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俺は、彼女を前にして自分が消えた
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「君は、どこまで知っているのだ?」
田尻は、クライアントである咲坂ではなく、まず俺に話を振ってきた。
田尻としては、同席する俺がどこまでの理解をしているのかで、話の持っていき方が変わってくる。
つまり理解がないなら、ただの足手まといにもなりかねない。
それを確認するということは、裏を返せば“これから突っ込んだ話をする”ということだ。
室内の空気が、わずかに重くなる。
俺は足手まといになるわけにはいかない。
「俺が把握しているのは、咲坂が異性から執着されやすい何かがあること。そして恐らくそれは……」
「それは?」
「残党だと……」
俺は先日たどり着いた結論を、最も端的に表す単語を使った。
田尻が咲坂にもこの言葉を使ったことは聞いていたので、これで伝わるはずだ。
「そうだな」
田尻は驚きもせずに一言で返した。
「で、君はなぜこの件に関わっている?」
やはり、これは聞かれて然るべきか。
大学の友達という以上の関係でない俺が、咲坂の深い問題に関わっている理由。
なかなか一言で説明できる自信がなく、言い淀んでいると――咲坂が助け舟を出した。
「私が無理言ってお願いしたんです」
「そうか……」
一瞬だけ咲坂に視線をやりながら、田尻は一言だけ呟いた。
相変わらず田尻の表情はピクリとも動かず、全く本心が読めない。
しかし田尻は、視線を俺に戻すと再度同じ質問を投げてきた。
「で……なぜ君はこの件に関わっている?」
田尻は、その答えを知りたいわけではない。
おそらく、そんなことは分かっている。
それを俺がどう認識しているかを訊ねている。
だからそれを咲坂が答えることに意味はない。
おそらく田尻はこの質問の言外に“含み”を持たせている。
それはつまり――
“俺が咲坂の残党に魅かれているのではないのか?”ということだ。
おそらく田尻は、俺がその可能性に気づいているのかどうかを問うている。
これは、まさについ先日に俺がその可能性に気づいたばかりのことだ。
俺はそれについては明快な回答をすでに得ている……。
喉を鳴らして息を整え、背筋を伸ばす。
咲坂の部屋に行ったとき、俺はここは間違えてはいけないと誓ったのだ。
「田尻先生は……たぶん、俺も残党に魅かれていると思っていると思います。当事者の俺はそれを客観的に判断することはできません。だからそこが本質だとも思っていません」
俺がそこまで言うと、田尻は、俺の瞳の奥を探るような鋭い視線を向けた。
震えが来るほどの恐ろしい視線でもあったが、俺も怯むわけにはいかない。
「俺がここにいるのは、咲坂が俺を頼ってきたからです。それ以上でも以下でもない。俺にとって、残党がどうとか――そんなこと、もうどうでもいいんです。俺は、彼女を救いたい。それ以外に、俺がここにいる理由なんてありません。」
俺の声は自然と大きくなっていた。
けれど、田尻の視線は何ひとつ変わらない。
沈黙が落ちる。
重く、長い沈黙だった。
俺はその視線を正面から受け止めた。
だが、胸の奥では――何かがゆっくりと冷えていくのを感じていた。
「なるほど……よく分かった」
ようやく田尻は口を開いた。
その声は静かすぎて、かえって鼓膜に刺さる。
“分かった”という言葉が、俺の思考をすべて読み切った合図のように響いた。
しかし、隣に座る咲坂は、俺と田尻のやり取りがまるで理解できない様子だった。
不安そうに俺の顔と田尻の顔を交互に見つめている。
「では君が今回の件で分かっていることを教えてくれ」
田尻の声は淡々としているのに、部屋の空気が一瞬で張りつめた。
俺は息を呑みながら答える。
「咲坂には過去に苦しんだ闇があり……カウンセリングによって、その闇はほぼ霧散しています。ただ、その闇の一部が“残党”として残ってしまった……その残り香が男を異様に引きつけている」
これが、俺の知っているすべてだ。
それ以上のことは分からない。
「それだけか?」
間髪入れずに田尻が詰め寄る。
声を荒げるわけではない。
ただ、追い込まれているような圧迫感を感じる。
「はい……これ以上は何も分かりません」
そう答えた瞬間、田尻の眉間にわずかに皺が寄る。
冷たい沈黙。
その表情からは、明らかな失望が見て取れた。
焦燥感が全身に走る。
