愛の裏切り

相良武有

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第七話 背信

①龍二、惚れた郁子と初めて食事を共にする

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 その頃、田沼龍二には惚れた女性が居た。
同じ会社の人事課に居る中崎郁子だった。郁子は飛切りの美形だった。背中まで垂れた長い栗色の髪、良く動く大きな黒い瞳、ツンと先の尖った鼻、心持ち捲れ上がった唇、身体全体から匂うような色香が漂っている二十三歳だった。ミニの裾からすらりと伸びた足は艶やかで、将に男泣かせの玉の肌だった。然し、郁子は冷たく冴えわたるような美貌ではなかった。愛くるしさの残る可憐な華の趣が在った。
龍二は営業マンである。仕事のことで郁子と話す機会は滅多に無かったが、ワンフロア―の広いオフィスの通路や出入口で顔を合わせることは偶には有った。一礼して行き交う郁子を見返りながら、龍二はいつも、良い女だなあ、とつくづく思うのだった。郁子が人事課に配属されて本社事務所に姿を現した時から龍二は彼女に一目惚れしていた。
 或る日、来客との商談が遅れて居残り仕事になった龍二が、湯沸かし場へ飲み終えたコーヒーカップを洗いに行くと、其処に郁子が居た。
「あっ、田沼さん。カップは其処に置いておいて下さい。私が一緒に洗いますから」
「そう?じゃ、頼む、ね」
「はい、解りました」
「然し、君も遅くまで大変だね、未だ終わらないの?」
「いえ、これを洗ったらもう帰りますから」
「そうか、僕ももう直ぐ終わるんだけど、良かったらそこら辺まで一緒に帰らないか?」
断わられるかな、と龍二は思ったが、郁子は、一瞬躊躇いはしたものの、はい、解りました、と答えた。
「じゃ、君がオフィスを出たら直ぐに僕が後を追うから、正面玄関を出た辺りで落ち合うことにしよう」
龍二の胸は躍っていた。憧れの郁子と初めて二人で話が出来ることに顔が自ずとほころんだ。
 超高層の会社ビルを出ると龍二は直ぐに郁子に追いついて肩を並べた。
話す間も無く、本社前のバス停にバスが到着して二人は慌てて乗り込んだ。バスの中は、ラッシュアワーを過ぎていたにも拘らず、結構に混み合っていた。龍二と郁子は身体をくっつけ合うようにして吊り革に摑まった。郁子は餅肌だった。龍二は身体が吸い付けられて離れないような感覚を覚えた。そのままの姿勢で龍二が訊ねた。
「人事課でどんな仕事をしているの?」
「わたしの主な仕事は、お給料と社会保険と教育研修の実務です。田沼さんは毎日お客様廻りですか?」
「僕は営業マンだから、毎日、注文を頂く為に得意先の間を奔走しているよ」
「そうですか。大変ですわね」
「ところで、斎藤栄一は元気でやっていますか?」
「はい。斎藤さんは私とペアで仕事をする頼もしい先輩です。田沼さんは斎藤さんと同期の入社なんですってね」
「あいつと富山へ赴任した小田と僕の三人は、百人以上も居る同期生の中で、今でも親しく付き合っている仲間だよ」
「良いですわね、親しく付き合えるお友達が居らっしゃって。女にはそういうお友達がなかなか出来ませんわ、嫉妬や妬みや虚栄心がいろいろ絡んで・・・」
郁子は少し淋しそうな貌をした。
龍二は郁子の気持を引き立てるように話題を変えた。
「君はいつもこのバスで通勤しているの?」
「ええ。田沼さんもこのバスでしょう?」
「えっ?良く知っているね」
「わたしは人事課員ですよ。大抵の人の通勤経路は存じ上げていますわ」
「そうか、そうだったな、知っていて当たり前なんだ」
二人は微笑んで眼を見交わし合った。郁子の眼は黒い瞳が動く度に怪しげな茶色い光を湛えて光った。何とも官能的な眼だった。
 四条大橋を渡って川端通りの東詰めで停車したバス停で、龍二に別れの挨拶をした郁子が降車すると、彼女に続いて龍二も降り立った。
「あらっ、田沼さんの降りられるのは、もう少し先の祇園石段下じゃないんですか?」
「流石は人事課員だね、良く知っているねぇ」
龍二は感心顔で言ってから、郁子を誘った。
「この先に有名な老舗のレストランが在るんだけど、ディナーでも一緒に食べない?」
郁子はちょっと躊躇う素振りを見せた。
「わたしは・・・」
「どうせマンションへ帰っても、お互いに一人で晩飯を食べるだけだ。一緒に食べようよ、ね」
 龍二が郁子を案内したのは四条大橋のたもと、鴨川の直ぐ傍に在る高層の洋食レストランだった。一階がカフェとレストラン・パーラー、二階は本格フレンチグリルのレストラン、三階と四階は宴会場、結婚式場、各種会議場、ダンス会場などとして利用出来る大きな会場、五階は夏場に開かれ雨でも大丈夫と言われている屋上ビアガーデンで、創業は大正五年とのことだった。
