翻る社旗の下で

相良武有

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第一章 悔恨

第19話 麗子、悪性の膵臓癌で急逝する

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 翌日の午後、看護師が麗子と佐々木の二人を呼びに来た。先生がお会いになる、と言う。
案内された部屋には既に医師が待っていて、その前に椅子が二つ置いてあった。
医師が徐に、言い澱むように、苦渋に満ちた貌差しで、切り出した。
「結論から先に申し上げます。診断の結果は膵臓癌ですね。それもかなり大きな悪性細胞による進行癌です」
「えっ!」
麗子は激しいショックを受けた。一度に闇の底へ突き落とされたようだった。厳然とした事実を前にして理性で考えた覚悟など何程のものでもなかった。
 それから医師は診断結果について詳しく話し始めた。
血液中の膵酵素や腫瘍マーカーの値が異常であること、主膵管が拡張して小のう胞が見え膵臓周辺が不整に見えること、リンパ節や骨にも転移していること、採取した細胞は悪性で進行ステージはⅣbであり手術による摘出は不可能であること、等々を写真や画像を指し示しながら丁寧に話して聞かせた。
佐々木が喰い付くようにして医師に聞いた。
「手術によって病巣を摘出することは出来ないのですか?先生」
「残念ながらここまで進行していると・・・」
摘出しても延命効果は無い、ということだった。
 麗子はもう医師の言葉など聞いていなかった。内容や原因など如何でもよかった。
麗子の胸一杯に深い重い悲嘆が拡がり、それが絶望へと変わって行った。
 ふと、佐々木の頭の中を麗子の不在が掠めた。
麗子と暮らし始めて二十年余り、初めて覚える感慨だった。麗子の存在を以前にも増して身近に知った気がした。これまで味わったことの無い感情だった。結婚してからというもの、麗子は居て当たり前だった。愛情が無くなって離別することはあっても、死んで居なくなるなど一時たりとも考えたことは無かった。佐々木は、麗子が死ねば、それ程に残酷なことは無い、と胸が塞がれた。
 
 麗子はその日のうちに退院して自宅へ帰った。退院には普通の場合は何らかの希望を伴うものだが、麗子は絶望の深淵で退院した。
 麗子はひと時、哀しみ苦しみ、打ち沈んだ。死の恐怖に慄いて打ちひしがれた。然し、麗子はやがて、何がどうであれ、世の中、人生、成るようにしか成らないわ、と開き直った。腹を括って度胸を据えたようだった。麗子は少し落ち着きを取り戻した。
 麗子は仕事を辞めなかった。毎週一回、ジェムザールという抗癌剤の点滴注射をして仕事に通った。点滴は三十分程度で済んだので外来治療で十分に対応出来た。
 抗癌剤は癌細胞の分裂を妨げて細胞増殖を抑える働きがあった。が、それは癌細胞だけをターゲットにしている訳ではなく、通常の細胞にも影響を及ぼす為に、吐き気、嘔吐、脱毛等の副作用が発生したし、骨髄の造血細胞が破壊されて免疫力低下や貧血、出血もしょっちゅう起こした。将に、治療効果と副作用が背中合わせの状況だった。
 麗子は放射線治療も受けた。放射線で癌細胞のDNAを破壊し、細胞分裂を抑える治療であったが、身体の外から放射線を当てるため、癌周辺の細胞にも少なからぬダメージをもたらした。ただ、放射線治療には癌の痛みを和らげる効果もあったのがせめてもの救いだった。癌細胞の増殖を抑えて神経に対する刺激を少なくすることで痛みを和らげるようだった。
 抗癌剤の点滴と放射線治療を受けながら麗子は仕事を続けた。体調不良で事務所に出られない時も間々あったが、麗子は仕事を続けることに拘った。
残り少ない日数の中で、いつ死んでも自分の中で悔いを残さぬよう、毎日、自分が今出来ることを精一杯最大限にやっておこう・・・麗子はそう覚悟を決めて腹を据えたようだった。佐々木はそんな麗子の芯の強さに頭が下がる思いがした。
 