「君はそれで彼女を救うつもりでいたのか?」
その一言で、頭の奥に衝撃が走った。
脳の深部を叩かれたような衝撃だ。
言葉が出ない。
「君は深層心理学をある程度学んでいると思っていたが……間違っていたかな?」
田尻の視線が突き刺さる。
逃げようにも、身体が動かない。
咲坂が心配そうに見ているのが視界の端に見えた。
けれど、何も返せない。
「普段の君なら……この答えにすぐに辿りついている」
「せ、先生……それはどういう……」
田尻の表情は変わらない。
ただ、その目の奥の光だけがわずかに鋭くなる。
「今の君では……咲坂君を救うことはできない」
「……!!」
胸の奥が軋む音がした。
その一言が、全てを断ち切る刃のようだった。
息を呑む音すら出せない。
――俺は咲坂を救えない。
その言葉が、ゆっくりと頭の中に沈んでいく。
冷たい水のように、静かに広がっていく。
心が重く沈み、何も浮かばない。
「先生……義人、いえ……櫻井君にはすでに色々助けてもらっています。そんなことはないと思います」
咲坂の声は柔らかいのに、どこか震えていた。
誰かに反論するのは、本当に珍しいことだった。
しかし、そのわずかな抵抗が、場の空気を鋭く揺らした。
「ああ、それは分かってる」
田尻の返しは短く、そして冷たかった。
その音だけが、部屋の空気をさらに凍らせる。
咲坂は眉間にしわを寄せ、視線を伏せた。
納得していない――その色が、微かに滲んでいる。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
田尻はそんな彼女の反応など、存在しないかのようだった。
ただ、俺をまっすぐ見据えていた。
その目は、氷のように動かず、光だけが底に沈んでいる。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
田尻は、俺が答えに辿りつけないことを悟ったのだろう。
ゆっくりと、まるで結論を下すように口を開いた。
「話を長引かせても仕方がない。君が咲坂君を救えない理由は……」
その瞬間、心臓の奥が強張った。
これから聞かされる言葉を、身体が拒んでいる。
それでも逃げられない――そんな恐怖が、背骨を伝って這い上がってきた。
「君が外側で突っ立っているからだ。」
理解の届かない言葉に不快感が走った。
外側?――何を言ってるのだ?
田尻の声には、微塵の熱もない。
田尻はまばたきひとつせず、ただそこにいた。
ただ、その静けさが、異様に怖い。
田尻の曖昧な表現。
おそらくいくつもの意味が沈んでいるのだろう。
そのすべてを掴もうとしても、俺がそれをつかめるはずがないと感じた。
俺のそんな諦めの表情を読んだのか、田尻が口を開いた。
「櫻井……お前には、あまりに足りないものが多すぎる。」
冷気のような声が、追い打ちで空気を凍らせた。
俺には足りないものが多すぎる……
言葉の意味を理解できないまま、心だけが沈んでいく。
その一言が、まるで判決のように胸に刻まれた。
田尻の曖昧な表現の中には、いくつもの意味が沈んでいた。
そのすべてを掴もうとしても、思考が空転するばかりだった。
「た、確かに――僕は心理療法家でも、カウンセラーでもない。ただの学生の分際で、咲坂の抱える問題を解決できるはずがない。だから先生に協力してほしいと――」
口にしながら、自分の言葉の軽さに気づく。
坂田。
命を懸けて咲坂と向き合った彼女でさえ、消せなかった残党。
それを“学生の俺”が救えると思っていたのか。
笑えるほどに傲慢だ。
「もちろんそれもあるが、根本はそこではない」
そこではない?
他になにかあるのか?
「では聞こう。だとするなら今の君には何ができる?」
答えられなかった。
喉が塞がれ、呼吸すら浅くなる。
「一介の友人が他人の無意識に介入するなど、子供の妄想よりタチが悪い」
ああ――決定的だ。
もう何も言い返すことはできない。
俺がやろうとしていたことは、子供が妄想の中でヒーローになり、お姫様を救おうとするのと何も変わらない。
しかも、それを現実にやろうとしていたという意味で――そしてそれが危険を伴うという意味で――確かに、子供の妄想よりタチが悪い。
田尻の言う通りだ。
俺は――咲坂を救えない……
自分の声が遠くで響く。
その響きが、心を締め付ける。
――俺は咲坂を救えない。
認めたくない。
だが、逃れられない。
諦めが全身に染み渡る。
その瞬間、思考が止まった。
気付けば涙が頬を伝っていた。
その時……
“ガタンッ!!”
