咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

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俺は彼女のために怪物に接近する

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 咲坂の抱える問題――そろそろ、俺は踏み込まなければいけない。

 彼女の問題は、異常なまでに男の目を惹きつけてしまうということだ。

「異性にモテる」

 これだけなら祝福される言葉だろう。

 だが、度が過ぎれば、それは呪いに変わる。

 Kスタジオの空気は、「異性にモテる」という暢気な言葉の延長にあるものでは、決してない。

 男たちの、ねっとりとした視線。

 女たちの、剥き出しの敵意。

 そして――俺が彼女の隣に立ったときだけ放たれる、殺気にも似た空気。

 未成年の彼女が、あの場所で息をしていること自体が異常だ。

 俺なら、一日で逃げだす自信がある。

 だから、上條社長に言ったことがある。

「モデル、辞めればいいだろう?」と。

 もちろん、それは駆け引きの言葉だ。

 だが、火急の難を逃れるために「辞める」という一手は、取ったっていい。

 苦しむ咲坂を見れば、引き離してやりたくなる――それは人として自然な感情だ。

 けれど、それでは何も変わらない。

 原因は、彼女の中にある。

 そこに触れない限り、環境を変えても再発する。

 対処療法では、どうやっても限界がある。

 上條社長が東郷を使ってやった「ニセ恋人」――あんなのは延命措置にすぎない。

 俺が咲坂の彼氏を演じてマネジャー役をやるのだって、少しもやっていることは変わらない。

 こんなことを繰り返しても、根治には決して至らない。

 咲坂は、この異常事態の根本解決を自分だけでやろうとした。

 その過程で心理学を深く学んだ。

 しかし、彼女でさえ、自分の心の奥に潜む“核”には手が届かなかった。

 だからこそ、直感で俺に近づいたのだと思う。

 ――俺なら、たどり着けるかもしれないと。

 俺はその咲坂の期待を裏切る訳にはいかない。

 駅前のファミレスで「坂田」という女性と話した夜、

 俺はようやく“原因”の輪郭を掴んだ。

 けれど、そんな回り道をすべて飛ばして、一瞬で見抜いた男がいる。

 深層心理学者――田尻明彦。

 俺がK大学を選んだ理由は、ただ一つ。

 田尻の講義を聴くためだ。

 だから誰よりも田尻を知っているつもりだった。

 だが、彼は俺の想像のはるか遠くを行く存在だった。

 サークル説明会で見せた、あの超人的なプロファイリング。

 わずかな表情の揺らぎを拾い、俺の思考を正確に言い当てた。

 あの瞬間、背筋が冷えた。

「田尻は、エスパーなんじゃないか?」

 本気でそう思った。

 彼の洞察は“常識”の外にある。

 説明会のあと、田尻は咲坂に問題を伝えた。

 “わざわざ伝えた”ということは、“見過ごせなかった”ということだ。

 問題でないなら、誰だって他人の心の奥に踏み込んだりしない。

 それでも踏み込んだ。

 ――なら、希望はある。

 田尻は、咲坂を救おうとしている。

 それは間違いない。

 最も確実なのは、田尻に協力を仰ぐこと。

 今日は定例のサークルがある日だ。

 俺と咲坂は、五限の講義が終わってから、いつものようにA棟一階のカフェで待ち合わせた。

 最初こそ奇異の目で見られたが、何度か通ううちに周囲も気にしなくなった。

 俺はテーブルの上のカップを見つめながら、田尻への協力をどう切り出すか考えていた。

「咲坂……田尻を頼ろうと思う」

 そう言うと、咲坂の目の奥が、わずかに光を帯びた。

「私も、それがいいと思ってた」

 やはり同じ結論か。

「でも……いいのか?」

 俺は探るように咲坂の表情を見た。

「何が?」

 咲坂は小首をかしげた。

「田尻を頼るってことは……咲坂自身が、知らなくてもいい自分の闇に向き合うことになるかもしれない」

 当然わかっているとは思ったが、俺の口からも確認しておきたかった。

「分かってる。私だって深層心理学を学ぶ人間だし……それに」

 彼女は一度だけ目を伏せ、唇に小さく息を溜めた。

「それに?」

「一度、経験してるから……」

 そうだ。

 咲坂は少女の頃、自分の闇と向き合ったことがある。

 だからこそ、これから起こることの重さを、誰よりも分かっている。

 それでも、彼女は逃げなかった。

 その覚悟に、俺も腹を決めるしかなかった。

「無理はするなよ」

 そう言った咲坂は、ふっと微笑んだ。

 照れを隠すように頬がわずかに赤くなり、視線をそらしてすぐ戻す。

 その一瞬の目の揺れに、言葉よりも確かな想いが宿っていた。

「うん……分かってる」

「まあ、頼りにならんかもしれないが……辛い時は頼ってくれ」

「頼るよ。たくさん頼る。もう頼ってるし」

 咲坂は少し照れたように笑った。

 その笑みに、どこか安心と決意が入り混じっている気がした。

 サークル活動は、説明会が行われた研究棟の二階で開かれる。

 十人ほどが座れるテーブルが一つあるだけの、殺風景な部屋だ。

 ただ、隅のワゴンに置かれたポットと茶器のセットだけが、そこにわずかな温度を与えていた。

 小杉先輩は、いつも誰よりも早く来て、ひとりでコーヒーを淹れている。

 そして不思議なことに、他のメンバーが入ってくると、当たり前のように全員分を用意してくれる。

 その“似合わない優しさ”が、なんだか少し可笑しかった。

 森内はというと、自分が早く来ても絶対にコーヒーを淹れない。

 “私は日本茶党だから”と毎回言い訳しつつ、その横で小杉が淹れたコーヒーを、ちゃっかり飲む。

 だったらお茶、淹れろよ!

 いや、せめて一度くらい自分で淹れろ!

 ……と心の中で突っ込みながらも、二人のそんなやり取りを見ていると、どうにも笑ってしまう。

 あの妙なバランスが、この部屋を人間くさくしている。

 ちなみに俺と咲坂は、A棟でコーヒーを飲んでから来るのが常だが、ひとり待つ小杉先輩を前に「結構です」とは言いにくい。

 “次は俺も誘ってくれ”なんて言われたら、俺が困る。

 せっかくの咲坂との時間が減るなんて、冗談じゃない!!

 サークルが終わり、雑談がひと段落した頃――

 咲坂が、田尻に声をかけた。

「先生、少しお話しよろしいでしょうか?」

 これは事前に決めていた。

 最初の一声は咲坂が発する――その約束だ。

「例の件か?」

 田尻は、予想していたかのように、落ち着いた声で応じた。

「はい」

 咲坂は神妙にうなずいた。

 田尻は小杉先輩と森内に軽く目配せを送る。

 二人はすぐに席を立ち、部屋を後にした。

 普段は鈍いくせに、こういう時だけ妙に察しがいい。

 田尻は俺が同席していることを気にする様子もない。

 きっと、俺がすでにこの件に関わっていることを見抜いているのだろう。

 俺と咲坂は並んで椅子に座った。

 田尻は能面のような無表情のまま、じっとこちらを見据える。

 その目だけが異様に鋭く、心の奥底を覗き込むようだった。

 ――いよいよ始まる。

 これから起こることを予感して、俺は背筋が冷え、身体が震えた。
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