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第十話 行違った愛の思い
⑥愛の光彩は失せ、輝きは消えた
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日が暮れかけた或る夕刻、出し抜けに、美沙が哀し気な眼と打ちひしがれた貌で六本木ヒルズに在る信吾のオフィスに現れた。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「友達が亡くなったの、学生時代からの親しい友人が・・・」
美沙は滴る涙を拭いもせず、信吾をじっと見つめて、言った。
「彼女には婚約者がいて、結納も済ませ、挙式の日取りも決まっていたの。でも、建築技師だった相手の人が、突然、現場の事故で亡くなったの。彼女は泣き叫んだわ。身を捩って泣き叫んだ。それから、もぬけの殻になって、活力も気力も生力も無くし、自宅に引き籠ってしまった。そして、相手の人の一周忌法要が終わった先日、自ら命を絶ったの」
「そうか、最愛の婚約者を失ったことが致命傷になったんだな」
斎場は花の香りに溢れ、人、人、人で立て込んでいたし、彼等は皆、喪服に装いを正して一様にうなだれ、沈鬱な表情を浮かべていたと言う。
「彼女の葬儀に参列し、その遺影をじっと見つめながら、私、思ったの。私にもこれまで幾つかの恋愛経験はあったわ。でも、別れて致命傷になるほどの人には出逢わなかった。否、違うの。私がそこまで、去られて致命的な痛手を受ける程にまで深く相手を愛してはいなかったの。それを悟った時、あなたの顔が浮かんだの」
信吾は思っていた。
死は体験出来るものではない。決して慣れることの無い一度切りのものであり、唯ただ待ち受けるしかないものである。それは闘えるものではなく、抵抗というものを全く許さない恐怖の世界であろう。そもそも死とは自己が経験や記憶の主体としては消失することであり、従って、人は自身の死を経験することは出来ない。死は何処までも経験の彼方に在るものである。いつも想像されるだけのものである。人が真実に経験できる死というのは、自己の死ではなく、自己と関わりの有る他者の死である。但し、知らない人の死は、死の情報であっても死の経験ではない。死の経験というのは、自分を思いの宛先としてくれていた他者が居なくなることの経験、つまりは喪失の経験であると言える。誰かに“死なれる”という経験である。死者は応えを返しはしない。その不在の経験が“死なれる”ということであり、それは問いかけても、問いかけても、空しい。そういう喪失の経験が、これから少しずつ、死者との語らいとして彼女に蘇って行くであろう・・・
信吾はそう思っていたが、言葉にはしなかった。
しかつめらしい理屈を並べるよりも、今は美沙の哀しみを共有してやろう、彼女はそれを一番望んでいるであろう・・・
直ぐに二人はドアの外へ出てエレベータに乗り、階下へ降りて、石畳の道をヒルズの公園へと向かった。
これまで表面的な些末なことで諍いや言い争いは、屡々、有りはしたが、二人とも、心の奥底では、互いに愛し愛され合っていると固く信じて疑わなかった。否、信吾はそう信じていたが、美沙は信じようと己が心に言い聞かせていた。
二人は手を取り合って公園の中へ歩を進めた。
沈み落ちる夕陽の中で、樹影の下は既に仄暗かった。
「信吾さん!」
「美紗!」
二人は木陰で狂おしく抱き合った。
やがて、美沙は唇を離し、自分の訊きたい言葉が信吾の唇から出て来るのを待った。そして、もう一度熱い接吻を交わした時、彼女はその言葉が彼の口から出かかっているのを感じた。美紗は慌てて唇を外し、耳を澄ませて、待った。然し、もう一度抱きすくめられた時、彼女は、彼が結局何も言わなかったことに気付いた。信吾は唯、泣けて来るような低く顰めた淋し気な声で「美紗!・・・美沙!」と囁き続けただけであった。彼女は高まった自分の感情を抑えて、慎ましく素直に信吾の調子に従った。頬を伝って涙が流れ落ちた。然し、その心は尚も叫び続けていた。
