咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

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仮面が必要な世界で、俺だけが素顔だった。

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 先日の「坂田」――咲坂が少女時代にカウンセリングを受けていた女性との邂逅により、ついに彼女の持つ“魔性”の正体が輪郭を現しはじめた。

 ただ、それが分かったところで、今の俺に何ができるわけでもない。

 今の俺は目先の用件――渋谷に向かわねばならない。

 午前中の講義を終えた俺は、大慌てで渋谷へ向かっていた。

 渋谷という街は、本来なら俺のキャラクターからすれば行動範囲から完全に外れている場所だが、一つだけ俺が行く場所がある。

 もちろん咲坂のモデル事務所兼撮影スタジオ――Kスタジオだ。

 午前中最後の講義が終わってすぐ、スマホに見知らぬ番号からの着信があった。

 普段なら無視するところだが、うっかりサイレントモードを解除したままだったせいで、講義室を出た途端、ケタタマしい着信音が鳴り響いた。

 その勢いで、驚いて通話ボタンを押してしまったのが運の尽きだった。

「おー! 上條だ!」

「こ、声デカいですよ。周りからメチャ見られてるじゃないですか」

「はは、悪いな。さて、君はこれから暇か?」

「え? これから昼飯食おうと思ってたんですけど」

「奇遇だな。すぐにKスタジオに来なさい。昼一緒に食べよう」

「ちょっと待ってくださいよ? なんですか、いきなり」

「YUKINAの件で、少し話がしたい。そう言われたら来ざるを得まい?」

「そのやり方は反則でしょう? 嘘だったら怒りますよ?」

「嘘なもんか! そもそも私と君の接点はYUKINAしかないんだから。それとも私が一人の女性として、個人的に君と食事をしたいと思ったのか?」

「そんなこと思うわけないでしょ?」

 ああ、ホントこの人の人操術には敵わない。

「でも、今からだと一時半は過ぎますよ?」

「構わんよ。君と食事するなら、それぐらい喜んで待ってやろう。……アハハハ、君も私に愛されたものだな」

 *   *   *

 俺は渋谷駅のハチ公口の改札を降りた。

 毎度のことながら、駅前のスクランブル交差点は人を避けながら歩かないと真っすぐ進めないほどの人混みだ。

 これだけの人がいても、もちろん俺のことを気に留める人間は一人もいない。

 俺が目立たない平凡な大学生ということもあるが――たとえ俺がもう少し見栄えのいい“イケてる大学生”だったとしても、この渋谷の人波で注目されることはほとんどないだろう。

