愛の裏切り

相良武有

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第十三話 贖罪

④「一度起ってしまったことは、無かったことには決してならないわ」

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 暫くして、理沙が口を切った。
「あなたはとうとう言わせてしまったわ。この事だけは黙って居ようと思ったのに。もう駄目、あなたも知っちゃったわ。私たちは殺したことが有るのよ。あなた、思い出す?以前、私たちが別れる少し前、私が妊娠したらしいって言ったことを。そして、その後、間違いだったと言って、暫くこの街に居なかったことを。あれは間違いじゃなかったわ。私は一人で始末をしたのよ」
ああ、やっぱり、そうだったのか・・・
秀夫は身体が深い虚ろな淵に落ち込んで行くように思った。あの夏の週末、秀夫のマンションの扉に寄りかかるようにして「あれ、間違いだったわ」と言った理沙の姿が秀夫の心を通り過ぎて行った。
俺はあんなに理沙の傍に居ながら、理沙のことは何一つ解っていなかった・・・
「私は馬鹿な小娘だったわ。あの頃の私はあなたと結婚する為だったら何でもやれそうだった。もし、わたしに子供が出来たら、あなたは結婚してくれるかもしれない、私はそう考えて実行した。そして、子供が出来た。私は母親に自分の失敗を恐る恐る告げる子供のように、おずおずとあなたにそれを報告した。怒られることの心配で震え、その癖、慰めて貰いたくもあって、にっこり微笑って、そんなこと何でもありはしないよって言って貰いたくて、心は震えながらも表面は怒ったように虚勢を張って、あなたに報告した。そしたら、あなたは慰めもしなければ怒りもしなかった。ただ不機嫌に押し黙って、一時間もの間、何一言も喋らなかった。その不機嫌さを見ながら、私は、ああ間違った、と思った。ああ私は間違った、と絶望的に考えていた。取り返しのつかない間違いをしてしまったという絶望、あなたはそう言う絶望を理解出来るかしら?私はその絶望の中で、この子供は産めない、と思った。無論、産もうと思えば産むことは出来たかもしれない。そうすればあなたは結婚してくれたかも知れない。だけど、父親のあんな不機嫌さに迎えられてこの世に出て来る子供・・・そんな不幸の中へ自分の子供を押し出すことは出来ない・・・私はそう思った。そして、あなたに嘘を言い、知らない街へ旅に出て、全てを無かったことにしてしまった。だけど、この世の中では、一度起ってしまったことは無かったことには決してならない。私たちが忘れていても、それは向こうからやって来て、私たちを揺り起こす。私たちが思ってもみないような形で、私たちの処へ戻って来るのよ」
秀夫は黙って聞くしかなかった。
 理沙が更に続けた。
「この間、あんな怖い夢を見たのは、そして、その後、あんなに不安に脅えたのは、決して偶然ではない、ということが解かったの、あれは私たちが殺したことが有るからなんだって、解かったのよ。ねえ、解って欲しいの。私たちは自分のしたことを認めて、それに耐えて行くしかないわ。一度したことを無かったことにして、束の間の幸福を得ようとしても、結局はそれに追いつかれそのことを眼前に突き付けられる。そんな不安に蝕まれた僅かの間の幸せなんて一体どんな意味が有るの?振り返った時に耐えられない幸せなんて、そんなものは幸せなんかじゃなくて大いなる不幸を言うものだわ」
そうか、そうだったのか・・・俺は殺していたのか・・・
 秀夫はうちひしがれて心に呟いた。
俺はあの時、殺すとも殺さぬとも決めかねて、それを決める責任から逃げた。だが、あの時、俺は既に殺していたのだ。否、その前に、子供が出来たと知った時に必死に逃げようとしたことにおいて、既に俺は殺していたのだ。明白な自分の行為の結果から逃げようとした時に俺は殺していたのだ。自分の行為の責任を取ろうとしない曖昧な態度が結局は殺すことになったのだ。俺は自分の心を自分自身に対してひた隠しに隠して来て、それがこういう結果を生んだのだ・・・
秀夫は眼の前の冷えたコーヒーを機械的に口へ運び、一口啜って、また機械的に元へ戻した。
 秀夫は思った。
俺は結局のところ、何の信念も持たない愚たらな、自分の恋人に孕ませた子供を見殺しにした世間的にも許されぬ、ただの何処にでも居る敗残者であるだけだ・・・
 秀夫は頭を上げた。
理沙は少し前屈みの姿勢で、壁の何処か一点を見詰めていた。それは疲れたきつい視線であった。
「どうすれば良いんだ、これから」
秀夫は呟くように言った。
「どうしようもないわ、ただ生きて行くだけよ」
理沙はそう言って、横の椅子からハンドバッグを手に取り上げ、じゃぁ、と声にならない短い言葉を残してゆっくりと秀夫に背を向けた。そして、考えごとをするかのように屈託した足取りで、俯き加減にレストランの狭い階段を降りて行った。
秀夫は茫然とそれを見送った。
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