音の方を見ると、咲坂がイスを倒しながら立ち上がっていた。
咲坂は上半身をワナワナと震わせながら、その目は怒りに満ちて田尻を見据えていた。
「先生、なに言ってるんですか? 私は義人に救われてるって言ってるじゃないですか! 勝手なこと言わないでくださいっ! 救われたかどうかを判断するのは、私じゃないですか? 私を無視して勝手なこと言わないでください。私は……義人にちゃんと救われてるんです。もう……たくさん救われてるんです。ダメなんです……ダメなんですよ。私は……義人じゃないと……ダメなんです。だから、勝手なこと言わないでください!」
咲坂の訴えは、最後はもう絶叫に近いものとなっていた。
そして咲坂の大きな、誰よりも綺麗で美しいその瞳からは、止めどなく涙が溢れていた。
その姿は、咲坂の強い思いが田尻に迫っていた。
田尻の眼は、咲坂の大きく見開かれた眼を見据えていた。
その眼光は、今まで田尻が見せたことがないほどに、鋭いものだった。
しかし咲坂は、その恐ろしいほどの眼光から、決して目を背けることなく真っ向から受け止めていた。
力強く、逃げずに、ただただ力強く、咲坂は田尻を睨み続けた。
その姿を見て思った。
ああ、咲坂は……俺なんかよりよっぽど強い。
俺のような弱い人間が出る幕は初めからなかったのかもしれない。
彼女は、既に一度地獄を見て、そこから這い上がっている。
俺は何を勘違いしていたのだろう?
咲坂のそばにいて救われていたのは、俺の方だったのだ。
…… …… ……
どれくらいの時間がたったのだろう。
一瞬の気もするし、もう半日もこうしていると言われても否定できないほど、妙な感覚に俺は支配されていた。
時間の感覚すら欠如するほどに、思考が停止してしまった。
気を取り直すと、俺は間抜けな顔で項垂れていた。
咲坂は、怒りの剣をまだ納めないでいた。
「まあ、座りなさい」
田尻にそう言われ、咲坂は渋々と腰を下ろした。
田尻も、咲坂の激しい感情の放出は想定外だったのかもしれない。
珍しく“やれやれ”という表情を見せ、ゆっくり語り始めた。
「咲坂君にとって、櫻井の行動が救いになっていることは全く問題はない。私はそれを否定するつもりもない……しかし」
「しかし?」
「問題は彼の能力の話ではない。関係性の話だ」
この言葉で、いままで田尻に前のめりに迫っていた咲坂が、急に怯んだ。
なぜ咲坂は怯んだのだ?
俺は、この咲坂の反応が気になった。
そして田尻は続けた。
「咲坂君。君はこのままでいいのか?」
咲坂は苦しそうに下を向いてしまった。
なぜ咲坂は下を向くのだ?
咲坂は何を知っているんだ?
俺は、何かを見落としているか?