 だが、癌細胞が骨に転移して神経を圧迫したり、腸管や尿管が塞がれて激しい痛みを覚えるようになった麗子は、神経の周辺にアルコールや鎮痛薬を注入されもしたが、遂に耐え難い痛みを訴えるようになって、最も鎮痛効果が高いモルヒネの使用を余儀なくされた。
程無くして、ベッドに起き上ることも出来なくなった麗子は、宣告された余命半年後に、呆気無く五十二歳の人生を閉じた。極めて治癒率の低い膵臓癌に侵されての死だった。
 麗子の死は佐々木に大きな喪失感を齎した。
心の中に不意に大きな穴が開いて、その暗い穴を今まで感じたことの無い虚ろなものが吹き抜けるのを感じた。これ程までに、と自身で訝る程の喪失感に苛まれた。かけがえの無い大事なものを失った感覚だった。麗子を亡くして初めて知った寒々しい沈痛な思いだった。
 佐々木は思っていた。
人は自身の死を体験出来るものではなく、死は決して慣れることの無い一度切りのものであり、唯ただ待ち受けるしかないものである。闘えるものではなく、抵抗というものを全く許さない恐怖の世界である。そもそも死とは本人が経験や記憶の主体としては消失することであり、だから、人は自身の死を経験することが出来ないのである。その意味で、死はいつも不在のものであり、思うだけのものであり、何処までも経験の彼方に在るものである。いつも想像されるだけのものである。
 人が真実に経験できる死というのは、自己の死ではなく、自己と関わりの有る他者の死である。但し、知らない人の死は、死の情報であっても死の経験ではない。死の経験というのは、自分を思いの宛先としてくれていた他者が居なくなることの経験、つまりは喪失の経験であると言える。誰かに「死なれる」という経験である。
死者は応えを返しはしない。その不在の経験が「死なれる」ということであり、それは問いかけても、問いかけても、空しいものである。
こういう喪失の経験が、これから少しずつ、麗子との語らいとして裏返って行くのであろうか・・・
 佐々木の頭には実に雑多な色んなものが、切り無く浮かんでは消え、又、浮かんだ。それがどうにも整理がつかず、苛々しながら彼は目を瞑った。
人は、今自分がやっていることの意味が解らないままそれをするというのは、苦痛なことである。それが積もり積もって、自分が何故この場所に居るのか、納得が行かないまま生き続けるというのは、やり切れないものである。思った通りに人生を生きていると考えることの出来る人間など滅多に居ない。居心地の悪さ、収まりの悪さがいつも人生には付き纏っている。それほど人生は思いと違うことの連続である。麗子もまた、思い通りにならないもの、思い通りにならない理由が解らないものに取り囲まれて、苛立ち焦り、不満や違和感の息苦しさを胸一杯に溜め込んで、その鬱ぎを突破する為に、自分が置かれている状況を解り易い論理に包んで、その論理に立て篭もろうとしたのだろうか・・・
 佐々木は三十年の間、変わること無く麗子を心の底から愛して来た。麗子への愛しさが胸一杯に拡がった。喪失の空虚な錘が悲哀と寂寥の思いと重なって佐々木の胸の奥深くに沈殿した。
 
 葬儀場は花の香りに溢れ、人、人、人で立て込んでいた。
佐々木の会社関係者、麗子の友人達や仕事のクライアント、二人の同級生達、長年住まっ
てきた町内会の人々等々、彼等は皆、喪服に装いを正して一様にうなだれ、沈鬱な表情を
浮かべていた。
 入り口の壁際に佐々木と彼の弟が立って、弔問者の悔やみの言葉に丁寧に礼を返した。円
く太った佐々木の顔は、頬が弛み目が血走っていた。斎場には僧侶の読経の声が厳かに流
れ、女達の啜り泣く声が聞こえた。
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