咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

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咲坂雪菜の過去にそっと触れた日、 彼女が心を少しだけ開いた。

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 咲坂に「坂田」と呼ばれたその女性。

 背は割と高くスリムな体型、年齢は四十代後半に見える。

 化粧気もなく服装も地味だが、凛とした佇まいから――ただ時間を持て余してランチを楽しむだけのマダムではないことがうかがえた。

 固まる咲坂とは対照的に、彼女の目には、我が子を見るような「温かみ」があった。

 怪訝な顔で黙っている俺に気づいたその女性は、ゆっくりと俺の方を向いた。

 ――品定めするような視線。

 どうせ「なんで俺みたいな冴えない男が咲坂のような美しい女性と?」というリアクションだろうと思っていた。

 しかし、彼女から出たのはまったく予想外の言葉だった。

「雪菜ちゃん、良かったね」

 坂田は、目を細めながら微笑をたたえ、嬉しそうにそう呟いた。

 そう言われた咲坂は、どういう表情をしていいのか分からず、目を泳がせていた。

 そして坂田は、今度は俺に向き直り、問いかけてきた。

「あたな、雪菜ちゃんの彼氏なの?」

 唐突な質問だったが、驚きはしなかった。

 もうこのパターンには十分慣れている。慌てずに答えた。

「大学の友だちです。次の講義までの時間つぶしです」

「ああ、そうなの。ごめんなさい。私、雪菜さんと知り合いで――坂田といいます」

「櫻井です」

 視線を咲坂に移すと、彼女の微妙な表情が視界に入った。

 俺は話を進めずに咲坂の言葉を待った。

「坂田さんは、昔とてもお世話になった方で……」

 歯切れが悪い。

 何かあるな。

 そう直感した。

「俺、向こうの席に行ってるから、二人で話したら?」

 咲坂は少し戸惑って坂田の方を見た。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 と答えると、坂田は嬉しそうに俺へ優しい眼差しを向けた。

「ああ、櫻井さん、そんな長くならないと思うから」

 その表情からは、深い慈愛が滲んでいた。

「あ、はい。分かりました。向こうの席、空いてるんで」

「義人、ゴメン」

「いいって、ゆっくり話せよ」

 俺はことさら笑顔でそう答えた。

 咲坂も少し安心したように頷いた。

 詮索するのは咲坂に悪いとは思う。

 けれど――まあ、勝手に想像する分には誰の迷惑にもならん。

 一人で暇だし。

 坂田というあの女性。咲坂に向けた愛情あふれる「視線」の種類は、どこか“母性”に近かった。

 だから咲坂との接点は、きっと彼女の「少女時代」にある。

 おそらくは小学生から中学生くらいだろう。

「雪菜ちゃん」という“ちゃん付け”も、それを裏づけている。

 坂田は俺を見て、「良かったね」と言った。

 ――何が良かったんだ?

「彼氏ができて良かった」?