咲坂は、しばらく下を向いて逡巡したあと、意を決したように言った。
「私がなんとかします」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥がひやりとした。
「それは違う」
田尻は、呆れたように小さく息を吐いた。
「でも……」
そこまで言うと、咲坂は悲しそうな表情を浮かべ、言葉を閉じてしまった。
しばしの沈黙。
田尻は矛先を俺に向けた。
「櫻井。この先は自分でよく考えろ」
田尻の言葉は、さっきの追及とは違った種類の厳しさだった。
「……は、はい」
俺は無感情で、ただそれだけ口にした。
今、俺だけ置いてけぼりにされている。
俺は、全く何を考えたらいいのか見当もつかない。
だから俺は、これ以上の返事はできなかった。
「櫻井。今のままでは、根本解決は難しいぞ」
田尻はそう付け加えた。
それを聞いた彼女は、ただ寂しそうに下を向いた。
咲坂は、間違いなく田尻とのやりとりで“ある結論”にたどり着いている。
しかし、俺にはついにその答えがなんなのか全く分からなかった。
やはり俺は咲坂には全く敵わない。
こんな咲坂を助けられると思っていた自分の傲慢さが情けない。
俺は、情けなさすぎて、自分に腹を立てる気力も起きなかった。
田尻は、クライアントである咲坂ではなく、まず俺に話を振ってきた。
田尻としては、同席する俺がどこまでの理解をしているのかで、話の持っていき方が変わってくる。
つまり理解がないなら、ただの足手まといにもなりかねない。
それを確認するということは、裏を返せば“これから突っ込んだ話をする”ということだ。
室内の空気が、わずかに重くなる。
俺は足手まといになるわけにはいかない。
「俺が把握しているのは、咲坂が異性から執着されやすい何かがあること。そして恐らくそれは……」
「それは?」
「残党だと……」
俺は先日たどり着いた結論を、最も端的に表す単語を使った。
田尻が咲坂にもこの言葉を使ったことは聞いていたので、これで伝わるはずだ。
「そうだな」
田尻は驚きもせずに一言で返した。
「で、君はなぜこの件に関わっている?」
やはり、これは聞かれて然るべきか。
大学の友達という以上の関係でない俺が、咲坂の深い問題に関わっている理由。
なかなか一言で説明できる自信がなく、言い淀んでいると――咲坂が助け舟を出した。
「私が無理言ってお願いしたんです」
「そうか……」
一瞬だけ咲坂に視線をやりながら、田尻は一言だけ呟いた。
相変わらず田尻の表情はピクリとも動かず、全く本心が読めない。
しかし田尻は、視線を俺に戻すと再度同じ質問を投げてきた。
「で……なぜ君はこの件に関わっている?」
田尻は、その答えを知りたいわけではない。
おそらく、そんなことは分かっている。
それを俺がどう認識しているかを訊ねている。
だからそれを咲坂が答えることに意味はない。
おそらく田尻はこの質問の言外に“含み”を持たせている。
それはつまり――
“俺が咲坂の残党に魅かれているのではないのか?”ということだ。
おそらく田尻は、俺がその可能性に気づいているのかどうかを問うている。
これは、まさについ先日に俺がその可能性に気づいたばかりのことだ。
俺はそれについては明快な回答をすでに得ている……。
喉を鳴らして息を整え、背筋を伸ばす。
咲坂の部屋に行ったとき、俺はここは間違えてはいけないと誓ったのだ。
「田尻先生は……たぶん、俺も残党に魅かれていると思っていると思います。当事者の俺はそれを客観的に判断することはできません。だからそこが本質だとも思っていません」
俺がそこまで言うと、田尻は、俺の瞳の奥を探るような鋭い視線を向けた。
震えが来るほどの恐ろしい視線でもあったが、俺も怯むわけにはいかない。
「俺がここにいるのは、咲坂が俺を頼ってきたからです。それ以上でも以下でもない。俺にとって、残党がどうとか――そんなこと、もうどうでもいいんです。俺は、彼女を救いたい。それ以外に、俺がここにいる理由なんてありません。」
俺の声は自然と大きくなっていた。
けれど、田尻の視線は何ひとつ変わらない。
沈黙が落ちる。
重く、長い沈黙だった。
俺はその視線を正面から受け止めた。
だが、胸の奥では――何かがゆっくりと冷えていくのを感じていた。
「なるほど……よく分かった」
ようやく田尻は口を開いた。
その声は静かすぎて、かえって鼓膜に刺さる。
“分かった”という言葉が、俺の思考をすべて読み切った合図のように響いた。
しかし、隣に座る咲坂は、俺と田尻のやり取りがまるで理解できない様子だった。
不安そうに俺の顔と田尻の顔を交互に見つめている。
「では君が今回の件で分かっていることを教えてくれ」
田尻の声は淡々としているのに、部屋の空気が一瞬で張りつめた。
俺は息を呑みながら答える。
「咲坂には過去に苦しんだ闇があり……カウンセリングによって、その闇はほぼ霧散しています。ただ、その闇の一部が“残党”として残ってしまった……その残り香が男を異様に引きつけている」
