浴びた嶋木は、次の瞬間、猛然と反撃に出た。
左の強烈なフックを男の鳩尾に見舞い、う~っと呻いて前のめりになった男の左頬に十分に体重の乗った右ストレートを打ち込んだ。横飛びに倒れた男はカウンターの止まり木に肩や首の辺りを強かに打った。
男の胸倉を掴んだ嶋木は引き摺り挙げるようにして男を立たせ、そのまま扉の方へ引っ張って行った。放り出すようにして扉の外へ投げ出された男は向き直って身構えたが、扉を背にしてすっくと立った長身の嶋木を見て、チッという表情を浮かべ、ぷいと横を向いてそのまま足早に去って行った。
それから奈美は頻繁に嶋木の店にやって来た。客と連れ立って来ることもあったが、次第に一人でクラブの閉店後に立ち寄るようになり、いつしか二人は男と女の関係になって行った。
直ぐに欠伸が込み上げて来て眠気が一気に嶋木の身体を包んだ。眠りに落ちる直前に、ふっと先程出会った老婦人の笑顔が頭を過ぎったようだった。
桐島美禰と言う名のその老婦人に、嶋木はリハビリの度に出会うようになった。会う度に二人は短い話を交わすようになっていた。話は老婦人の家族のことだったり、テレビ番組や新聞記事やその他取り止めの無い世間話だったりした。
嶋木は自分のリハビリが終わり医師の巡回診察を受けた後も未だ、桐島美禰が歩行訓練を続けているのを見ると、「ほら、しっかり」とか「さあ、頑張って」等と声を掛けて彼女を励ました。彼女も「今日は昨日より上手く歩けているわよ」等と叫んで返したりした。嶋木は笑いながら手を挙げ、しっかり頑張れよ、と心の中で呼び掛けながら、背を向けてリハビリセンターを出て行った。
「変ねぇ、あんたも」
老婦人の話をすると、同棲している奈美はいつもそう言う。
「二十歳の娘相手じゃあるまいし、そんな年寄りに調子の良いこと言ってさ。あんたはよっぽどお婆ちゃんっ子だったの?」
「俺が物心着いた頃には婆ちゃんはもう居なかったよ」
「それじゃ何であんた、その年寄りに優しくしているのよ?」
「気持ちの良い人だからだ。爽やかでいじけたところが無く、必死でリハビリ訓練に取組んでいる。昨日より一寸でも多く歩けるように一所懸命にやっている。転んでも自分ひとりで立ち上がろうとする、健気なもんだ」
「よっぽど若々しくて美人なのね、その人」
「何を馬鹿なことを言っているんだ!癇に障るような言い方はするな」
嶋木は自分の胸に置かれている奈美の腕を邪険に掴んで振り払った。
「痛い!」
奈美は甘えた声で言い、嶋木に掴まれた二の腕を擦った。
二人はベッドの上に横たわっている。一度目覚めて朝食とも昼食ともつかぬ食事をして、その後又、何をするでもなくベッドに入ってうつらうつらと居眠った。時計を見ると午後五時近くになっていた。部屋の中は空調が効いて暑くはなかったが、空気は澱んでいる。
嶋木は厚いカーテンを通して微かながらに入ってくる赤い光をぼんやりと眺めた。
「あの人が一生懸命なのが気持ち良いって言っているんだ。俺にもあんな風に一生懸命になった頃もあったからな。チャンピオンを目指して猛練習に明け暮れていた高校生の頃だ」
「でも今はもう駄目ね。あんたは酒場のバーテンだもの」
「喧しい!くだらんことを言うな」
「だって妬けるんだもの」
「妬ける?相手は七十過ぎの年寄りだぞ」
「違うの。そういう意味じゃないの。でも、あんたがその人の話をする時にはとっても活き活きとした眼をして真面目な顔をしている。私が入って行けない別の世界に浸っている気がする。わたしはその時、何故かひどく一人ぼっちになってしまうの」
「人間はな、それぞれ他人が入り込めない世界を持っているものだ、自分で自分を甦らせる場所をそれぞれ持っているものだ。そして、その中じゃ人は皆それぞれ独りきりの筈だ。独りきりだからこそ自分を蘇生することが出来るんだ。他人がそこに入ろうたって出来るものじゃない。その点じゃ人間は皆独りきりなんだよ」
「わたしにはそんな難しいことは良く解からないわ。でも、何だかあんたが何処か遠い所へ行っちゃうような気がして不安なの」
何処か遠くか・・・それも悪くないな、と嶋木は思った。家もあり、帰る故郷もあり、親や女房や子供が居り、一日一日を明日に向かって積重ねて行く普通の人間の堅気の暮らしが、今の俺にはその中の何一つも無い。だが、今ならやろうと思えば未だ出来るかもしれない。此の儘ずうっと行っても先が開ける訳じゃない、精々、酒場を一軒持って、それで一生お終いだ。
「ねえ、何考えているの?」
奈美が肩に頬を寄せて足を絡ませて来た。
「ね、わたし今、とっても淋しいの。やってよ、ね、してよ」
奈美が嶋木の上に被さって来た。習慣的に嶋木も奈美の背に手を回した。冷たい背中だった。
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