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第八章 純子ママ
⑧あんな男は初めてだった
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「あら、どうしたの?」
自室のマンションで目覚めた茉莉は、半身を起して、暗い闇の中の男の動きを追った。
「ああ、起しちゃったか?」
男は馴染み客の新藤だった。自分で起業して十年足らず、IT関連の事業で成り上がった会社の社長である。歳は三十五歳で、それ程のイケメンではないが闊達な気性で店での金遣いは綺麗な男だった。
「いや、起そうかどうか迷ったんだが・・・」
「其処で何をしているの?」
茉莉は素早くガウンを手繰り寄せて暗がりの男に眼を凝らした。
「着替えているところだよ、帰ろうと思って、な」
「泊るんじゃなかったの?」
茉莉は胸に軽い怒りを覚えて、少し語気が強くなった。
茉莉の不機嫌さを男は直ぐに理解したのか、恐縮した声で応えた。
「泊る心算だったんだが、明日、会社が潰れるかと思うと、やっぱり落ち着かない」
「会社が潰れるの?」
「ああ。売上低迷と借金で資金繰りがつかなくなって、手形が落ちないんだ。会社更生法を申請することになっている」
「・・・・・」
「お前とも今夜が最後だ、もう会えないよ」
茉莉は枕燈を点け素早くガウンを羽織ってベッドから降りた。新藤は既に着替え終わっていた。
茉莉は新藤の前を通って隣のリビングへ入り、更にその先の居間に入って点灯した。それから徐に彼を呼んだ。
茉莉の居間はキャバクラナンバーワンをそのまま現して絢爛だった。
リビングの引き戸を開けると内障子が建て付けられ、壁はクロス張りだったが青竹に柿色の葉をあしらった純和風だったし、青畳が十畳も敷き詰められていた。和風調度品も豪華で、箪笥は黒塗りの鍍金金具仕立、三面鏡も黒漆塗り、テーブル横の小机は紫檀、茶器を納めるお盆は赤漆地に金銀の模様を散らした蒔絵塗りだった。
それはまるで、煌びやかな部屋で豪華な調度品に囲まれて暮らしていることで心を落ち着かせ、安心感を得ているようにも見えた。茉莉が絢爛な品々で鎧のように自分を包み、守って居たのかも知れなかった。
だが、部屋の中には秋の夜のひんやりした空気が漂っていた。
新藤はお茶を淹れる茉莉のガウンから覗く白い手首をちらちらと見た。
男の口から出た言葉は尋常ではなかったが、茉莉は動揺の色は見せなかった。茶を勧めながら静かな口調で言った。
「訳を聞いても良いかしら?」
「訳なんて無いよ、何も」
そう言って新藤は、はっはっはっ、と笑った。
「俺は自分のやりたい仕事を思う存分やって来たし、遊びも十分に愉しんだ。ただこの半年、仕事の方が少し手抜きになって売上が落ち、その付けが回って来ただけのことだ」
「奥さんや子供さんも居るのでしょう?」
「妻は離婚して実家へ帰した。子供も一緒だ。もう二月ほど前だよ。倒産で累が及ぶといけないからな」
「どうして、会社がそんな状態で、キャバクラで遊んでいたりしたの?」
「別に無理をした訳じゃないが・・・」
新藤は微笑して茉莉を見た。男にしては優し過ぎる細い眼だった。
「言われて見れば、最初から無理だったのかも知れないな。茉莉は俺のような零細企業の社長が付き合えるような女じゃなかった。それは解っていたが、接待で何度か店へ通っている内に、どうしても俺のものにしたいと思うようになった。惚れてしまったんだ、心底」
「・・・・・」
「男と生まれたからには、一度はお前のような良い女と付き合ってみたかったんだよ」
新藤のそんな告白を聞いたのは初めてだった。あれだけ足繁く通って来たのだから相当に金を使っただろうことは容易に想像出来た。会社の金に手をつけていたのかも知れなかった。
タクシーを呼んで新藤が乗り込むのを見送ってから、茉莉は部屋に戻った。だが、寝る気にはなれなかった。頭がすっかり冴えていた。茉莉は窓を開けて外を見た。高層マンションが立ち並ぶ街は漆黒の闇の中で未だ眠っていた。
変わった男・・・