 一般人というのは、そもそもそういうものだ。

 他人からの注目度なんてゼロに等しい。

 せいぜい前から歩いてくれば、ぶつからないように「避ける」ためだけに存在を認識される程度だ。

 だが――前に俺と咲坂がこの同じ場所を通ったときは違った。

 多くの通行人が、彼女を見て振り返った。

 中には、ファンだといって話しかけてきた女子高生までいた。

 咲坂が「人気モデルYUKINA」だと知って視線を送る人も当然いただろう。

 けれど、おそらくその事実を知らずとも振り返った人も少なくなかったはずだ。

 咲坂には、それほどの存在感がある。

 俺のような平凡な人間では、どうあがいても手の届かない――別世界に住む人間。

 ──道玄坂の途中で路地を曲がると、人通りがようやく疎らになった。

 ずいぶんと早歩きしてきたせいで、少し息が上がる。

 ようやくKスタジオのエントランスにたどり着き、一息ついた。

 俺は正面玄関から入るのを避けた。

 いや、注目されるような人間ではないけれど、前回の訪問で「咲坂と近しい男」として妙に目立ってしまっていたのだ。

 自意識過剰と笑われようが、あの視線はごめんだ。

 裏口へ回り、守衛室の受付で「社長室」と書いた紙を見せたら、案の定、守衛に怪訝な顔をされた。

 まあ、普通の大学生が社長室を訪ねるなんて、まずあり得ない。

 俺は社長室へ直接内線を入れて確認を取った。

 上條社長の確認が取れた瞬間、守衛の表情が一変し、愛想笑いを浮かべながら慇懃な態度に変わる。

 その切り替えの早さに、俺は苦笑した。

 誰も彼も、こうして“仮面”を使う。

 これが社会を生き抜くための処世術だと分かってはいる。

 だが、この守衛のように露骨にそれをやられると、さすがに胸糞が悪い。

 エレベータで5階へ上がる。

 ベージュのカーペットを踏みしめながら社長室へ向かうと、自分でも驚くほど心拍数が上がっていることに気づいた。

 上條社長とは一度ランチを共にしただけ。

 たったそれだけの関係で、芸能事務所の社長と顔を合わせに来る。

 緊張するなという方が無理だ。

 上條がどれだけフランクに接してこようとも、平凡な学生からすれば、やはり“越えられない壁”が確かに存在する。

 社長室の前で深呼吸し、ノックをした。

「どうぞー」

 中から上條の明るい声が響く。

 ドアを開けた瞬間――俺は一瞬、フリーズした。

 想定していた光景とは違う光景が広がっていたのだ。

 上條が一人でいると思っていたその部屋には、咲坂と――見知らぬ男が立っていた。

 咲坂は俺を見るなり、ややバツの悪そうな顔をした。

 まあ、咲坂はいい。

 そもそも咲坂の問題で今日もここに来ているわけだ。

 本人同席は想定の範囲内だ。

 問題は、もう一人の“見知らぬ男”だった。

 その男は、俺を見るやいなや、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように視線を走らせた。

 咲坂と知り合ってから、こういう視線にもだいぶ慣れた。

 俺と咲坂が並んで歩いていると、ほぼ間違いなくこういう目で見られる。

「この男がこの美女に釣り合っているかどうか」という、あの評価の目で。

 今この男がしたのも、まさにそれだ。

 こういう視線を浴びるたびに、人間がいかに「外見」でランク付けしたがる生き物かを思い知らされる。

 以前の俺は、注目される状況なんて皆無だった。

 だからこそ今、咲坂という“選ばれし人間”の隣に立つようになって、初めてその目の冷たさを知った。

 その男は、やがて満面の笑みを俺に向けた。

 それは――さっきの守衛と同じ“仮面”の笑み。

 けれど、この男のそれは、それに少し違った意味合いが含まれる。

 YUKINAの知り合いの男性? ああ、普通の大学生だね、という揶揄の表情だ。

 彼は甘いマスクに加えて身長も高い。

 また肩幅が広く、ウエストが極端に絞れていて――全体のバランスが異常なほど整っている。

 誰が見ても、彼が“普通の人間”ではない、つまりモデルであることは一瞬で分かる。

「よう、櫻井! よく来たな。十三時十五分か。早かったな。そんなに私に会いたかったか?」

「やめてください。会社の社長に呼び出されたら、だいたいこんな感じでしょう? 社長なら少しはそういう配慮が必要じゃないですか?」

「アハハハ……相変わらず生意気だな、君は。社長の私に講釈をたれるのか」

「弱者側の一般論ですよ。社長の部下は誰も言えないでしょうから、せめて学生の俺くらいは言っておこうと思って」

「それはそれは、ご忠告ありがとう」

 上條は笑顔を崩さないまま、しかしその目に「この生意気なガキが」という感情をほんのり滲ませた。

 俺と社長のやり取りを見て、咲坂は苦笑いを浮かべ、微妙な表情をしている。

「そうそう、彼は……」

 話題を変えるように、上條は部屋のもう一人を紹介した。

「モデルの東郷肇。YUKINAの同僚ということになる」

 やはりな。

 俺の印象では、モデルというのはスタイルは良くても顔の印象が薄いタイプが多いが、この東郷はむしろマスクの完成度が際立っていた。

 きっと相当な人気モデルなのだろう。

「はじめまして、東郷です。君はYUKINAのお友達?」

「はい、櫻井といいます」

 俺は直感で分かった。

 ――この男も、咲坂に好意を持っている。

 根拠はない。

 けれど、そうとしか思えなかった。

 そして東郷は、おそらく俺を“安牌”と判断したのだろう。

 あの笑みに、そういう“余裕”を感じた。

 この男もやはり咲坂に好意を寄せている。

 その東郷から見て俺は「ライバルにもならん」と判断したのだろう。

「咲坂とは大学で同じ学部、サークルという関係です」

 俺は淡々とそう付け加えた。

「あれ? 櫻井、それだけじゃないだろう?」

 ……ん? なんのこと?