これが、俺の知っているすべてだ。
それ以上のことは分からない。
「それだけか?」
間髪入れずに田尻が詰め寄る。
声を荒げるわけではない。
ただ、追い込まれているような圧迫感を感じる。
「はい……これ以上は何も分かりません」
そう答えた瞬間、田尻の眉間にわずかに皺が寄る。
冷たい沈黙。
その表情からは、明らかな失望が見て取れた。
焦燥感が全身に走る。
「君はそれで彼女を救うつもりでいたのか?」
その一言で、頭の奥に衝撃が走った。
脳の深部を叩かれたような衝撃だ。
言葉が出ない。
「君は深層心理学をある程度学んでいると思っていたが……間違っていたかな?」
田尻の視線が突き刺さる。
逃げようにも、身体が動かない。
咲坂が心配そうに見ているのが視界の端に見えた。
けれど、何も返せない。
「普段の君なら……この答えにすぐに辿りついている」
「せ、先生……それはどういう……」
田尻の表情は変わらない。
ただ、その目の奥の光だけがわずかに鋭くなる。
「今の君では……咲坂君を救うことはできない」
「……!!」
胸の奥が軋む音がした。
その一言が、全てを断ち切る刃のようだった。
息を呑む音すら出せない。
――俺は咲坂を救えない。
その言葉が、ゆっくりと頭の中に沈んでいく。
冷たい水のように、静かに広がっていく。
心が重く沈み、何も浮かばない。
「先生……義人、いえ……櫻井君にはすでに色々助けてもらっています。そんなことはないと思います」
咲坂の声は柔らかいのに、どこか震えていた。
誰かに反論するのは、本当に珍しいことだった。
しかし、そのわずかな抵抗が、場の空気を鋭く揺らした。
「ああ、それは分かってる」
田尻の返しは短く、そして冷たかった。
その音だけが、部屋の空気をさらに凍らせる。
咲坂は眉間にしわを寄せ、視線を伏せた。
納得していない――その色が、微かに滲んでいる。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
田尻はそんな彼女の反応など、存在しないかのようだった。
ただ、俺をまっすぐ見据えていた。
その目は、氷のように動かず、光だけが底に沈んでいる。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
田尻は、俺が答えに辿りつけないことを悟ったのだろう。
ゆっくりと、まるで結論を下すように口を開いた。
「話を長引かせても仕方がない。君が咲坂君を救えない理由は……」
その瞬間、心臓の奥が強張った。
これから聞かされる言葉を、身体が拒んでいる。
それでも逃げられない――そんな恐怖が、背骨を伝って這い上がってきた。
「君が外側で突っ立っているからだ。」
理解の届かない言葉に不快感が走った。
外側?――何を言ってるのだ?
田尻の声には、微塵の熱もない。
田尻はまばたきひとつせず、ただそこにいた。
ただ、その静けさが、異様に怖い。
田尻の曖昧な表現。
おそらくいくつもの意味が沈んでいるのだろう。
そのすべてを掴もうとしても、俺がそれをつかめるはずがないと感じた。
俺のそんな諦めの表情を読んだのか、田尻が口を開いた。
「櫻井……お前には、あまりに足りないものが多すぎる。」
冷気のような声が、追い打ちで空気を凍らせた。
俺には足りないものが多すぎる……
言葉の意味を理解できないまま、心だけが沈んでいく。
その一言が、まるで判決のように胸に刻まれた。
田尻の曖昧な表現の中には、いくつもの意味が沈んでいた。
そのすべてを掴もうとしても、思考が空転するばかりだった。
「た、確かに――僕は心理療法家でも、カウンセラーでもない。ただの学生の分際で、咲坂の抱える問題を解決できるはずがない。だから先生に協力してほしいと――」
口にしながら、自分の言葉の軽さに気づく。
坂田。
命を懸けて咲坂と向き合った彼女でさえ、消せなかった残党。
それを“学生の俺”が救えると思っていたのか。
笑えるほどに傲慢だ。
「もちろんそれもあるが、根本はそこではない」
そこではない?
他になにかあるのか?
「では聞こう。だとするなら今の君には何ができる?」
答えられなかった。
喉が塞がれ、呼吸すら浅くなる。
「一介の友人が他人の無意識に介入するなど、子供の妄想よりタチが悪い」
ああ――決定的だ。
もう何も言い返すことはできない。
俺がやろうとしていたことは、子供が妄想の中でヒーローになり、お姫様を救おうとするのと何も変わらない。
しかも、それを現実にやろうとしていたという意味で――そしてそれが危険を伴うという意味で――確かに、子供の妄想よりタチが悪い。
田尻の言う通りだ。
俺は――咲坂を救えない……
自分の声が遠くで響く。
その響きが、心を締め付ける。
――俺は咲坂を救えない。
認めたくない。
だが、逃れられない。
諦めが全身に染み渡る。
その瞬間、思考が止まった。
気付けば涙が頬を伝っていた。
その時……
“ガタンッ!!”