茉莉は、出し抜けに別れを言って去って行った新藤のことを考えた。
新藤は今日も、店では気前良く金を使い、此処へ来てからも何時もと変わらなかった。会社が潰れることなど微塵も顔に出さなかった。それだけに、茉莉の胸にぐさりと突き刺さるものが残った。
新藤との仲は、普通の客とキャバ嬢の関係から男の女の仲に進んではいたが、それほど心を通わせたとは思えなかった。言わば、在り来りの関係だった。自分は惚れた男に裏切られ自暴自棄で風俗のキャバ嬢に墜ちて男を手玉に取って生きて来た、ただそれだけの女でしかないのに、その女に会社も妻子も放ったらかして入れ揚げる男が居たんだ、そう思った茉莉は、未だ何か新藤に言わなければならないことが有ったような気がした。
あんな男は初めてだった・・・
茉莉はこれまで厭と言うほど男を見て来た。否、男が居れば女が居た。男と女の愛憎を否が応にも目の当りにして来た。
縋りつく女の手をあっさり振り捨てて去って行った男、口笛を吹きながら別れて行った非情な男、上辺ばかりを繕って真実の無かった男、騙した心算が騙されて刃傷沙汰を起した男・・・。
この人だけはと恋に溺れて行った女、捨て場の無い寂しさに唇を咬んでいた女、忘れられずに酒に縋っている女、素顔に戻る日を夢見て生きている女、いつか来る春を希み捨てずに待っている女・・・。
憎み合ったり、我慢したり、別れたり、くっ付いたり、そんな男と女は星の数ほど見て来た。
だが、あんな男に出会ったのは初めてだった。酒と女を求めて集まって来る男達の中で、会社を潰すほどに時間と金をつぎ込みながら、恨み言も泣き言も何一つ言わず、お前と逢えて俺は幸せだったよ、と言わんばかりに微笑って去って行った男、これまであんな男は居なかった。茉莉の胸に初めて男への愛おしさが湧き上がって来た。
五日後、非番の日に、茉莉は名刺を頼りに新藤の会社へ行ってみた。
本社は白い三階建ての瀟洒なビルで、玄関の二本の太い丸柱はファッショナブルだった。だが、扉は堅く閉ざされ、人の居る気配は無かった。秋の陽を浴びながらビルは寒々としていた。
そこまで無理することは無かったのに・・・然し、世の中には、あんな男も居たんだ・・・
茉莉は何年振りかで眼が覚めて我に返った気がした。
自室のマンションで目覚めた茉莉は、半身を起して、暗い闇の中の男の動きを追った。
「ああ、起しちゃったか?」
男は馴染み客の新藤だった。自分で起業して十年足らず、IT関連の事業で成り上がった会社の社長である。歳は三十五歳で、それ程のイケメンではないが闊達な気性で店での金遣いは綺麗な男だった。
「いや、起そうかどうか迷ったんだが・・・」
「其処で何をしているの?」
茉莉は素早くガウンを手繰り寄せて暗がりの男に眼を凝らした。
「着替えているところだよ、帰ろうと思って、な」
「泊るんじゃなかったの?」
茉莉は胸に軽い怒りを覚えて、少し語気が強くなった。
茉莉の不機嫌さを男は直ぐに理解したのか、恐縮した声で応えた。
「泊る心算だったんだが、明日、会社が潰れるかと思うと、やっぱり落ち着かない」
「会社が潰れるの?」
「ああ。売上低迷と借金で資金繰りがつかなくなって、手形が落ちないんだ。会社更生法を申請することになっている」
「・・・・・」
「お前とも今夜が最後だ、もう会えないよ」
茉莉は枕燈を点け素早くガウンを羽織ってベッドから降りた。新藤は既に着替え終わっていた。
茉莉は新藤の前を通って隣のリビングへ入り、更にその先の居間に入って点灯した。それから徐に彼を呼んだ。
茉莉の居間はキャバクラナンバーワンをそのまま現して絢爛だった。
リビングの引き戸を開けると内障子が建て付けられ、壁はクロス張りだったが青竹に柿色の葉をあしらった純和風だったし、青畳が十畳も敷き詰められていた。和風調度品も豪華で、箪笥は黒塗りの鍍金金具仕立、三面鏡も黒漆塗り、テーブル横の小机は紫檀、茶器を納めるお盆は赤漆地に金銀の模様を散らした蒔絵塗りだった。
それはまるで、煌びやかな部屋で豪華な調度品に囲まれて暮らしていることで心を落ち着かせ、安心感を得ているようにも見えた。茉莉が絢爛な品々で鎧のように自分を包み、守って居たのかも知れなかった。