ねえ、お願い、あなたからプロポーズしてよ!あなたの方から申し込んでよ、わたしに・・・
「美紗!・・・美沙!」
その声は両手で縛り上げるように彼女の胸を締め付けた。
信吾は、彼女の躰が震えているのを感じながら、この高揚した気持さえ有ればそれで十分だ、と思った。この上に言葉なんか必要無い。わざわざ二人の運命を混沌とした不可解な現実に委ねる必要はない。こうして彼女を抱き締め乍らじっと機が熟するのを待てば良い。後一年、ひょっとして、永遠になるかも知れないが、それはそれで良いではないか・・・二人にとってその方が良い、と信吾は思った。
彼は幸福な結婚に対しては我が事のように喜びを感じていたが、上手く行かなかった結婚生活から夫婦の仲が壊れて行く哀愁も数知れず見て来た。幸福な結婚と言うものは極めて稀なものである、と彼は認識していた。
美沙が突然に身体を離して言った。
「わたし、そろそろ、行かなきゃ・・・」
信吾は暫く躊躇った。
やはり今が言い出すチャンスなのか?・・・
真っ先にその思いが頭を掠めたが、直ぐに又、彼は思い直した。
否、待つことにしよう。どうせ彼女は俺のものだから・・・
だが信吾は、美沙が二年に及ぶ愛の緊張で内心疲れ果てていたことに気付いていなかった。
美沙は爪先だって躰を延ばし、淋しそうに彼の頬に口づけして踵を返した。信吾は何かしらすっきりしない落ち着かない気持を抱いて己が人生に戻って行った。
この夜を最後に彼女の心は二度と彼に対する高まりを取り戻すことはなかった。美紗にとってはこの夜が持ち堪えられる最後の一線だったのである。
そして、秋も深まった紅葉の季節になって、全く不意打ちに、美沙が昔の男友達と婚約し、年明けには正式に結婚するだろうことを人伝に知らされた。よもや起こるまいと信じていたことが現実に起こったのである。
愛の光彩は失せ、輝きは消えた・・・
美沙を愛したのと同じように人を愛することはもう二度と無いだろう・・・
信吾は二日間、自室に閉じ籠って、両手に顔を埋め乍ら子供のように泣き啜った。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「友達が亡くなったの、学生時代からの親しい友人が・・・」
美沙は滴る涙を拭いもせず、信吾をじっと見つめて、言った。
「彼女には婚約者がいて、結納も済ませ、挙式の日取りも決まっていたの。でも、建築技師だった相手の人が、突然、現場の事故で亡くなったの。彼女は泣き叫んだわ。身を捩って泣き叫んだ。それから、もぬけの殻になって、活力も気力も生力も無くし、自宅に引き籠ってしまった。そして、相手の人の一周忌法要が終わった先日、自ら命を絶ったの」
「そうか、最愛の婚約者を失ったことが致命傷になったんだな」
斎場は花の香りに溢れ、人、人、人で立て込んでいたし、彼等は皆、喪服に装いを正して一様にうなだれ、沈鬱な表情を浮かべていたと言う。
「彼女の葬儀に参列し、その遺影をじっと見つめながら、私、思ったの。私にもこれまで幾つかの恋愛経験はあったわ。でも、別れて致命傷になるほどの人には出逢わなかった。否、違うの。私がそこまで、去られて致命的な痛手を受ける程にまで深く相手を愛してはいなかったの。それを悟った時、あなたの顔が浮かんだの」
信吾は思っていた。
死は体験出来るものではない。決して慣れることの無い一度切りのものであり、唯ただ待ち受けるしかないものである。それは闘えるものではなく、抵抗というものを全く許さない恐怖の世界であろう。そもそも死とは自己が経験や記憶の主体としては消失することであり、従って、人は自身の死を経験することは出来ない。死は何処までも経験の彼方に在るものである。いつも想像されるだけのものである。人が真実に経験できる死というのは、自己の死ではなく、自己と関わりの有る他者の死である。但し、知らない人の死は、死の情報であっても死の経験ではない。死の経験というのは、自分を思いの宛先としてくれていた他者が居なくなることの経験、つまりは喪失の経験であると言える。誰かに“死なれる”という経験である。死者は応えを返しはしない。その不在の経験が“死なれる”ということであり、それは問いかけても、問いかけても、空しい。そういう喪失の経験が、これから少しずつ、死者との語らいとして彼女に蘇って行くであろう・・・