 いや、違う。

 それならそのあとで「彼氏なの?」なんて俺に聞くのはおかしい。

 一番ありそうなのは……

 俺という「男友だちと一緒にいること」そのものが、坂田の“良かったね”の理由になっているということ。

 つまり、咲坂の少女時代――彼女は男子とうまくコミュニケーションが取れなかった。

 もしくは、男を恐れていた。

 男性不信になる理由なんて、いくらでも想像できる。

 あの咲坂だ。

 子どもの頃だって、きっと男子の目を引くタイプの少女だったに違いない。

 だとすれば、「好きな子をいじめる」という子供特有の行動の犠牲になった……そんなテンプレートな展開がまず浮かぶ。

 もう一つは、あまり想像したくないが「父親の虐待」という可能性だ。

 ただ、これはおそらくない。

 何度か聞いた咲坂の家族の話で、父親は普通に話題に上る。

 少なくとも、家族の問題が彼女の性格に暗い影を落としている印象はない。

 だとすると、最初に浮かんだ“男子からのいじめ”説か。

 たしかに、男子からのいじめで心に深い傷を負う少女は多い。

 それが原因で極度の男性不信になることもあるだろう。

 でも――どうも違う。

 明確に説明できないが、俺の知る咲坂のパーソナリティからして、それはしっくりこない。

 なにか、別の理由がある。

 いろいろ想像をめぐらせていると、ふとある結論に思い至った。

「……そうか。当時からあったのかもしれない」

 何が、とは言うまでもない。

 咲坂の“魔性”だ。

 当時からすでに、男子の視線を過剰に惹きつけ、その視線に悩まされていた。

 しかし、その先は分からない。

 これ以上考えても答えは出そうになかったので詮索はいったん保留にした。

 それより先に「坂田」という人間が何者なのかを考えてみた。

 あの“母のようなまなざし”を思い出す。

 母親ではないとすれば――一番安直な推測は「先生」か。

 それなら咲坂の学生時代を知っていても不思議ではないし、男性不信を理解していた可能性もある。

 だが、咲坂は咄嗟に「坂田先生」とは呼ばなかった。

 代わりに「坂田さん」と言った。

 俺なら、卒業後でも教師に会えば「先生」と呼ぶ。

 多くの人もそうだろう。

 だから、坂田が恩師という線は薄い。

 では――親戚か?

 年齢的には叔母のような立場かもしれない。

 しかし、それなら「古い知り合い」などと言わず、「叔母」と紹介するはずだ。

 うーん……全くわからん。

 そうこうしているうちに、咲坂との話は終わったようだった。

 坂田が帰り際、俺の席に立ち寄って声を掛けてくれた。

「邪魔してごめんなさいね」

「いえ、ただの暇つぶしでしたから」

 デートを邪魔してしまった風に言われたので、照れ隠しにそう答えた。

「雪菜ちゃん、櫻井君のこと頼りにしているみたいだから、彼女のこと支えてあげてね?」

 咲坂は俺を頼りにしている。

 しかしそれは誰にでも簡単に話すことではない。

 つまり彼女はそれを話すに足る相手であるということだ。

「なんとか張ってます」

 俺も隠すこともないだろうと思い、本音で応えた。

「いっそ付き合ったらいいじゃない? 好きなんでしょ? 雪菜ちゃんのこと」

 一瞬”ヒヤリ”とした。

 この結論が上條社長と同じであることは偶然なのだろうか?

