咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

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虚構の女神は、俺にだけ“人間”だった。

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 咲坂がカリスマモデルのYUKINA!?

 俺はショックのあまり仰け反って、椅子から転げ落ちそうになった。

 YUKINA。

 ファッションなんて一切興味のない俺ですら、その名は知っている。

 露出は少なく、いつも限られた専属雑誌にしか登場しないと聞く。

 バラエティやドラマに出るタイプの「マルチタレント」ではなく、むしろ――雑誌という閉じた空間だけに生きる“象徴”のような存在だった。

 プロフィールも非公開。

 素顔も私生活も明かさない。

 だからこそ、ネットでは“謎多き女神”として神話のように語られていた。

 オールドメディアが作る「芸能人」とは正反対の、どこか異界にいるような存在。

 なぜ気づかなかった?

 確かに普通の女子大生に似つかわしくない洗練され過ぎた外見、動作に漂う気品。

 そこに違和感は感じたのは事実だ。

 しかしモデルとしての彼女は虚構に住まう「美の象徴」でリアリティがなかった。

 だからその虚構が目の前の現実に紛れ込んでくるはずがないという先入観があったのか。

 さらには「田尻の心理学に精通する」というフィルターを通過すれば、どうやってもカリスマモデルには到達できない。

 それらが複合的に絡み合えば、本人を目の前にしても簡単には気づけないということだ。

「つい最近だぜ?SNSで“YUKINAがこの大学に通ってる”って投稿がバズったのは。事務所が抗議文まで出したのを見て、大学内でも大騒ぎになっただろう?」

 逆井はさらに追い打ちをかけてくる。

 残念ながらその情報を拾うためのアンテナは俺は持ち合わせていなかった。

「う、うぐっ……」

 俺は声にならず心臓がバクバクと暴れだした。

「お前、何も知らないで近づいたのか?」

「ああ、全く」

 ──いや、そもそも俺から近づいたわけではないんだけど。

「マジか。櫻井どんだけチャレンジャーかと思ったけど、ただ知らなかっただけかよ」

 あきれた顔の逆井。

「バカにすんなよ」

 そう返した俺は、動揺を悟られまいと机に突っ伏した。

 しかし落ち着けと言い聞かせても、頭の中では“YUKINA=咲坂”という文字列が、俺の頭を混乱させた。

「おまえマジで動揺してんな。まあ、気持ちは分かるが」

 人の気も知らないで逆井はいよいよ楽しそうだ。

 俺は机に突っ伏したまま、言葉を返す気力もなかった。

「まっ、そりゃビビるわな」

 逆井は笑いながら俺の背を軽く叩いた。

「でもさ、知らずに普通に接してたの、逆に正解だったんじゃね? 有名人でも、そういう人に惹かれるもんだって」

 逆井は勝ち誇ったように饒舌になっていた。

「そんなの現実ではありえんだろう。安い恋愛作品のテンプレだ」

 実際にそうなのだ。

 咲坂は確かに俺に急接近しすぎている。

 その理由が俺がYUKINAの存在に気づかなかった、なんて浅い理由であるはずがない。

 じゃあ田尻という共通点があるからか?

 確かにそれは大きな要因かもしれない。

 でもその理由だけでは納得できないひっかかりが残った。

 ──頭の中で映像が再生されていた。

 講義室で笑っていた咲坂。

 カフェで無防備にコーヒーを飲んでいた咲坂。

 ――そのすべてが“YUKINA”と重なっていく。

 そんな想像をしていた時。

「トンッ」と背中を軽く叩かれた。

「だから今度は何だよ、逆井――」

 そう言ってゆっくり顔を上げると、そこには驚愕の顔をした逆井の顔があった。

 なんと咲坂が俺らの目の前に立っていたのだ。

 俺はいましがた思い出していた映像の続きと錯覚するほどに頭が混乱した。

「義人くん、オッス!」

 ――え?

 オッス?

 なにそれ?

