咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

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雪菜の想い

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私は会場の『親戚控室』で、一人にしてもらった。

*  *  *

彼はいつも、私のことを「咲坂」と呼んでいた……

本当は「雪菜」と呼んでほしかった。

名前で呼ばれたかったのに、その願いは胸の奥にしまい込んだまま、口に出せなかった。

それでも――

彼の声で呼ばれる「咲坂」という響きが、いつの間にか、とても大切な言葉になっていた。

彼に出会ってすぐの頃、一度だけ……「雪菜」と名前で呼ばれたことがある。

私が彼にはじめて LINE を送った時、少しだけ距離を縮めたくて「雪菜です」と書いて送った。

彼はすぐにそれを見透かして、「雪菜ちゃん」と……からかうように、けれどどこか照れた声音で言ってくれた。

その一言がくすぐったくて。

私は恥ずかしさに耐えきれず、わざと気づかないふりをしてしまった。

ハハ……

あの小さなやりとりを思いだしただけで、また視界が滲む。

昨晩から、いったい何度、大学時代の彼との思い出を辿っては、涙をこぼしただろう。

“ここ”に来てから私はずっと泣いてばかりいる。

彼のご両親だって、それどころではないはずなのに。

それでも私に気を遣ってくれて、この部屋で一人にしてくれた。

だから今、私は部屋に籠り、過去の記憶だけを抱きしめて──

一人きりで泣き続けている。

彼は、私がどれだけ「仮面」を被って自分を偽ろうとしても、あっさり見破ってしまう人だった。

偽った顔なんて、彼の前では意味をなさない。

びっくりするほど簡単に、私の本音を拾い上げてしまう。

仕事場で無理をして被っていた「仮面」も……

彼の前ではいつの間にか外れていた。

そして――

仮面の下にある私が醜と思い込んでいた本当の自分をどれだけ曝け出しても……

彼はそれを当たり前のように受け入れてくれた。

それが、何よりも嬉しかった。

だからこそ……

私は彼に会って、すぐに――どうしようもなく、彼のことが好きになってしまった。

彼にはじめて会ったのは、最初の田尻先生の講義だった。

彼は、そっと気配を消すように三列目に座っていた。

田尻先生の講義を心待ちにする生徒なんていない――

そう思いこんでいた私の前で、彼だけは目を輝かせて講義を待っていた。

その横顔を見た瞬間、胸の奥がひどくざわついた。

無邪気で、まっすぐな目。

たぶん、あの時すでに……私は彼に魅かれていた。

だから私は、偶然を装って彼の隣に座った。

本当は、ただ隣がいい――それだけだったのに。

これが、彼との最初の出会い。

*  *  *

彼は、いつも私の考えを読み取ってしまう人だった。

だから私の”彼への想い”なんて、とっくに気づかれていると思っていた。

私の彼を想う気持ちばかりが先に走って……空回りして……

不安ばかり大きくなっていった。

さらに彼は、なぜか周りの女性から好意を寄せられてしまう。

近寄りがたい存在の上條社長でさえ、初対面で彼を気に入り……MISAKIだって、彼を意識していた。

だから――

彼が告白してくれた瞬間、胸が張り裂けそうなほど嬉しかった。

嬉しすぎて、思わず泣き出してしまったけれど。

それでも私ばかりが好きすぎて悔しかったから、強がってしまった。

「知ってた」

なんて。

本当はまったく確信がもてなくて、ずっと怖かったくせに。

……ああ、ダメだ。

また涙がにじむ。

もう時間だ。

そろそろ、この部屋を出なければならない。

その時だった。

父が、遠慮がちにドアを少しだけ開けて入ってきた。

私の泣きはらした顔を見た瞬間……父の表情が崩れる。

「お父さん、そんな顔しないで……」

「お前のそんな顔見たら……」

そこで父は言葉を失い、堪えきれずに涙を落とした。

「咲坂」

彼の口からそう呼ばれることはもうない──

父と部屋を出ると、会場にいた人たちが静かにこちらを見た。

私の泣きはらした顔に、反射するように涙をぬぐう人もいた。

彼は「友だちは少ないよ」と言っていたのに、多くの人が集まっていた。

私はゆっくりと、彼の“いる場所”へ向かった。

彼がいた。

穏やかな表情のまま、動かない。

ただ、閉じた唇だけが静かにそこにあった。

その唇を見て、また胸が熱くなり、涙があふれた。

その涙は……ただただ止まらずに、落ちていた。

ふいに、ほんのわずかに気配が動いた。

閉じられていた唇が、かすかに開く。

薄い呼吸のような、声のような……

その境目にあるような音で、

「……咲坂?」
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