時間がエアポケットに入っていたのか、レストランは比較的空いていた。二人はウエイトレスに導かれて四条通りに面した窓際の席に着いた。二階から見渡す夜景は、月に照らされた東山連峰を背に、歓楽街の輝く灯が煌々と空に映えて煌びやかだった。店内は古都の風情とヨーロピアンフォルム、老舗ならではのモダンでハイカラな情緒あふれる空間だった。
「良い感じのお店ですね」
「気に入って貰えて良かったよ。美人の君に似つかわしい雰囲気だな」
龍二は、余計なことを言っちゃったかな、と思ったが、郁子は別段何も言わず、気に留めた様子も無かった。
龍二が選んだメニューはリーズナブルな定番と呼ばれる「祇園ディナー」だった。
「これで良いかな?」
「はい、私も同じもので・・・」
オードブルは五品の中から二皿を選ぶことが出来た。
郁子はサフランソースのシーフードとブルコーニュ風のエスカルゴを選んだ。
「じゃ、僕は此方にするかな」
そう言って龍二が注文したのは、カニとホタテのテリーヌにオードブル七宝だった。
魚料理はロブスター、鯛、蛤のサフラン風味ブイヤベース、肉料理はデミグラソースの牛ロースステーキで、どれもがオーナーシェフ厳選の白ワインと良く合って舌に蕩ける美味だった。
「このワインも美味しいですね。一口含むとフルーティーな酸味と官能的な甘みが口の中一杯に拡がるようですわ」
「うん、やや甘口だけど上品な味だね」
美味な料理と芳醇なワインで次第に心を解いた二人は、仕事のことや会社のこと、上司のことや同僚のことなどを打ち解けた寛いだ言葉で話し合った。
「君は何か趣味を持っているの?」
話題を変えて龍二が訊いた。
「わたしはクラシックが好きなんです」
「クラシック音楽?」
「クラシックには普遍性があり奥が深いんです。又、聴いていると心地良さがあって聴いているだけで感銘を受けるんです」
「心を穏やかにしてくれたり、リラックスさせてくれるということかな?」
「癒しだけでなく、身体の中から力が漲って来たり、小気味よくワクワクして来るような曲も有るんです」
 郁子はクラシック音楽の魅力について更に続けて龍二に話した。
人は仕事や遊びをする際には主に左脳を使ってそれらを行っているが、クラシックは右脳を刺激して左脳を休ませる効果が有る。疲れた左脳が休まると思考がリフレッシュする。
又、クラシックを聴いていると、アルファ波と言うリラックス時に出る脳波が出るので精神が落ち着く。つまり、自然音を聞いている時の心地良さと同じ脳波が出ていのである。
「クラシックは同じ曲でも弾く人によってイメージが違うんです。指揮者や演奏家によって音楽の表現の仕方が違うので、音質やテンポ、強弱や緩急などが変わるんです。同じ曲でもいろいろな雰囲気が楽しめるのはクラシックならではの魅力なのかも知れないわ」
話を聴きながら龍二は、この娘は感性豊かで聡明だ、と感嘆した。
「田沼さんはどんな趣味を?」
「僕は全くの無趣味でね、趣味と言えるものが何も無いんだよ。映画、音楽、絵画、スポーツ、登山、ダンス、囲碁、将棋、麻雀、パチンコ、どれも興味無いんだ。自分でも不思議なくらいだよ。そういうものに対して、何で俺はこんなに関心が薄いんだろう、ってね」
デザートに郁子がキャビネットプリンを、龍二が柚子シャーベットのフルーツ添えをそれぞれ選び、最後にパンとコーヒーで締め括って、二人の初めてのディナーは楽しく終焉した。
帰りがけに一階フロントに降りて行くと、丁度、四条通りに面したガラス張りのテラスでカルテットが弦楽四重奏を演奏していた。
「少しだけ聴いていても良いかしら?」
郁子は暫く立ち止まって耳を傾けていたが、やがて、笑顔で龍二を促し二人は店を後にした。
「送って行くよ」
「良いですよ。すぐ近くですから」
「然し・・・」
「大丈夫です。ほんとうに直ぐ其処ですから」
「そうか。それじゃ、此処で」
「はい、有難うございました。おやすみなさい」
 龍二は八坂神社に連なる東方向へ向かい、郁子は龍二に背を向けて四条大橋へ歩を進めた。少し歩いて龍司が振り返ると、丁度、郁子が川端通りを曲がって北へ消えるところだった。
郁子のマンションはレストランから程近い川端四条を少し上がった所に在った。広い川端通りを挟んで鴨川と向かい合った四階建ての白い瀟洒な建物の中へ、暗証番号でオートセキュリティーの自動玄関ドアを開けた郁子は、吸い込まれるように姿を消した。
 煌々と灯の輝く歓楽街の四条通りには夥しい人と車の群が行き交っていた。龍二はアーケードの下を、人を縫うようにして急ぎ足に歩いた。縄手通り、花見小路、祇園石段下と真直ぐ進めば十五分度で湧水寺の宿坊に着く。
龍二の胸には郁子への渇望が渦を巻いて拡がっていた。
何としても手に入れたい、俺のものにしたい、龍二の心は激しくそう欲した。これまで幾多の女性を見て来たが、自分のものにしたいとまで欲望した相手はいなかった。郁子への執着心がむくむくと湧き上がって来た。龍二は郁子への思いを胸に滾らせて宿坊へと急いだ。
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