音の方を見ると、咲坂がイスを倒しながら立ち上がっていた。
咲坂は上半身をワナワナと震わせながら、その目は怒りに満ちて田尻を見据えていた。
「先生、なに言ってるんですか? 私は義人に救われてるって言ってるじゃないですか! 勝手なこと言わないでくださいっ! 救われたかどうかを判断するのは、私じゃないですか? 私を無視して勝手なこと言わないでください。私は……義人にちゃんと救われてるんです。もう……たくさん救われてるんです。ダメなんです……ダメなんですよ。私は……義人じゃないと……ダメなんです。だから、勝手なこと言わないでください!」
咲坂の訴えは、最後はもう絶叫に近いものとなっていた。
そして咲坂の大きな、誰よりも綺麗で美しいその瞳からは、止めどなく涙が溢れていた。
その姿は、咲坂の強い思いが田尻に迫っていた。
田尻の眼は、咲坂の大きく見開かれた眼を見据えていた。
その眼光は、今まで田尻が見せたことがないほどに、鋭いものだった。
しかし咲坂は、その恐ろしいほどの眼光から、決して目を背けることなく真っ向から受け止めていた。
力強く、逃げずに、ただただ力強く、咲坂は田尻を睨み続けた。
その姿を見て思った。
ああ、咲坂は……俺なんかよりよっぽど強い。
俺のような弱い人間が出る幕は初めからなかったのかもしれない。
彼女は、既に一度地獄を見て、そこから這い上がっている。
俺は何を勘違いしていたのだろう?
咲坂のそばにいて救われていたのは、俺の方だったのだ。
…… …… ……
どれくらいの時間がたったのだろう。
一瞬の気もするし、もう半日もこうしていると言われても否定できないほど、妙な感覚に俺は支配されていた。
時間の感覚すら欠如するほどに、思考が停止してしまった。
気を取り直すと、俺は間抜けな顔で項垂れていた。
咲坂は、怒りの剣をまだ納めないでいた。
「まあ、座りなさい」
田尻にそう言われ、咲坂は渋々と腰を下ろした。
田尻も、咲坂の激しい感情の放出は想定外だったのかもしれない。
珍しく“やれやれ”という表情を見せ、ゆっくり語り始めた。
「咲坂君にとって、櫻井の行動が救いになっていることは全く問題はない。私はそれを否定するつもりもない……しかし」
「しかし?」
「問題は彼の能力の話ではない。関係性の話だ」
この言葉で、いままで田尻に前のめりに迫っていた咲坂が、急に怯んだ。
なぜ咲坂は怯んだのだ?
俺は、この咲坂の反応が気になった。
そして田尻は続けた。
「咲坂君。君はこのままでいいのか?」
咲坂は苦しそうに下を向いてしまった。
なぜ咲坂は下を向くのだ?
咲坂は何を知っているんだ?
俺は、何かを見落としているか?
咲坂は、しばらく下を向いて逡巡したあと、意を決したように言った。
「私がなんとかします」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥がひやりとした。
「それは違う」
田尻は、呆れたように小さく息を吐いた。
「でも……」
そこまで言うと、咲坂は悲しそうな表情を浮かべ、言葉を閉じてしまった。
しばしの沈黙。
田尻は矛先を俺に向けた。
「櫻井。この先は自分でよく考えろ」
田尻の言葉は、さっきの追及とは違った種類の厳しさだった。
「……は、はい」
俺は無感情で、ただそれだけ口にした。
今、俺だけ置いてけぼりにされている。
俺は、全く何を考えたらいいのか見当もつかない。
だから俺は、これ以上の返事はできなかった。
「櫻井。今のままでは、根本解決は難しいぞ」
田尻はそう付け加えた。
それを聞いた彼女は、ただ寂しそうに下を向いた。
咲坂は、間違いなく田尻とのやりとりで“ある結論”にたどり着いている。
しかし、俺にはついにその答えがなんなのか全く分からなかった。
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突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
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天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
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