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最終話~咲坂 SAKISAKA~
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「咲坂、泣きすぎ」
涙があふれ続けている彼女を見たら、ついそう突っ込んでしまった。
「咲坂? もうそう呼ばないって約束した」
「ああっと……そうだったな」
思わず俺は頭をかいた。
「そうよ? 今日からは雪菜でしょ?」
彼女は大げさにむくれたフリをした。
「まあ、そうなんだけど。ずっと“咲坂”って呼んでたからなあ……。いまさら“雪菜”は違和感あるんだって。それに俺、“さきさか”って響き、結構好きなんだよ」
本当なら――俺が信じて疑わない世界一美しい咲坂の笑顔を誇らしく見せてやりたかった。
けれど彼女は、父親と腕を組んで歩くその途中で、感情に溢れてしまったらしく、すでに涙で顔が崩れてしまった。
ほんとに、泣きすぎなんだよ。
いつからだろうか?
こんなに素直に泣けるようになったのは。
おそらく幼い頃、つまり男性恐怖症になる前の咲坂は、きっともっと感性がまっすぐで、よく笑ってよく泣く子だったのだろうと思う。
だが、闇を隠すために彼女は長い時間“仮面”を被り続けた。
だから世間の咲坂像は「感情を見せないクールな女」で固まっていた。
でも、付き合ってからの咲坂は変わっていった。
よく笑うし、よく泣く。
今日の大泣きは、まさにその象徴みたいなものだ。
ああ……ようやくここまで来たんだな、と俺は思う。
これが闇を背負う前の、本来の彼女だ。
俺はその変化をずっと見てきたからなんの違和感も感じないが、仮面の時代しか知らない人にとっては、今日の咲坂はまったく別人に見えるはずだ。
それでも……
こんなふうに泣きじゃくる彼女を見ると、どうしても「あの時」の記憶が蘇る。
あの日。
おそらく彼女が人生で一番泣いた日。
俺が咲坂に告白した、その翌日だ。
あの日……俺は恐らく生物学的にはすでに死んでいたのだと思う。
しかし咲坂を想う、その想いだけで、俺はすれすれのところでこちらの世界に戻ってくることができた。
こちらの世界に微かに繋がっていた細い糸を、田尻と坂田さんと……そして何よりもこの咲坂が……慎重に、必死に手繰り寄せてくれた。
俺はKスタジオで野本にナイフで刺され、意識を失ってから……ずっと夢を見ていた。
いつか見た夢と同じように……咲坂が泣いていた。
夢の中で俺は……咲坂の泣き顔を見て、また悲しくなったのを覚えている。
ようやく彼女に踏み込んで告白したのに……なんで笑ってくれないんだ?
それがもどかしくてしかたがなかった。
「笑えよ……咲坂」
俺は泣いている咲坂に、何度もそう叫んでいた記憶がある。
ただ今思えば、あの曖昧な夢の記憶とは明らかに性質の違う“出来事”が、このあと俺の身に起こっていた。
「今からお前にコーマワークを見せてやる」
夢の中で田尻が突然現れ、前置きなしにとんでもないことを口にしたときから「その体験」は始まった。
「コーマワーク……? いきなりなんなんですか?」
夢なのに、妙に意識ははっきりしていた。
だから突然の田尻の提案に驚くだけの感情があった。
この時はやけに田尻の声はクリヤーに聞こえた。
「お前はもっと深い学びが欲しいといっていたから、それを今叶えてやる」
田尻はいつも通りだった。
表情も変えずに淡々とそう説明した。
「でも見せてやるといっても肝心の昏睡状態のクライアントがいないですよ?」
俺は至極当たり前の質問をした。
「櫻井。お前はまだ分からんのか?」
田尻の眼差しが、ゆっくりとこちらを射抜いて、続けた。
「櫻井。クライアントは――お前自身だ」
胸に冷たいものが落ちた。
「俺……?」
確かに俺は何か重大なことを忘れている気がした。
でもどうしても思い出せない。
「それを詮索する必要はない」
相変わらず田尻は俺の思考を読んでから、先回りした一言を放った。
何かがおかしい……呼吸がじわりと苦しくなってきた。
田尻は、ゆっくり視線を横へ移した。
そこには、誰もいないはずの空間にぼんやりと人型のシルエットが浮かんだ。
「誰だ? 誰かいるのか?」
俺は心がざわざわと乱されていくのを感じていた。
「落ち着け櫻井。咲坂君だ」
「咲坂……? なんで……咲坂が?」
クリヤーだった思考が、混沌へと呑まれていくような感覚に引き込まれた。
咲坂の名前を聞いてこの上ない不安を感じる。
なんだ?
