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第十一話 見果てぬ夢
⑤そうだ、俺にも色彩が必要だ・・・
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そのコーヒー・ショップは洒落た店だった。
中央に二階へ続く螺旋状の階段が有り、壁もテーブルもカウンターもシックな木彫のデザインで、静かなクラシックの楽曲が流れていた。
時刻は午後四時を少し過ぎたところで、客は疎らだった。
コーヒーを二つとイングリッシュ・マフィンを二つ頼んでから、日高は訊ねた。
「で、石原君は元気にしているのか?」
「石原君?」
彼女は戸惑いの色を浮かべて、弄るように日高の顔を見返した。
「ああ、石原旭君のことね。さあ、どうして居るのかしら、知らないわ、わたし・・・」
「じゃ、君は彼と結婚したんじゃなかったのか?」
「当り前じゃないの。嫌ね・・・」
奈津子は笑い出した。
「彼とはあれっ切り逢ってないわよ、あなたが私の前から消えてしまった時以来、一度も・・・・・」
日高の鳩尾の辺りで又しても何かが疼いた。
「あの頃、あの人は、私とあなたの仲が上手く行っていないんじゃないか、といろいろ心配してくれていたのよ。私はもっともっと絵を描き続けたかったし、画家になる夢も捨て切れずにいたし・・・あなたは絵を続けるかイラストや組絵の方に転身するかで迷って悩んでいたし・・・」
「・・・・・」
「あなたが私の前から去って以来、あの人とは会っていないわ。会う必要も無くなってしまったし、ね」
あの深夜、日高は、道端に停めた車の中で石原と並んで座っている奈津子を目撃し、傷心、嫉妬、ある種の崩壊感などが渾然となって沈殿した心を抱えて、寒い雪の街を欝々と彷徨い、彼女の前から消えたのだった。
「わたし、そろそろ行かなければ」
奈津子が静かに言った。
「こうして、思いがけずお会い出来て、とても嬉しかったわ。わたしね、あなたはきっといつか名を上げるに違いないと、ずうっと思っていたのよ」
日高はおずおずと笑った。
「あのぉ、君。出来たらこれからも時々逢えないだろうか、何処かで一杯飲るとかして、さ」
言った途端、彼は後悔していた。
彼女の顔は無表情になり、それから、眼を細く眇めて言った。
「日高さん、わたしには夫も居るし子供も居るの。わたしは一家の主婦の身なのよ」
「ああ、そうだね。そうだったね。済まなかった、ごめん!」
奈津子は微笑して立ち上がり、戸口に歩み寄って忽ち人混みの中へ呑み込まれて行った。
日高は長い時間をかけてコーヒーを啜りながら座っていた。
やがて、やおら雨の中に踏み出すと渋谷駅に向かって歩き出した。少し雨脚が強まっているようだった。
駅前のフラワー・ショップの前を通り過ぎようとして、ふと、足を止めた。花が雨に濡れないように店員が店の中へ運び入れていた。片づけるのさえ、前面には一番背の低い明るい色の花を置くようだった。流石にプロの仕業だな、と彼は思った。
そうだ、俺にも色彩が必要だ、緑の森、オレンジ色の海、紺碧の空・・・
それから、忠犬ハチ公の像をチラッと見やって駅のエントランスへ入り、其処で別れた妻に電話を架けた。
「子供たちに会いたいんだ、今から直ぐそっちに行くよ」
「止めてよ、そんな。第一、今日は面会日じゃないでしょう」
「面会日じゃなくても、会いたいんだよ」
「あの子たちが面食らうだけよ。お願いだから、止めて」
「なら、電話に出してくれよ、話したいんだ!」
「子供たちは話したがらないわ!」
「お前は俺と話したがらない。俺の血を分けた子供達も俺と話したがらない。一体、どういうことだ?」
「お前、と言う呼び方は止めて頂戴!二人はもう他人なんだから、お前呼ばわりされる筋合いは無いわ」
「解ったよ。俺は子供達と話したいんだ」
「ねえ、どうかしたの、あなた?」
「どうもしないよ、至って順調だ~な」
「仕事が上手く行ってないの?」
「余計なお世話だ、放っといてくれ!」
「男のヒステリーや愚痴はみっとも無いわよ、あなた」
「誰がお前なんかに愚痴るもんか!」
電話を切り、小高は速足でエントランスを抜けて東出口から明治通りに出た。
少し先に近頃通い始めたショット・バーが在る。その店は夕方五時から酒が飲める店だった。
肩先で扉を押して入った彼をマスターがカウンターの中から渋い笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい。今日は早いんですね」
「ああ、仕事がちょっと早く片付いたものでね」
直ぐにコースターと灰皿がカウンターに並べられた。
「何にしましょうか?」
「ウイスキーをストレートで」
「解りました」
「冷たい水も一緒に添えて」
マスターがウイと言うように親指を立てた。
通りに面した窓の向こうから、並木に降り落ちる雨のトレモロが微かに聞こえる。日高はカウンターの隅に置かれている一輪挿しの花びらにじっと視線を据えた。遠い日の初々しい奈津子の顔がふっと浮かんで、消えた。