だが、部屋の中には秋の夜のひんやりした空気が漂っていた。
新藤はお茶を淹れる茉莉のガウンから覗く白い手首をちらちらと見た。
男の口から出た言葉は尋常ではなかったが、茉莉は動揺の色は見せなかった。茶を勧めながら静かな口調で言った。
「訳を聞いても良いかしら?」
「訳なんて無いよ、何も」
そう言って新藤は、はっはっはっ、と笑った。
「俺は自分のやりたい仕事を思う存分やって来たし、遊びも十分に愉しんだ。ただこの半年、仕事の方が少し手抜きになって売上が落ち、その付けが回って来ただけのことだ」
「奥さんや子供さんも居るのでしょう?」
「妻は離婚して実家へ帰した。子供も一緒だ。もう二月ほど前だよ。倒産で累が及ぶといけないからな」
「どうして、会社がそんな状態で、キャバクラで遊んでいたりしたの?」
「別に無理をした訳じゃないが・・・」
新藤は微笑して茉莉を見た。男にしては優し過ぎる細い眼だった。
「言われて見れば、最初から無理だったのかも知れないな。茉莉は俺のような零細企業の社長が付き合えるような女じゃなかった。それは解っていたが、接待で何度か店へ通っている内に、どうしても俺のものにしたいと思うようになった。惚れてしまったんだ、心底」
「・・・・・」
「男と生まれたからには、一度はお前のような良い女と付き合ってみたかったんだよ」
新藤のそんな告白を聞いたのは初めてだった。あれだけ足繁く通って来たのだから相当に金を使っただろうことは容易に想像出来た。会社の金に手をつけていたのかも知れなかった。
タクシーを呼んで新藤が乗り込むのを見送ってから、茉莉は部屋に戻った。だが、寝る気にはなれなかった。頭がすっかり冴えていた。茉莉は窓を開けて外を見た。高層マンションが立ち並ぶ街は漆黒の闇の中で未だ眠っていた。
変わった男・・・
茉莉は、出し抜けに別れを言って去って行った新藤のことを考えた。
新藤は今日も、店では気前良く金を使い、此処へ来てからも何時もと変わらなかった。会社が潰れることなど微塵も顔に出さなかった。それだけに、茉莉の胸にぐさりと突き刺さるものが残った。
新藤との仲は、普通の客とキャバ嬢の関係から男の女の仲に進んではいたが、それほど心を通わせたとは思えなかった。言わば、在り来りの関係だった。自分は惚れた男に裏切られ自暴自棄で風俗のキャバ嬢に墜ちて男を手玉に取って生きて来た、ただそれだけの女でしかないのに、その女に会社も妻子も放ったらかして入れ揚げる男が居たんだ、そう思った茉莉は、未だ何か新藤に言わなければならないことが有ったような気がした。
あんな男は初めてだった・・・
茉莉はこれまで厭と言うほど男を見て来た。否、男が居れば女が居た。男と女の愛憎を否が応にも目の当りにして来た。
縋りつく女の手をあっさり振り捨てて去って行った男、口笛を吹きながら別れて行った非情な男、上辺ばかりを繕って真実の無かった男、騙した心算が騙されて刃傷沙汰を起した男・・・。
この人だけはと恋に溺れて行った女、捨て場の無い寂しさに唇を咬んでいた女、忘れられずに酒に縋っている女、素顔に戻る日を夢見て生きている女、いつか来る春を希み捨てずに待っている女・・・。
憎み合ったり、我慢したり、別れたり、くっ付いたり、そんな男と女は星の数ほど見て来た。
だが、あんな男に出会ったのは初めてだった。酒と女を求めて集まって来る男達の中で、会社を潰すほどに時間と金をつぎ込みながら、恨み言も泣き言も何一つ言わず、お前と逢えて俺は幸せだったよ、と言わんばかりに微笑って去って行った男、これまであんな男は居なかった。茉莉の胸に初めて男への愛おしさが湧き上がって来た。
五日後、非番の日に、茉莉は名刺を頼りに新藤の会社へ行ってみた。
本社は白い三階建ての瀟洒なビルで、玄関の二本の太い丸柱はファッショナブルだった。だが、扉は堅く閉ざされ、人の居る気配は無かった。秋の陽を浴びながらビルは寒々としていた。
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