愛の裏切り

相良武有

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第十二話 見果てぬ夢

①日高、ビーチ・ハウスで妻と諍う

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 夏のバカンスの最後の日、日高達夫は一カ月だけ借りたビーチ・ハウスでひとり横たわって、海の音に聴き入っていた。シーツは砂でざらついていたし、口中には荒れた前夜の名残が粘つくように残っていたが、日高は身じろぎ一つもしなかった。
彼はじっと耳を澄まして、波は砂浜のどの辺りまで寄せて砕けているのだろうか、と考えていた。
 車のドアが三回、バシンと鳴る音がした。砂利道を行き交う車の音も聞こえる。
子供たちが家に入って来る気配がした。男の子の甲高い声と、何かを強請っている女の子のキンキン声。眼を閉じて静かに横たわっていると、今度は妻がキッチンに入って来る気配がした。網戸がパタンと閉まる音に続いて、人間の声と言うよりは、その影のような話声が聞こえる。やがて、網戸が勢いよく閉まり、その余韻が消えると、再び、虚ろに吠える波の音が大きくなった。
 明日の朝になったら都内の自分の事務所に出向いて、これまでいつも休暇明けにしてきたことをしようと、と彼は思った。
 先ず、馴染みの喫茶店でブラック・コーヒーとデニッシュ・パンの遅い朝食を摂る。それから、魔法瓶にコーヒーを入れて貰い、古びた魔法瓶から漏れるコーヒーでバッグの底を濡らしながら事務所に着く。空いている方の手でドアの鍵を開け、魔法瓶をテーブルに置いてライトを点ける。そして、コーヒーを飲み、その日最初の煙草を一服喫ってから仕事に取り掛かる。そう言う習慣だけはどんなことが有っても崩したくはない。
 彼の仕事は、色々な広告代理店の依頼に応じて、組絵を考案したり、イラストを描いたり、それらにコピーをつけたり、時として、版下を作ったりもすることだった。近頃では映画の絵コンテ作りやCMソングの作詞まで手掛けるようになっている。然も、マルチプルに才能が有り腕も良い方だった。仕事が速くセンスに溢れ、仕上がり度が高くて概ね好評だった。彼はずっと昔、画家になることを夢見て美大に通ったことが有ったのだ。
 ざらざらしたベッドに独り横たわりながら、その夢をチラッと思い出した。キャンバスに描いた厚塗りの手触りや、ワックスとカゼイン膠で筋目をつける効果のことを思い返しながら、彼は煙草に手を延ばし、一本をじっくり吹かして、古い夢を頭から追い出した。
 やや有って、家の中に戻ってきた妻が寝室のドアを開けた。打ち寄せる波の音が大きく響き渡った。 
「わたしたち、行くから」
日高は黙って居た。
「行くわ、って言っているのよ」
「今週中に電話するよ」
「それだけ?子供たちにサヨナラは言わないの?」
「ああ、良いよ」
さっと背中を向けるなり妻は出て行った。
 日高は、彼女と知り合った頃のことを思い出そうとした。
初めて会った日が、どうしても思い出せない。当時流行っていた唄や、漠然とした社会の状況も憶えているのだが、彼女と初めて会ったのが何処で、いつだったのか、どうしても思い出せない。それはどうでも良いことでもあるし、どうでも良くないことでもある。彼は又、タバコに火を点けて、暫く、吹かした。
妻と子供たちが出発する音は聞きたくなかった。
 
 日高の頭の中には、怒りと憎悪で歪んだ前夜の妻の顔が大写しになっていた。
彼女の怒りは、前日、子供達と一緒に浜辺で昼食を摂った時から徐々に醗酵していたのだった。
 その時、近くにビキニ姿のグラマラスな若い娘が居た。日高は彼女をじっと眼を凝らして見つめ、頭の中の画用紙にスケッチを試みた。見えない木炭が彼女の腰からヒップの双丘にかけての三角の線を描き、思い切った弧を描いて、信じられない程に成熟したヒップの線を捉えた。彼女の肌は小麦色に輝き、オレンジ色のビキニが鮮やかに映えていた。小さめのバストとは対照的なヒップは、ボウリングの球を半分に割って二つに並べたようだった。彼女自身、自分のそう言う容姿を完全に意識して動いていた。きっとダンサーか運動選手だろう、と彼は思った。
「いやらしいったら有りゃしないわね、その眼つき」
妻の声が冷ややかに言った。
日高が答えた。
「否、俺はいつも冷静な眼で女性の肉体を見ているんだ」
彼は説明した。
「何遍も言っているじゃないか。俺は画家になる教育を受けたことが有るんだ。肉体と言うものを美学的に見る癖がついているんだよ。肉体と言うもののプロポーションや面や量感と言うものを俺は観るんだ。それに、俺は見るだけで変な行為に及ぶ訳じゃない。俺にとって女性は画廊の絵みたいなものだ。俺は芸術家だったんだ、忘れたのか?」
「あきれた芸術家も在ったもんだわ」
フン、と鼻を鳴らして子供たちの手を取ると、妻は浜辺を遠ざかって行った。
その場に残った小高は、魔法瓶に入れて来たウイスキーのロックを呑みながら、もうあいつと暮らすのはうんざりだ、とつくづく思った。
 俺は自分の生き方を変えてまで、あいつを幸せにしてやろうとした。俺は見果てぬ夢を捨てて、下らない仕事を熟して来た。それも皆、あいつを食わせてやる為だった。家庭を作り、子供を育て、この湘南の海で夏のバカンスを楽しむ為だった。それが、ちょっとセクシーな若い女の身体を眺めたからと言って、ああまで毒づかれるとは・・・
風が冷たくなったとき、日高は立ち上がった。妻は戻って来なかった。
 毛布と子供たちのサンダル、それに魔法瓶を抱えると彼は砂丘の間を通り抜けてビーチ・ハウスに戻った。
あの若い女性は影も形も無かった。彼女は、地下鉄や街角や劇場のロビー、或いはデパートやコーヒー・パーラーなどで彼が見かける他の幾多の女性たちと同じだった。ただ其処に現れ、彼の眼に貪られて消えて行っただけだった。
 
 その晩、日高は調理の当番だったので、ビーフ・シチューを作ることにした。このバカンスの間は、夕食は妻と交替で作る約束になっていた。
 彼はキッチンで、牛肉とポテトとセロリと人参を切り刻んだ。玉ねぎの皮を剥いて、ウイスキーを一口呑んだ。相変わらずの冷たい沈黙を守って妻が戻って来たが、子供たちの賑やかな話声に日高の怒りは和らげられた。
彼はひたすら料理に精を出した。シチューにスパイスを加え、ピカソの奔放な絵具の使い方や、眼に着くもの全てをコラージュにしてしまう天才のことを考え乍ら、独自の味付けをした。シチューは絵やコラージュに似ていた。どんな材料でも使えるのである。
 子供達がテーブルに就き、やがて妻も席に着いた。日高がシチューを各自の皿によそって食事が始まった。皆、黙々と食べた。妻はかなり時間をかけて噛んでいた。
 やがて、ボイルド・ホットドックを食べ終わった子供たちはリビングへ移って行った。
と、妻がつと立ち上がり、皿を持ってキッチンに歩み寄ると、シチューを流し台の排水口に放り捨てた。
「あなたの料理はあなたの性格と同じで、やたらと淡泊なのよ」
言い捨てるなり日高の脇を通り抜けて、キッチンからポーチへ、そして、日高の人生の圏外へ、去って行ったのだった。
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