この不安は?
「咲坂君を呼んだのは、彼女にコーマワークをやってもらうからだ。」
「はあ?」
俺は田尻のあまりふざけた言葉で、奇妙に冷静に戻されてしまった。
後から思えば咲坂を起用したのも俺の極めて不安定に揺れている心をつなぎとめる田尻の戦略の一つだったのかもしれない。
「咲坂がコーマワークだって? ちょっと待ってください。 田尻先生? もしかして咲坂だけ贔屓してこっそり教えてたとか?!」
この時の俺はいつの間にか気持ちの悪い空気感を抜け出して、いつも通りの軽口をたたいていた。
「義人? 私はミンデルの原典だって読んでるんだよ? できて当然でしょ?」
不意に現れた咲坂も、いつも通りに冗談交じりに返してきた。
「そうなのか? でもなんで俺がクライアントとか?」
俺が同じく軽い調子でそう返したが、少しだけ咲坂の表情に影が差した。
「しょうがないでしょ? 義人が起きてくれないんだから」
俺は何かを突き付けられた気がしてドキリとした。
俺が起きてくれない?
なんだ、それ……?
何かを思い出せそうだが、分からない。
ただ、一つだけ違和感に気づくことができた。
咲坂が泣いていない……なんで?
何かが噛み合わない。
何かが狂っている。
俺が起きてくれない?
俺はこの通り普通に——
な、なんだ……?
胸の奥に冷たい指が触れるような違和感。
呼吸が……苦し……
「櫻井、もう始まってる。咲坂君の声に集中しろ」
田尻の声が鋭く脳内に響いた。
「義人。落ち着いて私に全てを預けて」
咲坂?
咲坂なのか?
呼吸が苦しい。
「義人!!! 見なさいよ! 私を見なさいよ!! もっと……もっと……私のことを!!」
突然の咲坂の叫びが、まるで直に脳へ打ち込まれた楔のように響き渡った。
何が起こっている……?
咲坂は“見ろ”と言っているのか?
いや、俺はいつでもお前を見ているぞ。
見つづけると決めたんだ。
そうだ!
俺は咲坂を永遠に見続けなければいけないんだ!
ようやくそのことを思い出した瞬間だった。
「私を見なさいよ!!」
その声が深い闇を裂いた。
——見える。
うっすらと、淡く、輪郭だけが光を帯びて立ち上がる。
夢の中の彼女ではない。
本当のお前の顔が——
なんだ、まだ泣いているのかよ。
……だめだよ……笑えよ。
……咲坂……笑えよ?
……咲坂……笑えよ?
……咲坂……笑えよ?
なぜ伝わらない?
なぜ俺の声は届かないんだ?
俺は、それが悲しくて仕方がなかった。
……咲坂……笑えよ?
……咲坂……笑えよ?
それでも俺は、ただ必死にそう言い続けた。
──どれくらい時間がたったのだろうか。
気づけば、まわりが妙に静かだった。
なんだ、この静寂は……。
咲坂はまだいるのか?