 咲坂は、その見た目とは裏腹に軽い言葉を投げかけた。

 俺の動揺を知る由もなく、ただ微笑を称えながら。

「オッスって……どんだけ親友になったんだ、俺たち?」

 それでも俺はなぜか咲坂の会話のテンションに引っ張られて自然にそんな軽口が口から滑り出していた。

「だって同志でしょ?」

 そう話した咲坂はどこか嬉しそうに見えた。

「同志?って何の同志だよ?」

 半ば分かっていたが、とぼけて聞き返した。

「あ~ひどい!田尻トークできるの、この大学広しといえど私くらいなんだからね?」

 胸が苦しくなるくらいに嬉しい言葉だ。

 そんな咲坂をただただ愛おしいと感じた俺はちょろいのだろうか?

「……まあ、そうだけどさ」

 隠そうにも上がってしまった口角をごまかしきれない。

 不思議だ。

 さっきYUKINAのカミングアウトで激しく動揺した。

 それなのに彼女を前にすると一瞬でその動揺は溶けてしまった。

「咲坂さんもこの講義とってたの?」

 この講義で彼女を見かけるのはおそらくはじめてだったのでそれを尋ねた。

「サ・キ・サ・カ・サ・ン?」

 ただ咲坂は俺の質問には答えず、俺の言葉の一部を切り取って一音ずつわざとらしく反芻した。

 しかも眉を寄せた顔は不満げだ。

「え……なに?」

 その意図が分からず聞き返す。

「雪菜ちゃん、って呼ばないの?」

「は?」

 なんだよその不意打ち?

 マジで心臓に悪いんだけど?

「さっき呼んでたじゃない」

 一瞬ぎくりとする。

「そうだっけ?」

 とっさにとぼけた。

 でもあなたその時、聞こえないふりして華麗にスルーしたよね?

 しっかり聞こえてたのかよ?

 ったく。

「俺は咲坂さんほどコミュ力高くないからさ。初対面で名前呼びとか、ハードル高いよ」

 俺は割と本音でそう語った。

「わ、私だって誰にでもそうしてるわけじゃないから」

 意外なリアクションが返ってきた。

 明らかに動揺している。

 そして俺は思ったのだ。

 ――やめろって。

 そういう“俺だけは特別”みたいなことを、さらっと言うなと。

 モテない男は、そういうのを一言一句、化石みたいに保存して後で何回も反芻するんだぞ?

「ほら、義人――いや、櫻井くんだって」

 そう言う咲坂は少しばつが悪そうに身をよじった。

「そこ言い直さなくていいから」

「じゃあ、義人くんも一度“雪菜”って言ってるからね?」

 言い逃れはできないのは分かっている。

 ここは開き直って。

「LINE交換の時だろ?あの時、俺の冒険を無視したのは咲坂さんだろう?」

 十分情けないと思うカミングアウトだが、なぜか咲坂にはできてしまう。

「だって、急に名前呼ぶから焦ったんだよ」

 少し赤面しながらもじもじするその姿はとてもカリスマモデルに見えない。

 なんなん?このギャップ?

 俺はここで殺されるのか?

