翻る社旗の下で

相良武有

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第四章 矜持

第52話 英二は来るべき場所に来たのを感じた

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「そんな訳でな、此処へも来辛くなった」
此処はこの街一番の歓楽街に在る瀟洒なクラブ「純」、隅の小さなボックス席で裕美は黙って、英二の飲み干した水割りを新しく作り変えた。裕美の頬にはふっくらと肉がつき、目元には以前には無かった憂いのようなものがある。成熟した女の陰翳のようなものが裕美の姿から醸し出されている。
「それで、どうされるんですか?」
裕美は低い声で聞いて、英二をじっと見た。その視線にうろたえたように英二はグラスを一気に呷った。 
「そんな無茶な呑み方をしては駄目ですよ」
裕美は英二の手から引っ手繰るようにしてグラスを取った。
「どうしようもないよ。当分はお前にも逢えんということだ」
裕美が俯いた。かすかな溜め息が洩れたように、英二には思えた。
「未だ、当分ここで働く心算か?」
「はい」
裕美は頷いて、微笑んだ。
「私、こういう仕事が合っているみたい、気が楽なんです」
「しかし、何日までもそうもいかんだろう。ご両親はどう言っておられるんだ?何も仰らんのか?」
「暫くはそっとして置く心算じゃないですか」
「しかし、不思議なものだな。お前がこうしてホステスをして、俺が此処へ酒を呑みに来ている」
「また怒られませんか?」
「社長か。あんな奴は放って置けば良いんだ。一体何様だと思って居やがるんだ。二言目には会社だ、世間体だと煩いことだ」
「仕方無いわ、みんな世間に縛られて生きているのだから」
「利いた風なことを言うな、裕美!」
ついつい大きな声になった英二を裕美が窘めた。
「他人に聞こえたら大変ですよ。大丈夫ですか?そんなに呑んで」
「俺はなあ、裕美。こうしてお前と居る時が、一番気が休まるんだ。俺が俺らしく在るということを実感出来るのさ」
「真実ですか?」
「婚約など、するんじゃなかったな。俺は一生、頭の上がらん婿養子だ。社長の椅子に眼の眩んだ入婿同然だ」
「でも、相手の方は聡明で綺麗な人なのでしょう、社長のお嬢さんなのですから」
「なにが綺麗なもんか、高慢ちきで鼻持ちならん女だ。裕美の方が遥かに可愛いよ」
英二はロングドレスの膝に置かれた裕美の手を取った。滑らかな柔らかい手だった。
不意に英二は酒が冷めるような気がした。指を絡ませたまま、裕美は俯いてじっとしている。
英二は来るべき場所に来たのを感じた。
立ち止まっているその前には川が流れ、橋が一本架っているだけである。その気になれば直ぐにでも渡れる距離であった。だが英二は立ち止まっていた。渡れば裕美ともども淵に落ちるのが眼に見えている。
「渡れんな」
「えっ?」
裕美は何か物思いに沈んでいたらしく、ぼんやりとした眼差しで英二を見た。それから直ぐに、今の英二の呟きを理解したかのように、身体を寄せて英二の肩に顔を乗せた。触れた髪は芳しかった。

 薄雲が幾筋か浮かんではいたが、空は青く晴れ上がっていた。
今年は春の訪れが遅く、然も、ずうっと菜種梅雨のような鬱としい天候が続いて春らしい日和は少なかったのだが、五月の声を聴いて漸く日照りが安定し、ここ数日は、空は晴れ亘っている。
 初夏が来て、今年も又、未婚のままで死んだ叔母の命日がやって来た。
父のたった一人の妹であったが、何処へも嫁がず、三十五歳を少し過ぎた頃、突然病死した。淋しげな美貌の人で、裕美や妹にはとても優しかった。裕美はこの叔母が大好きだった。
「清子叔母さんが、一度も嫁に行かずに生涯を終えられたのは、何か訳が有るの?」
裕美は墓参りの支度をしながら母に聞いた。
「あの人は身体が弱かったからねえ」
物干しで洗濯物を干している母の髪には白いものが一筋二筋混じって、五月の陽に光っていた。
「もっとも、結婚の話はあったのよ。相手は大きな建設会社の技師の方で相思相愛、似合いのカップルだったのよね。結納も交わし結婚式の日取りも決まっていたのに、相手の方が建設現場の事故でお亡くなりになったの。叔母さんはそれから身体の具合が急に悪くなったのよ」
「まあ!」
初めて聞いた話であった。が、その話には裕美の胸を鋭く打つものがあった。
「さあ、早く行ってあげなさい」
物干しから下りて来た母は少し物憂げにそう言って直ぐに階下へ降りて行った。
 霊園に着くと、裕美はタクシーを降りた後、いつものように管理事務所に立ち寄り、それから墓地に向かった。墓地は丘の中腹に、樹々に囲まれて広がり、きらきらと輝くほどの光を浴びていた。
線香に火をつけ、持参した献花を手向けた後、裕美は長い間、墓の前に頭を垂れた。
供えた花は邪気を払うと言われる大輪菊にリンドウをあしらったものだった。花屋さんが菱型に整えてくれた花は花建てにすっぽりと収まって、青いリンドウが黄色い大輪の菊を鮮やかに華やかに引き立てていた。
裕美は叔母を未婚のままで死んだ不幸な人だと思っていたが、母の話を聞いた後では、必ずしも不幸せだったとは言えないのではないかと思えていた。
叔母は少なくとも、死なれて致命的な痛手を受けるような人に出会えていたのである。そういう意味では、哀しいことではあるが不幸せなことではないだろう、と裕美は思った。
 
 墓参りを済ませて霊園を出たとき、裕美はふと、左手に見える遊歩道を歩いて帰ろうかと思った。細い遊歩道は曲がりくねった山麓に沿うように続き、その先は大きな橋の袂に下りて行っているように見える。そんなに急ぎ足に歩かなくても二十分ほどで市街に出られるだろうと思った。裕美は木の間から降り注ぐ陽に手をかざしながらゆっくりとその道を歩いた。
眼下には川沿いの道路を何台もの自動車が小さく行き交っていた。
急いで戻る必要は無い・・・
そう思いながら裕美が七曲の道を左に折れると、前方に赤い花の群が見えて来た。道の左側の山の斜面から一ヶ所、道に覆い被さるように花が枝垂れているのが見える。山つつじであった。
近づいた裕美はつつじの下に立って、花を見上げた。高いものは身の丈の三倍ほどもある高さだった。花は五分咲きくらいに咲き揃って仄かな芳香をただよわせ、晴れた空を背景に、折り重なる花弁が少し暗く見えた。
「・・・・・」
あの花を折ったら叱られるだろうか?
小さな、小さな小枝を一本だけにしますから、どうぞ手折るのをお許し下さい・・・
そう心に呟いた裕美は爪先立って手を伸ばし、一番小さな枝を一本、びしっと手折った。
それは、叔母清子の真実を知って、自分もしっかり生き直さなきゃ、と強く思ったその思いの為せる故だった。
 裕美は又、道を下り始めた。
朝から良く晴れていた。薄い雲がぼんやりと浮いてはいるが、空は一面に碧かった。空気は既に初夏のそれである。先日までのように、冷たい風が吹くことはもうないだろう、と裕美は思った。
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