 あ。

 半拍遅れて、ようやく意味がつながる。

「はっあ!?」

 俺は思わず大きな声を出してしまい、不覚にも耳まで赤くなるほどに赤面して動揺してしまった。

 上條が言いたかったのは無論、俺が前回上條社長へ「咲坂に告白する」と言ったことに他ならない。

 それを本人のいる前で匂わせるなんて――なんなんだこの人は?

 咲坂は幸い、意味が分からないように「ポカン」とした顔をしてくれたので助かったが……

 やはり東郷は、何かを……いや「全て」を察したようで「ほおー」という顔をして微笑んだ。

 その笑みは「まあ、がんばってくれたまえ」という子供をあやすような、明らかに「上から」の反応だった。

 俺はこの表情を見て初めて東郷という男に「敵意」を感じた。

 この敵意の正体は、「バカにしやがって!」という安いプライドを脅かされたときに感じる低レベルなところにもあったろう。

 しかしそれよりも俺が腹立たしかったのは、「咲坂に惚れた男」としての嫉妬心に他ならなかった。

 東郷という男を一目見て、またさっき俺に向けられたリーサルウェポン級の笑顔を見てから、俺はザワザワとした動揺が治まらない。

 それはこの男が咲坂に好意を持っているなら、俺ごときが勝負にしても全く話にならないのではないか? と思えてしまうからだ。

 この男もまた、渋谷のスクランブル交差点を歩けば咲坂同様に多くの人間に振り返られる選ばれし人間だ。

 俺のようにただぶつからないように避けられるだけの人間とは明らかに違う世界の住人に違いなかった。

「じゃあ、三人で食事をしよう」

 上條社長は突然、そう提案した。

「は?」

 俺は露骨に不快な顔をした。

 いきなり呼び出しておいて、来てみれば咲坂と面識のない東郷が同席するという。

 いや、咲坂の同席はいい。

 問題は――東郷だ。

 この男が、咲坂の“あの”問題に関わるというのか?

 そもそも、この男はどこまで知っている?

 もしかすると、俺より先に上條から話を聞かされていたということもあるのか?

 いろんな思考が頭の中で渦巻いた。

「なんだ櫻井、不満か?」

「まあ、どうなんでしょう。ホイホイ状況も確認せずにやってきた俺が悪いと言われれば、何も言い返せませんが……正直、面白くはないですね」

 俺はわざと不満を顔に出してそう言った。

「よ、義人、ゴメン。実は私が社長にお願いして、義人を呼んでもらったの」

 俺の不貞腐れた表情を見かねて、咲坂がそんなフォローを入れてきた。

 今の咲坂の言葉が本当なら、邪魔なのは東郷ではなく、後からやって来た俺の方かもしれない。

 特に東郷から見れば間違いなくそうだろう。

 つまり――この昼食はもともと上條社長、咲坂、東郷の三人で予定されていた。

 俺はそこに急遽飛び入りした部外者にすぎない。

「櫻井、そういうことだ。だから同席してほしい」

 社長は俺の不満を平気で退けて強引に話を進めた。

 さすがに社長のやり方はあまりに乱暴だ。

「俺は、咲坂の大事な話だからこそ社長が直々に電話をしてきたんだと察して、大急ぎで来たんですよ。それくらい俺なりに必死だったってことくらい、社長だって分かっていたはずでしょう? なのに、来てみたらこの状況……正直、納得できません。」

 上條に、自分が呼べば咲坂に惚れている俺がホイホイ飛んでくることなど、分かりきっているだろうに。

 そういう人の動かし方は、どうにも好きになれない。

 俺は学生という未熟さを盾に、さらに感情的に怒気をこめた。

 今の俺は“仮面”なんかつける余裕もなかった。

 苛立ちが収まらない。

「そもそも咲坂が直接連絡すればすむでしょう。俺の連絡先は知ってるわけだし」

 ダメ押しにそう言うと、咲坂の表情がピクリと動いて、上條と東郷の顔色を伺った。

 ん? なんだ?

 三人の間に微妙な空気が動いた。
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