 俺は“ごほん”とわざとらしく咳をしてから口を開いた。

「じゃあ――雪菜さん」

「なんでございましょう? 義人さん?」

 芝居がかったトーンで返してくる反射神経が、どうしようもなく心地いい。

「だから、この講義とってるの?」

 俺は最初の質問に戻った。

「うん。今日からだけどね」

「今日から?どうして?」

 モデルの仕事なんだろとは想像がつく。でもあえて聞いてみた。

「ちょっと忙しくてね」

 曖昧に答えた後、隣で固まっていた逆井をチラリと見た。

 それは咲坂の正体を知っているであろう逆井の存在を警戒しての反応だろう。

 ただ、その逆井は、俺と咲坂の会話に入ることもできずにただフリーズしていた。

 まるで別の次元の世界を見てるみたいな顔をして──

「えっと、彼から聞いた?私のこと」

 咲坂は少し不安げな表情だ。

「ああ、モデルのYUKINAだって?……それ、先に言ってくれよ。マジ焦ったから」

 俺はことさら明るい声でそう返した。

「気づかなかった?」

 咲坂は俺の言葉に少し安心したのか、すぐに緊張が解けたように見えた。

「いや、俺の服装見て分かるだろ。ファッション誌とか縁のないタイプだぞ?」

「……確かに」

 そう返した咲坂はクスリと笑った。

「そこはフォローしろよ」

「アハハ、ごめん。でも、義人くんって背高いし、スラッとしてるし、絵になると思うよ?」

 くったくのない咲坂の笑顔に少しほっとした。

「それはカリスマモデルYUKINAの見立てか?」

「ただの女の勘」

 なんだよそれ、嬉しいような怖いような??