信吾はそう思っていたが、言葉にはしなかった。
しかつめらしい理屈を並べるよりも、今は美沙の哀しみを共有してやろう、彼女はそれを一番望んでいるであろう・・・
直ぐに二人はドアの外へ出てエレベータに乗り、階下へ降りて、石畳の道をヒルズの公園へと向かった。
これまで表面的な些末なことで諍いや言い争いは、屡々、有りはしたが、二人とも、心の奥底では、互いに愛し愛され合っていると固く信じて疑わなかった。否、信吾はそう信じていたが、美沙は信じようと己が心に言い聞かせていた。
二人は手を取り合って公園の中へ歩を進めた。
沈み落ちる夕陽の中で、樹影の下は既に仄暗かった。
「信吾さん!」
「美紗!」
二人は木陰で狂おしく抱き合った。
やがて、美沙は唇を離し、自分の訊きたい言葉が信吾の唇から出て来るのを待った。そして、もう一度熱い接吻を交わした時、彼女はその言葉が彼の口から出かかっているのを感じた。美紗は慌てて唇を外し、耳を澄ませて、待った。然し、もう一度抱きすくめられた時、彼女は、彼が結局何も言わなかったことに気付いた。信吾は唯、泣けて来るような低く顰めた淋し気な声で「美紗!・・・美沙!」と囁き続けただけであった。彼女は高まった自分の感情を抑えて、慎ましく素直に信吾の調子に従った。頬を伝って涙が流れ落ちた。然し、その心は尚も叫び続けていた。
ねえ、お願い、あなたからプロポーズしてよ!あなたの方から申し込んでよ、わたしに・・・
「美紗!・・・美沙!」
その声は両手で縛り上げるように彼女の胸を締め付けた。
信吾は、彼女の躰が震えているのを感じながら、この高揚した気持さえ有ればそれで十分だ、と思った。この上に言葉なんか必要無い。わざわざ二人の運命を混沌とした不可解な現実に委ねる必要はない。こうして彼女を抱き締め乍らじっと機が熟するのを待てば良い。後一年、ひょっとして、永遠になるかも知れないが、それはそれで良いではないか・・・二人にとってその方が良い、と信吾は思った。
彼は幸福な結婚に対しては我が事のように喜びを感じていたが、上手く行かなかった結婚生活から夫婦の仲が壊れて行く哀愁も数知れず見て来た。幸福な結婚と言うものは極めて稀なものである、と彼は認識していた。
美沙が突然に身体を離して言った。
「わたし、そろそろ、行かなきゃ・・・」
信吾は暫く躊躇った。
やはり今が言い出すチャンスなのか?・・・
真っ先にその思いが頭を掠めたが、直ぐに又、彼は思い直した。
否、待つことにしよう。どうせ彼女は俺のものだから・・・
だが信吾は、美沙が二年に及ぶ愛の緊張で内心疲れ果てていたことに気付いていなかった。
美沙は爪先だって躰を延ばし、淋しそうに彼の頬に口づけして踵を返した。信吾は何かしらすっきりしない落ち着かない気持を抱いて己が人生に戻って行った。
この夜を最後に彼女の心は二度と彼に対する高まりを取り戻すことはなかった。美紗にとってはこの夜が持ち堪えられる最後の一線だったのである。
そして、秋も深まった紅葉の季節になって、全く不意打ちに、美沙が昔の男友達と婚約し、年明けには正式に結婚するだろうことを人伝に知らされた。よもや起こるまいと信じていたことが現実に起こったのである。
愛の光彩は失せ、輝きは消えた・・・
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信吾は二日間、自室に閉じ籠って、両手に顔を埋め乍ら子供のように泣き啜った。
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