そう思って、もう一度その姿を探す。
光が、見えた。
その光の先に——
まだ咲坂が立っていた。
そして彼女は——笑っていた。
何も言わず、ただ優しい笑顔で俺を見つめていた。
その笑顔はあまりに美しくて、まばゆい光に包まれているように見えた。
俺は咲坂の笑顔を見て、ようやく安心した。
ああ、これで大丈夫だ——。
俺は緊張の糸が切れ、そのまま意識の底に沈みかけた。
しかしその刹那——
俺を呼ぶ彼女の声が、全身を貫いた。
「義人!!! はやく……はやく戻って来てよ!!!」
その声だけが、深い闇の底へ沈んでいく意識の端を掴んで離さない。
そして——眠りに沈みかけた俺を、強引に引き上げた。
突然、気管がひらく。
胸の奥へ冷たい空気が流れ込み、肺が痛むほどに膨らんだ。
それは生々しいまでの「呼吸する」感覚だった。
大量に吸い込んだ空気を一気に吐き出したとき、
俺は、自分でも信じられないほどの声量で叫んでいた。
「SA・KI・SA・KA!!!」
…… …… ……
あとで田尻に聞いた話だ。
咲坂は、俺の死に際の身体にコーマワークを施していた。
俺がかすかに動かした唇を読み取り、
俺がその瞬間もっとも必要としていた“答え”——
あの笑顔へ導いたのだと。
田尻ですら辿り着けなかった結論だ。
咲坂は今でも、その話を誇らしげに語る。
咲坂らしい。
いつも、肝心なところで俺を追い越していく。
あの瞬間、咲坂が見せた「笑顔」。
あれがなければ、俺はこの世界に戻ってこられなかった。
その後、集中治療室は大騒ぎになったらしい。
担当医が申し訳なさそうに説明してくれたが……要領は得なかった。
医学的には「奇跡」だとかなんとか。
結局、俺が生還できた決定的な理由は、やはり“心”だと思う。
心理学を志す者としても——そう信じていないといけないのだろう。
なにより俺は、心によって生かされたのだから。
さっき式に来てくれた田尻と坂田さんと少し話をした。
もう咲坂に「闇」の影は見えない、と。
咲坂がかつて背負っていた影が完全に消える時。
それは——俺と彼女が永遠を誓った瞬間だと、田尻は言っていた。
つまり——今日、それが叶ったのだ。
咲坂の闇は、完全に消滅した。
長い、長い道のりだった。
咲坂雪菜。
彼女は今日から『櫻井雪菜』になる。
だから俺は、彼女を“咲坂”と呼ばない約束をしていた。
さっきつい呼んでしまったが、あれが最後のつもりだった。
「咲坂」という響きに宿る、数えきれない青春の記憶。
笑顔、涙、すれ違い、そして救われた日々。
今日——その名前を卒業する。
これから歩むのは、「櫻井雪菜」との新しい人生だ。
でも。
どうしても、一度だけ。
君との青春を胸にしまうために。
最後にもう一度だけ——呼ばせてほしい。
本当に、これが最後だ。
「そんな泣き続けてると……式が進行できないだろ?
せっかく俺とお前の新しい門出なんだ……」
「だからさ——」
「笑えよ……」
「咲坂」
涙があふれ続けている彼女を見たら、ついそう突っ込んでしまった。
「咲坂? もうそう呼ばないって約束した」
「ああっと……そうだったな」
思わず俺は頭をかいた。
「そうよ? 今日からは雪菜でしょ?」
彼女は大げさにむくれたフリをした。
「まあ、そうなんだけど。ずっと“咲坂”って呼んでたからなあ……。いまさら“雪菜”は違和感あるんだって。それに俺、“さきさか”って響き、結構好きなんだよ」
本当なら――俺が信じて疑わない世界一美しい咲坂の笑顔を誇らしく見せてやりたかった。
けれど彼女は、父親と腕を組んで歩くその途中で、感情に溢れてしまったらしく、すでに涙で顔が崩れてしまった。
ほんとに、泣きすぎなんだよ。
いつからだろうか?
こんなに素直に泣けるようになったのは。
おそらく幼い頃、つまり男性恐怖症になる前の咲坂は、きっともっと感性がまっすぐで、よく笑ってよく泣く子だったのだろうと思う。
だが、闇を隠すために彼女は長い時間“仮面”を被り続けた。
だから世間の咲坂像は「感情を見せないクールな女」で固まっていた。
でも、付き合ってからの咲坂は変わっていった。
よく笑うし、よく泣く。
今日の大泣きは、まさにその象徴みたいなものだ。
ああ……ようやくここまで来たんだな、と俺は思う。
これが闇を背負う前の、本来の彼女だ。
俺はその変化をずっと見てきたからなんの違和感も感じないが、仮面の時代しか知らない人にとっては、今日の咲坂はまったく別人に見えるはずだ。
それでも……
こんなふうに泣きじゃくる彼女を見ると、どうしても「あの時」の記憶が蘇る。
あの日。
おそらく彼女が人生で一番泣いた日。
俺が咲坂に告白した、その翌日だ。
あの日……俺は恐らく生物学的にはすでに死んでいたのだと思う。
しかし咲坂を想う、その想いだけで、俺はすれすれのところでこちらの世界に戻ってくることができた。
こちらの世界に微かに繋がっていた細い糸を、田尻と坂田さんと……そして何よりもこの咲坂が……慎重に、必死に手繰り寄せてくれた。
俺はKスタジオで野本にナイフで刺され、意識を失ってから……ずっと夢を見ていた。
いつか見た夢と同じように……咲坂が泣いていた。
夢の中で俺は……咲坂の泣き顔を見て、また悲しくなったのを覚えている。
ようやく彼女に踏み込んで告白したのに……なんで笑ってくれないんだ?