彼は供されたショット・グラスをひと息に飲み干した。
中央に二階へ続く螺旋状の階段が有り、壁もテーブルもカウンターもシックな木彫のデザインで、静かなクラシックの楽曲が流れていた。
時刻は午後四時を少し過ぎたところで、客は疎らだった。
コーヒーを二つとイングリッシュ・マフィンを二つ頼んでから、日高は訊ねた。
「で、石原君は元気にしているのか?」
「石原君?」
彼女は戸惑いの色を浮かべて、弄るように日高の顔を見返した。
「ああ、石原旭君のことね。さあ、どうして居るのかしら、知らないわ、わたし・・・」
「じゃ、君は彼と結婚したんじゃなかったのか?」
「当り前じゃないの。嫌ね・・・」
奈津子は笑い出した。
「彼とはあれっ切り逢ってないわよ、あなたが私の前から消えてしまった時以来、一度も・・・・・」
日高の鳩尾の辺りで又しても何かが疼いた。
「あの頃、あの人は、私とあなたの仲が上手く行っていないんじゃないか、といろいろ心配してくれていたのよ。私はもっともっと絵を描き続けたかったし、画家になる夢も捨て切れずにいたし・・・あなたは絵を続けるかイラストや組絵の方に転身するかで迷って悩んでいたし・・・」
「・・・・・」
「あなたが私の前から去って以来、あの人とは会っていないわ。会う必要も無くなってしまったし、ね」
あの深夜、日高は、道端に停めた車の中で石原と並んで座っている奈津子を目撃し、傷心、嫉妬、ある種の崩壊感などが渾然となって沈殿した心を抱えて、寒い雪の街を欝々と彷徨い、彼女の前から消えたのだった。
「わたし、そろそろ行かなければ」
奈津子が静かに言った。
「こうして、思いがけずお会い出来て、とても嬉しかったわ。わたしね、あなたはきっといつか名を上げるに違いないと、ずうっと思っていたのよ」
日高はおずおずと笑った。
「あのぉ、君。出来たらこれからも時々逢えないだろうか、何処かで一杯飲るとかして、さ」
言った途端、彼は後悔していた。
彼女の顔は無表情になり、それから、眼を細く眇めて言った。
「日高さん、わたしには夫も居るし子供も居るの。わたしは一家の主婦の身なのよ」
「ああ、そうだね。そうだったね。済まなかった、ごめん!」
奈津子は微笑して立ち上がり、戸口に歩み寄って忽ち人混みの中へ呑み込まれて行った。
日高は長い時間をかけてコーヒーを啜りながら座っていた。
やがて、やおら雨の中に踏み出すと渋谷駅に向かって歩き出した。少し雨脚が強まっているようだった。
駅前のフラワー・ショップの前を通り過ぎようとして、ふと、足を止めた。花が雨に濡れないように店員が店の中へ運び入れていた。片づけるのさえ、前面には一番背の低い明るい色の花を置くようだった。流石にプロの仕業だな、と彼は思った。
そうだ、俺にも色彩が必要だ、緑の森、オレンジ色の海、紺碧の空・・・
それから、忠犬ハチ公の像をチラッと見やって駅のエントランスへ入り、其処で別れた妻に電話を架けた。
「子供たちに会いたいんだ、今から直ぐそっちに行くよ」
「止めてよ、そんな。第一、今日は面会日じゃないでしょう」
「面会日じゃなくても、会いたいんだよ」
「あの子たちが面食らうだけよ。お願いだから、止めて」
「なら、電話に出してくれよ、話したいんだ!」
「子供たちは話したがらないわ!」
「お前は俺と話したがらない。俺の血を分けた子供達も俺と話したがらない。一体、どういうことだ?」
「お前、と言う呼び方は止めて頂戴!二人はもう他人なんだから、お前呼ばわりされる筋合いは無いわ」
「解ったよ。俺は子供達と話したいんだ」
「ねえ、どうかしたの、あなた?」
「どうもしないよ、至って順調だ~な」
「仕事が上手く行ってないの?」
「余計なお世話だ、放っといてくれ!」
「男のヒステリーや愚痴はみっとも無いわよ、あなた」
「誰がお前なんかに愚痴るもんか!」
電話を切り、小高は速足でエントランスを抜けて東出口から明治通りに出た。
少し先に近頃通い始めたショット・バーが在る。その店は夕方五時から酒が飲める店だった。
肩先で扉を押して入った彼をマスターがカウンターの中から渋い笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい。今日は早いんですね」
「ああ、仕事がちょっと早く片付いたものでね」
直ぐにコースターと灰皿がカウンターに並べられた。
「何にしましょうか?」
「ウイスキーをストレートで」
「解りました」
「冷たい水も一緒に添えて」
マスターがウイと言うように親指を立てた。
通りに面した窓の向こうから、並木に降り落ちる雨のトレモロが微かに聞こえる。日高はカウンターの隅に置かれている一輪挿しの花びらにじっと視線を据えた。遠い日の初々しい奈津子の顔がふっと浮かんで、消えた。
彼は供されたショット・グラスをひと息に飲み干した。
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