「ただファッションに拘るなんて俺のポリシーに反するってだけは付け加えておく」

「うわぁーそのポリシー、コンプレックスの裏返しだ!フフフ」

 こういう返しがすぐに出てくるのが咲坂らしい。

 さて、そろそろ固まったままの逆井を回収しないといけない。

「あ、こいつ逆井。……そんなに親しいわけじゃないけど」

 咲坂は逆井に視線を移すが、またその目には不安な表情が宿っているように見えた。

「お、おまっ!なんだよその紹介の仕方」

 逆井は相変わらずのテンション。

 でもおそらくこの気楽なテンションは咲坂にはありがたいのだろうと思った。

 だから俺もこのテンションのまま続ける。

「いや、自分でそう言ってただろ?……いやあ、あの時はホント凹んだなあ」

 逆井は照れもあるのか、必要以上に興奮しながら話に食いついてくる。

「なっ、さっきYUKINAって聞いて動揺してたくせに、なに急に余裕かましてんだよ!」

 それを聞いた咲坂がピクリと反応して俺を見る。

「バカっ!それバラすなよ!」

 俺は逆井のテンションにのって大げさに反応した。

 咲坂がそのやり取りに笑いをこらえきれず、口元を押さえる。

「そんなお前だけ咲坂さんといい雰囲気になってるとか、許してたまるか!」

 へえ逆井くん、お前から見ても俺と咲坂はいい雰囲気に見えたか、へへっってな。

「義人くん、そんなに焦ったりしたの?」

 俺のことになると急に会話に入ってくる咲坂の行動が「期待」という言葉と共にいちいち心乱される。

「まあ、な。実はね、結構ショック受けました」

 口ではそう言いつつ俺はそんなに気にしていないという演出を続ける。

「だよねー。でも、ありきたりだけど私は私だから。気にしないでくれると助かる」

 極めて一般論だが、それを話す咲坂の微妙な表情はそれが言葉以上に重いと思わせた。

 だから俺は彼女を安心させるための言葉を用意する。

「ああ、知ってる。俺がそんなラベリングで人を判断したら田尻フリークの名がすたるってもんだ」

 咲坂の表情はすぐに戻った。

「お、かっこいい!でも動揺したくせに」

 そう言いながら俺に魅惑の微笑を向けたあと、咲坂は不意にニコリと笑って逆井の方を向いた。

「逆井さん?はじめまして。よろしくね?」

 その時の笑顔は俺に向けた笑顔とは違って、いかにも「作り物」のように見えた。

「よ、よろしく……」

 逆井は、当初の目的だった「俺をだし」にまんまと咲坂と知り合いになれた訳だ。

 でも喜んでる余裕はないようで、まるでピュア高校生のようにドギマギしていた。

 それにしても──

 俺が気になったのは咲坂が逆井に向けた笑顔。

 やはりどこかよそいきで、それは「分厚い仮面」という印象を受けた。

 そして“逆井さん”と他人行儀に「さんづけ」で呼んだのも、呼び方にこだわる咲坂が意識的に距離を取ってきた可能性が高い。

 *  *  *

 咲坂は英語の講義が終わると「友達と会う」と言って、颯爽と去っていった。

「友達と」なんて言いつつ、きっと仕事関係の用事なのだろう。

 忙しいならこんな英語の講義にわざわざ出てこなくとも十分英語は堪能だろうにと思う。

 逆井と俺は、流れで一緒に駅まで向かうことになった。

「なあ櫻井」

 講義が始まる前、あんなにはしゃいでいたのに、今の逆井は妙に暗い。

「なんだよ」

 俺は何となく逆井が言いたいことが分かっていた。

「お前と咲坂さんの会話、聞いてて思ったよ。お前だから、咲坂さんは距離を詰めてきたんだなって」

 やはり逆井でもそう感じたのか。

「そうか?」

 俺は一言だけ返した。

 田尻でもミンデルでも、同じ温度で話せる相手なんて、まずいない。でもそれだけだろうか?

「少なくとも俺は、あの会話に入れないわ」

「そんなことないだろ」

「お前、咲坂さんとは今日会ったばかりなんだろ?なんか幼なじみかと思ったぞ」

「そこは“彼氏かと思った”って言えよ」

 あまりに逆井が落ち込んでいるので少し軽口を叩いて場を明るくさせたかった。

「それはさすがに思わねーよ」

 逆井はクスリと笑って見せたが、表情は晴れない。

「ハハハ、だよな」

 俺は大げさに笑って見せた。

「でも、悔しいが、彼女が俺に振り向くイメージは全く湧かねぇな。いや、どうにかなろうなんて思ってたわけじゃないけどさ。お前との親しげな会話見せられて、ちょっと凹んだわ」

 こういう正直に自分の心を吐露できるのが逆井の魅力なんだろうとも思った。

 ただちょっと見栄えがいいチャラいだけのやつではない。

「まあでも、咲坂とは今日ちゃんとコネクションできたわけだし。これ、俺のおかげな?そこ忘れんなよ?だから俺を通せよ?」

「なんだよ、お前マネージャーかよ」

「いや、そこは冗談でも“彼氏”って言えよ」

「だから、それだけは絶対言わねーから」

「ハハハ、だよな」

 そんな会話をしているとT駅に着いた。

 彼は「バイトあるから」と言って、駅で別れた。

 ――入学早々にもうバイトか。

 そういうところもポイント高いな、お前──


 俺が自宅のアパートに戻ったのは、夕方の七時を回っていた。

 今日は本当にいろいろありすぎた。

 ……まあ、全部、咲坂がその中心にいたけどな。

 本をパラパラとめくるうちに、気づけばそのまま眠り込んでいた。

 どれくらい寝てしまったのだろうか。

 テーブルに置きっぱなしにしてあったスマホが急にバイブ音を響かせた。

 眠りの浅かった俺は、その音で「ビクッ!」と眼を醒ました。

 スマホを見ると、なんと咲坂からのLINEだった。

 LINEに表示された"咲坂雪菜”の名前を見て心拍数がピクンと跳ね上がり、眠気が一気に吹っ飛んだ。

 興奮して思わず小刻みに震えてしまった指でアプリを操作し、咲坂からのメッセージを見る。

 ”田尻のサークル説明会のチラシ送ります。”

 シンプルな業務連絡か。

 まあそうだよな、と思いつつ少しガッカリする。

 即レスはキモいと思っていたが、心拍数が上がった勢いで、あんだけ注意しようと思っていたのに即レスしてしまった。

「連絡ありがとう。いまから楽しみです」

 キモくならないよう細心の注意を払いながらの短い一文を送った。

 すると、咲坂もまだスマホを見ていたのか、咲坂からも直ぐに返信が来て、それからチャットの応酬になった。

「何が楽しみなの?」

「それは田尻のサークルだろ?」

「ブブー!不正解!」

「え?何?」

「そこは”私と会えるから”って言わなきゃダメでしょ?」

 心拍数がさらに跳ね上がってしまった。

 やれやれ。

 この調子では、俺の心臓は、いつまで持つんだろうか?
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