翻る社旗の下で

相良武有

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第二章 悔悟

第23話 「細田純子って人を覚えていますか?」

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 会社の応接室で借金の催促でもあるまいか・・・山崎はそう思って下野を外に連れ出した。
「どうだい?商売はその後、上手く行っているのだろうね」
近くの小料理店の二階で、一通り酒が廻って、何気ない世間話が済んだところで、山崎がそう聞いた。
「ええ、まあ、どうにか。社員五人、今年も何とか年が越せそうです」
「そうか、そりゃ良かった。然し、何だね。君も正月を迎えると、五十二、いや、五十三歳かな?」
「社長さんと同じ歳ですから、五十二歳ですよ」
「その社長さんと言うのは止してくれよ。特に今は会社ではなく、普段の酒の席だからな」
山崎は苦笑いした。だが、腹の中ではもっと苦虫を噛み殺していた。下野から社長さんなどと呼ばれても面白くも何とも無い。大体が、下野と飲んでも少しも愉しくはなかった。
「昔のように山崎と呼んでくれれば良いのだよ」
「いやいや。其方は業界ナンバーワンと言われる会社の社長さんで、此方はその代理店をやらせて貰って飯を食っているしがないブローカーです。立場も身分も違いますよ」
「僕は身分や立場で付き合っている心算は無いよ」
山崎は少し語気を荒めた。先程から腹の中に動いている苛立ちが、少しずつ軽い怒りに変わって、ついつい言葉が強くなった。
柔和な口調で殊勝なことを言っているが、下野はやはり、初めからしがないブローカーの立場を逆手にとって、順調に会社を発展させてそれなりの成功を収めた昔の同僚にたかる心算だったのではなかろうか。これまで努めて考えるのを避けて来たその思いが山崎の胸に膨れ上がって来た。
下野がその心算なら、此方も別に甘い顔を見せることは無い、と思った。商売は商売として割り切った正常な取引をし、貸した金は返して貰わなければならない。
 小座敷から見える窓の外がもうすっかり暗くなって来ていた。改めて下野に酒を注いで言った。
「然し何だね。君も僕もお互いにもう若くない歳だからな。五十歳を過ぎると、昔のようには無理も効かないしね」
「そうですね。その通りですよ」
「君もブローカーとして十年以上になるのだろうけど、少しは信用も金も出来たことだろう」
「いやいや、なかなかそうも行きません」
手を振って山崎に向けた下野の顔が酔いで赤く染まっている。その顔に卑屈な笑いが浮かんでいた。
「この前、社長さんに申し上げたように・・・」
「あのね、プライベートな時は、その社長さん呼ばわりは止めてくれよ」
山崎はついつい険しい声を出した。
「お互いにサラリーマン時代の同期の同僚だろう。君はそうして僕を煽てておけば、何か良い話があると思っているかもしれないが、僕も経営者の端くれだ。けじめを着けるべきところはきちっと着けるからね」
下野は途方に暮れた顔をした。山崎が急に不機嫌になったのが解せないという顔付きである。
少し言い過ぎたかな、と山崎は思った。若い頃の下野を思い出していた。あの頃、山崎は二十七歳で係長になり、次は課長代理だとの声も聞かれる最中に妻の翔子と結婚した。そして、娘婿として義父の会社に引き抜かれたのである。
 下野は、山崎が会社を去る時、未だ主任にもなれずに、後輩に追い越されてうろうろしていた。元々やや鈍感であり、機敏な機転の利くタイプではなかった。そういったことは新人研修の頃は未だ解らなかったが、同じ部署に配属されペアを組んで二人で得意先を回り始めると、とりわけ、山崎が係長になって部下や仕事を管理し始めると、下野の愚鈍さが一際よく目につくようになった。こんなに鈍間だったのか、こいつは・・・だから五十歳を過ぎた今も、しがないブローカーで身過ぎ世過ぎを送っているんだ。
そう思うと、ここ数日の間、下野に対して秘かに抱き続けて来た奇妙な苛立ちも、ただの思い過ごしに思えて来た。この男に、人にたかるような才覚がある筈がない、下野は所詮これだけの男だったのだ。
だが、言うだけは言っておくのが良いだろう、山崎は表情を和らげた。
「あのね、我々の付き合いは、特にプライベートな付き合いは、嘗ての同僚ということで良いじゃないか。別にしゃちこばることは無いよ、気さくにざっくばらんで良いじゃないか」
「そりゃ、もう」
「ただ、だからと言って、だらしない付き合いは駄目だね。君に貸した金なんかは大した額じゃないが、借りっ放しは困るよ。金のけじめというものは、君も商売で飯を食っている人間だ、解っているとは思うがね」
恐縮して詫びを入れるかと思ったが、下野は返事をしなかった。俯いたまま手酌で酒を飲んだ。
妙な奴だな、と山崎は思った。酔いが回って此方の言うことが解らないのかと思った時、下野が顔を上げて山崎を見た。酔いに濁った小さな眼だった。下野はその目を二、三度瞬いてから言った。
「昔のことですがね。細田純子って人を覚えていますか?」
山崎は顔を起して、思わず探るように下野を見た。下野は眼を伏せずに見返している。
山崎はごくりと生唾を飲み込んでから言った。
「覚えているよ。得意先の資材課に居た娘だ」
「今、何処に居るか、知っていますか?」
「僕が?」
山崎は苦笑した。
「僕が彼女の居る場所を知っている訳が無いだろう。今、君に名前を聞いて吃驚しているところだからね」
「新地で高級クラブのママさんをやっていますよ」
「・・・・・」
「一月ぐらい前にね、ばったり会ったのですよ。昔と全然変わっていなくて直ぐに彼女だと解りました、いやあ、驚きました」
「なるほど」
山崎は先を促す格好で下野の顔を見た。
「それで彼女と昔話をして、僕の悪口なども聞き出したのかね?」
「違いますよ、社長さん」
下野の顔に薄笑いが浮かんでいる。
「社長さんの話などは出ませんでしたよ。だけどね、私は知っているんですよ、昔のあのことをね。いえいえ、勿論誰にも言ってはいません」
そうか、と山崎は思って、下野の顔をじっと見た。純子のことは誰にも気づかれずに上手く処理した心算だったが、やはり知っていた人間は居たのだ。
下野のような男でも、そのことと今の俺の境遇とを結びつけて、会社の儲けにたかるネタになると踏んだ訳だ。そう思って眺めると、酒に酔って赤い顔をした五十歳絡みの男が、なかなか油断の出来ない狡猾さを隠し持っているように見えて来た。
 だが、古い話であった。遥か昔にカビの生えた話である。少なくとも下野がその話を持ち出して来るのは十年遅かったな、と山崎は思う。もっとも、そのあたりの才覚の鈍さが下野らしいと言えなくも無い。
「なるほど。それで君は、その話を僕の家内にでも話そうという算段かね?」
「・・・・・」
「そりゃ、結婚する前に子供まで堕ろした仲の女が居た、などと聞いたら、家内はさぞ吃驚するだろうな」
山崎は軽い笑い声を立てた。ぐさりとやられた気分からはもう立ち直っていた。何か言おうとする下野に山崎は押し被せるように言った。
「だけど、僕が、妻には言って呉れるな、と君に頼むとでも思ったのなら、そりゃ大きな勘違いだね。今更、結婚前のことを穿り返して家内に知れたところで、別にどうってことも無いよ」
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