それがもどかしくてしかたがなかった。
「笑えよ……咲坂」
俺は泣いている咲坂に、何度もそう叫んでいた記憶がある。
ただ今思えば、あの曖昧な夢の記憶とは明らかに性質の違う“出来事”が、このあと俺の身に起こっていた。
「今からお前にコーマワークを見せてやる」
夢の中で田尻が突然現れ、前置きなしにとんでもないことを口にしたときから「その体験」は始まった。
「コーマワーク……? いきなりなんなんですか?」
夢なのに、妙に意識ははっきりしていた。
だから突然の田尻の提案に驚くだけの感情があった。
この時はやけに田尻の声はクリヤーに聞こえた。
「お前はもっと深い学びが欲しいといっていたから、それを今叶えてやる」
田尻はいつも通りだった。
表情も変えずに淡々とそう説明した。
「でも見せてやるといっても肝心の昏睡状態のクライアントがいないですよ?」
俺は至極当たり前の質問をした。
「櫻井。お前はまだ分からんのか?」
田尻の眼差しが、ゆっくりとこちらを射抜いて、続けた。
「櫻井。クライアントは――お前自身だ」
胸に冷たいものが落ちた。
「俺……?」
確かに俺は何か重大なことを忘れている気がした。
でもどうしても思い出せない。
「それを詮索する必要はない」
相変わらず田尻は俺の思考を読んでから、先回りした一言を放った。
何かがおかしい……呼吸がじわりと苦しくなってきた。
田尻は、ゆっくり視線を横へ移した。
そこには、誰もいないはずの空間にぼんやりと人型のシルエットが浮かんだ。
「誰だ? 誰かいるのか?」
俺は心がざわざわと乱されていくのを感じていた。
「落ち着け櫻井。咲坂君だ」
「咲坂……? なんで……咲坂が?」
クリヤーだった思考が、混沌へと呑まれていくような感覚に引き込まれた。
咲坂の名前を聞いてこの上ない不安を感じる。
なんだ?
この不安は?
「咲坂君を呼んだのは、彼女にコーマワークをやってもらうからだ。」
「はあ?」
俺は田尻のあまりふざけた言葉で、奇妙に冷静に戻されてしまった。
後から思えば咲坂を起用したのも俺の極めて不安定に揺れている心をつなぎとめる田尻の戦略の一つだったのかもしれない。
「咲坂がコーマワークだって? ちょっと待ってください。 田尻先生? もしかして咲坂だけ贔屓してこっそり教えてたとか?!」
この時の俺はいつの間にか気持ちの悪い空気感を抜け出して、いつも通りの軽口をたたいていた。
「義人? 私はミンデルの原典だって読んでるんだよ? できて当然でしょ?」
不意に現れた咲坂も、いつも通りに冗談交じりに返してきた。
「そうなのか? でもなんで俺がクライアントとか?」
俺が同じく軽い調子でそう返したが、少しだけ咲坂の表情に影が差した。
「しょうがないでしょ? 義人が起きてくれないんだから」
俺は何かを突き付けられた気がしてドキリとした。
俺が起きてくれない?
なんだ、それ……?
何かを思い出せそうだが、分からない。
ただ、一つだけ違和感に気づくことができた。
咲坂が泣いていない……なんで?
何かが噛み合わない。
何かが狂っている。
俺が起きてくれない?
俺はこの通り普通に——
な、なんだ……?
胸の奥に冷たい指が触れるような違和感。
呼吸が……苦し……
「櫻井、もう始まってる。咲坂君の声に集中しろ」
田尻の声が鋭く脳内に響いた。
「義人。落ち着いて私に全てを預けて」
咲坂?
咲坂なのか?
呼吸が苦しい。
「義人!!! 見なさいよ! 私を見なさいよ!! もっと……もっと……私のことを!!」
突然の咲坂の叫びが、まるで直に脳へ打ち込まれた楔のように響き渡った。
何が起こっている……?