 俺は彼女への警戒心を少し上向きに修正した。

 少し油断したな……。

「まあ、がんばってみます」

 まさかここでもぶっちゃける羽目になるとは思いもよらなかった。

 目ざとい女性はおっかない。

「フフフ……がんばってね!」

 両手でガッツポーズをして楽しそうに彼女は去っていった。

 俺は咲坂の座る席に戻った。

 さて、どこから聞いていいものやら迷っていると、咲坂の方から話を切り出してくれた。

「坂田さん、私とどういう関係だと思う?」

「聞いてもいいの?」

「うん」

 田尻のサークル説明会のあと――あの時、咲坂はここで踏みとどまってしまった。

 おそらくそのことへの後悔が、今の「うん」に滲んでいるのだろう。

 咲坂は、ことさら明るくそう答えた。

 ただ、その笑顔の奥に、やはり少しの迷いが見えた。

「無理すんなよ?」

「いいの。義人には知っててほしいから。そうだ、当ててみてよ?」

 無理して笑顔を作る咲坂に、俺の心は少し揺らいだ。

 けれど、ここで気を遣うのは逆効果だ。

 彼女の覚悟を無駄にしちゃいけない。

 俺はさっき予想した――坂田の“母の視点”から、小中学生時代の関係者で、先生ではなく、叔母でもなく……という話をした。

 男性不信の話題だけは、あえて避けた。

 咲坂は心底驚いたように目を丸くした。

「いや、やっぱ義人は凄いね。ほぼ当たってる」

「でも、それだと結局誰だか結論出てないんだよね」

「その先は、難しいだろうなあ~」

 存外に咲坂の表情は明るかった。

 少なくとも、この話題を探られること自体が嫌ではないようだ。

 おそらく、あの女性との思い出も悪いものではないのだろう。

「咲坂のその様子だと、精神的に支えてくれた人には違いないよね」

「そう、とってもお世話になった」

「孤児院の先生とか?」

「ふざけてる?私が孤児じゃないの知ってるでしょ?」

「ええ、知ってました」

「当てる気ないよね?」

 バレとるなぁ。

 ここは深入りせずに、適当にごまかすのが優しさと思ったのだが。

 でも俺がたどり着いた結論は実はある。

「問題児“雪菜ちゃん”につけられたカウンセラーだ」

 なるべく軽い調子で言ったのだが――

 咲坂が、黙ってしまった。

 だよね。そういうリアクションになるよね。

 坂田との短いやり取りの中で俺は “同類”の雰囲気を感じ取っていた。

 果たしてビンゴだった。

「ああ~、バレちゃったか」

 咲坂は最初こそ動揺したようだったが、でもどこかほっとしたように、つぶやいた。

「私ね……ちょっと、色々と難しい子供だったんだ」

「無理して話さなくてもいいぞ?」

「いいの。もう聞いて。あ、でも両親に虐待されたとか、学校でいじめられてたとかではないの」

 やっぱりそうか。

 けれど、彼女の口からそう説明されて、俺はようやくホッとした。

「じゃあ、なんで?」

「私さ、義人と初めて会ったとき、義人が“オカルト好きなんじゃないか”って言ったの、覚えてる?」

「ああ、もちろん。割とショックだったよ」

「ははは、確かにあの時そういう顔してた」

「ひどくね?そこは笑うところではないだろう?」

 俺はとにかく空気を重たくしないようにテンションを上げることに集中していた。

「あれはね、義人のことバカにしたわけじゃなくて、私もそうだったの」

「え? まさか咲坂もオカルトマニア?!」

「う~ん……私の場合はもう少し深刻かな」

「え? どういうこと?」

 咲坂は森内のようなオカルト娘にはどうやっても見えない。

「実は私、視える娘だったんだよね」

「え? 視えるって……その、霊的なやつか?」

「う~ん、まあ、それが霊なのか幻覚なのか、私には分からないけど。少なくとも幼い私には“視えているもの”と“現実”の区別がつけられなくて、周りの人から気味悪がられてた」

 ……そういうことか。

 普通の家庭なら、子供が「霊や幻覚が視える」と言えば、精神病を疑って精神科に連れていくだろう。

 そこで坂田に出会った。

 そして真面目な咲坂のことだ、自分でもそれを突き止めようと心理学を学び、ミンデルに、そして田尻にたどり着いた。

 まあ、咲坂の心理学のスキルは、このテーマを探求するレベルをとっくに超えている。

 もはや学者を目指す域だ。

「それで、まだそれは続いてるのか? その霊が視えるとか」

「ううん、それはもう全くなくなった」

「そうか」

「坂田さんのおかげで治ったの」

「そうなのか?」

 それを聞いて、少しホッとした。

 カウンセラー坂田の治療で“見えなくなった”ということは、咲坂が見ていたのは“幻覚”の可能性が高い。

「ええ……坂田が、命がけで救ってくれた」

 咲坂は“命がけで”という表現を使った。

「そんな大げさな!」――とは思わなかった。

 これは、俺たち“深層心理学”をかじる者にとっては、比喩でも誇張でもない。

 文字通りの話だ。

 人間の心の闇は、想像よりもずっと深い。

 その深みに落ちた人間は、なぜか命に関わるような“偶然”を引き寄せてしまう。

 そうした闇から誰かを“現実”へ引き戻すには、血を見るほどの、壮絶な闘いが必要になる。

 他人の闇に深入りしすぎると、自分の命を落とす――そう警告する心理学者の記述を、俺は何度も読んだ。

 目の前にいる咲坂からは、“魔性”は感じても、“闇”はもう見えない。

 つまり坂田が、彼女を“闇”から救い出したのだ。

 文字通り――命がけで。

 俺はそんな坂田の壮絶なカウンセリングを想像して、身震いした。

 あの優しい眼差しで咲坂を見つめる坂田という女性。

 彼女の全人格、全人生を懸けて、咲坂に向き合ったに違いない。

 彼女が命を懸けて咲坂を闇から救い上げてくれたことを想像して、胸が熱くなった。

 ここまでの理解に達したところで、ついに最後のピースがピタリと嵌った。

「残党か」

 思わず呟いた俺に、咲坂が驚いたように目を見開いた。

「義人……田尻先生も、そう言ってた」

「そうか。田尻は一瞬でここまで見抜いていたか」

「あの日、すでに田尻先生は私の“異性を惹きつけすぎる魔性”に気づいていた。

 でも、その理由を聞いても私には分からなかった。ただ――“残党がいる”と」

 戸惑いながらも、咲坂は静かに語った。

「その残党って、何のこと?」

「坂田さんが取り逃がした“闇”が残っていたという意味だ」

 咲坂は、息を呑むようにして俺の顔を見つめた。

 その瞳の奥に、一瞬だけ震えが走った。

 彼女には、この言葉の意味が――もう、完全に通じていた。
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