夜に浮かぶ

帷 暁(Persona Mania)

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1章 オフィス

居残り

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 カタカタとキーボードを打ち付ける音が響く。
 時刻は夜の9時を回った。
 オフィスには薄灯りが灯る。
 灯を制限するのは節電のため。
 誰もいなくなったオフィスは、平素より仕事が捗る。うるさいパート社員や椅子に踏ん反り返っている上司もいない。ただ、途方もない仕事だけが目の前にある。それだけ。
 自分でも馬鹿だと思う。
 適当にやればいいのだ。
 半ば意地になっている。
 それでも、この劣悪な環境で負けたくはなかった。他でもない、自分に。

 カタン。

 物音がして、反射的にオフィスの出入り口を見る。
 いつの間に人が?パソコンの画面に集中しすぎていた。人の気配には敏感な方なのに気付かなかった。

 「あれ?まだいたの?」

 へらり、笑ってこちらに近づく。
 コツン、コツン、と革靴が乾いた音を立てた。
 佐良睦月サガラムツキは、人の良い笑みを浮かべたまま、横まで来ると画面を覗き込む。
 ふわりと香るアルコールの匂い。

 「飲み会ですか?」

 別に咎めるつもりはない。
 咎める権利もない。
 彼は自分の上司にあたる人物だ。ただ、単純にアルコールに反応しただけで他意はない。

 「あ、臭う?」

 対して気にした様子はない。
 あまり、周囲を気にしない性格だからだ。この程度はなんとも思わないのだろう。

 「少し。別に気になりませんけど」
 「あ、そう。ていうかさ、今、何やってるの?」

 パソコンの画面にぐいと顔を寄せる。
 アルコールが強く香る。
 もう少し離れて欲しい。
 この距離は普通セクハラと言われかねない。

 「アンケートです。今月、集計する分の」

 倒置法でポツリ、ポツリと答える。
 佐良は目が悪いのか、画面に近づいたままだ。
 椅子を少し横にずらそうか。そうすれば少しはスペースがとれる。けれど、隣には書類の束。忌々しいことに、数時間前に自ら積んだ資料だ。
 パーソナルスペースという言葉を何処かに置き忘れてきたのだろうか、この男は。
 別に、嫌というわけじゃないけれど。

 「こんなん、やらせれば?」

 満足したのか、画面から離れて机上のアンケート用紙をパラパラと捲る。
 やらせる、の相手が誰かは聞かないが分かる。それが出来ない理由は、彼には伝わらないけれど。
 だから、無言でいた。
 どう答えようか、考えていた。
 この手の話には既にウンザリしていたし、どうやっても理解は得られそうにない。
 こう言うのは、空気とか、そういう掴めない部分の話だ。
 人間関係の縺れがなければ、仕事は随分と楽なのに。

 「まあ、難しいのは分かる」

 無言に耐えかねたのか、佐良が困ったように言う。
 こうは言っても、佐良という男は面倒ごとが大嫌いだ。特にこういう人間関係のあれやこれやは苦手だろう。彼が良く言う言葉は「うまくやって」だ。
 そんなこと、出来ればとうにやっている。
 だから、どんな言葉を選んで伝えたとしても、この問題は解決しない。
 故に無言を決め込む結果になる。

 「ほどほどにして帰れよ」

 佐良は自身のデスクに置き忘れたらしい手帳を手にした。それをジャケットの内ポケットにしまう。小さな手帳だ。それはすっぽりと内ポケットに身を潜めた。

 「はい、お疲れ様です」

 はやく一人きりのオフィスに戻りたい。
 だから無理矢理微笑んでみる。
 上手く笑えただろうか。

 「体が一番大事だよ」

 やはり少し困ったように笑った佐良は、お疲れ、と挨拶してオフィスを去って行った。
 遠のいていく革靴の音に安堵する。
 同時に少しの侘しさが胸をざわつかせた。
 アンケートの上に顔を伏せる。
 パサリ、と数枚が床に散らばる。
 あと2時間くらいだろうか。
 仕事をしていれば、忘れるはずだ。
 ざわつく感情を必死で飲み込む。
 オフィスの窓ガラスには、街の明かりが煌めいている。
 煌びやかな街に似つかわしくない。
 実に、不似合いだ。

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