咲坂は“見ろ”と言っているのか?
いや、俺はいつでもお前を見ているぞ。
見つづけると決めたんだ。
そうだ!
俺は咲坂を永遠に見続けなければいけないんだ!
ようやくそのことを思い出した瞬間だった。
「私を見なさいよ!!」
その声が深い闇を裂いた。
——見える。
うっすらと、淡く、輪郭だけが光を帯びて立ち上がる。
夢の中の彼女ではない。
本当のお前の顔が——
なんだ、まだ泣いているのかよ。
……だめだよ……笑えよ。
……咲坂……笑えよ?
……咲坂……笑えよ?
……咲坂……笑えよ?
なぜ伝わらない?
なぜ俺の声は届かないんだ?
俺は、それが悲しくて仕方がなかった。
……咲坂……笑えよ?
……咲坂……笑えよ?
それでも俺は、ただ必死にそう言い続けた。
──どれくらい時間がたったのだろうか。
気づけば、まわりが妙に静かだった。
なんだ、この静寂は……。
咲坂はまだいるのか?
そう思って、もう一度その姿を探す。
光が、見えた。
その光の先に——
まだ咲坂が立っていた。
そして彼女は——笑っていた。
何も言わず、ただ優しい笑顔で俺を見つめていた。
その笑顔はあまりに美しくて、まばゆい光に包まれているように見えた。
俺は咲坂の笑顔を見て、ようやく安心した。
ああ、これで大丈夫だ——。
俺は緊張の糸が切れ、そのまま意識の底に沈みかけた。
しかしその刹那——
俺を呼ぶ彼女の声が、全身を貫いた。
「義人!!! はやく……はやく戻って来てよ!!!」
その声だけが、深い闇の底へ沈んでいく意識の端を掴んで離さない。
そして——眠りに沈みかけた俺を、強引に引き上げた。
突然、気管がひらく。
胸の奥へ冷たい空気が流れ込み、肺が痛むほどに膨らんだ。
それは生々しいまでの「呼吸する」感覚だった。
大量に吸い込んだ空気を一気に吐き出したとき、
俺は、自分でも信じられないほどの声量で叫んでいた。
「SA・KI・SA・KA!!!」
…… …… ……
あとで田尻に聞いた話だ。
咲坂は、俺の死に際の身体にコーマワークを施していた。
俺がかすかに動かした唇を読み取り、
俺がその瞬間もっとも必要としていた“答え”——
あの笑顔へ導いたのだと。
田尻ですら辿り着けなかった結論だ。
咲坂は今でも、その話を誇らしげに語る。
咲坂らしい。
いつも、肝心なところで俺を追い越していく。
あの瞬間、咲坂が見せた「笑顔」。
あれがなければ、俺はこの世界に戻ってこられなかった。
その後、集中治療室は大騒ぎになったらしい。
担当医が申し訳なさそうに説明してくれたが……要領は得なかった。
医学的には「奇跡」だとかなんとか。
結局、俺が生還できた決定的な理由は、やはり“心”だと思う。
心理学を志す者としても——そう信じていないといけないのだろう。
なにより俺は、心によって生かされたのだから。
さっき式に来てくれた田尻と坂田さんと少し話をした。
もう咲坂に「闇」の影は見えない、と。
咲坂がかつて背負っていた影が完全に消える時。
それは——俺と彼女が永遠を誓った瞬間だと、田尻は言っていた。
つまり——今日、それが叶ったのだ。
咲坂の闇は、完全に消滅した。
長い、長い道のりだった。
咲坂雪菜。
彼女は今日から『櫻井雪菜』になる。
だから俺は、彼女を“咲坂”と呼ばない約束をしていた。
さっきつい呼んでしまったが、あれが最後のつもりだった。
「咲坂」という響きに宿る、数えきれない青春の記憶。
笑顔、涙、すれ違い、そして救われた日々。
今日——その名前を卒業する。
これから歩むのは、「櫻井雪菜」との新しい人生だ。
でも。
どうしても、一度だけ。
君との青春を胸にしまうために。
最後にもう一度だけ——呼ばせてほしい。
本当に、これが最後だ。
「そんな泣き続けてると……式が進行できないだろ?
せっかく俺とお前の新しい門出なんだ……」
「だからさ——」
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