青空の彼方にて

鈴原りんと

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第三章:青空のその向こうへ

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「北原、その曲弾いてみなよ」
「え?」
「楽譜読めないって言ったけどさ、もしかしたら弾けるかもしれない。その名前を見て新しいこと思い出したんだし、その人が書いた曲なら、重要なものかもしれない」

 名前の書き方と、楽譜に所々書いてあるメモは同じ筆跡に見えた。しかも、吹奏楽部が自身の演奏のために書くメモとは違う。
 明らかにそれは、作曲者のメモだった。音階の修正や、テンポについて書かれているそれは、奏者側がメモを取ることではないだろう。音楽の知識が皆無の俺には、細かいことは分からないけれど。

「……思い出したら、アタシはどうなるかな」
「怖い?」
「少しだけね。秘密って知りたくてたまらないものだし、手に入れるまでの過程はめちゃくちゃ楽しいんだよ。でもさ、その秘密をいざ知った時、自分が自分でなくなるかもしれないなぁって考えたら、ちょっと躊躇しちゃうっていうかさ」
「あぁ、俺も分かる。知らないことを知るって意外と怖いよね」
「うん。だけど、知りたいっていう感情は止められないんだよな。真実を受け止める勇気がある者が何とかって試すようなこと書いてあったけど、アタシは勇気ある者に絶対なるからさ」

 ニカリと歯を見せて元気よく笑うと、北原は楽譜を楽譜台に置く。たった一枚の紙に書かれた夥しいほどの旋律を、彼女は今から初見で弾いてみせるのだ。

「……なんだか、懐かしい音」

 北原がぽつりとそう呟くと、最初の一音が音楽室にふわりと浮かんだ。一音の余韻に浸っている間もなく、五線譜に書かれたメロディが次々と形になって朝の校内を踊るように駆けていく。
 卒業式とかで流れていそうな、切ないけれど前向きになれるような温かいメロディだった。優しく背中を押してくれるような、春の日差しみたいだった。旅立ちと新たな出会い。桜並木を抜けた先で待っている輝かしい未来が、手招いているような気がする。これに似たような音楽を、どこかで聞いたような気がした。テレビでだったか、実際に直接聞いたかは分からない。有名なピアニストが弾いていた――作曲していた曲にそっくりだ。
 それもこれも気のせいかもしれないが、この魂を揺さぶるような旋律を、以前聞いた気がしてならない。もっとも、大切な記憶とやらに関連している気は全くないけれど。

 俺は、心に直接語り掛けてくるようなメロディと演奏をただひたすらに聞いていた。必死にピアノを弾く北原の顔は、様々な感情が入り混じっているように見えて、どんな気持ちなのか全く想像できなかった。
 その演奏には、北原の魂が込められていた。確かに、強い思いの乗った演奏だった。
 感情を爆発させた音は、こんなにも俺の心に激しく語り掛けてくるのに、旋律は驚くほど優しくて、迷いや不安といった感情を全て洗い流してくれるかのようだ。羽のように柔らかくて、母親の腕に抱かれているかのような、そんな優しい感覚がこの空間ごと包み込んでいく。誰もが、温かな気持ちに飲まれて穏やかな気持ちになるに違いない。

 ねぇ、北原。
 君は今、どんな気持ちでこの曲を弾いているの?
 
 いつの間にか演奏は終わり、代わりに誰かのすすり泣く声が聞こえた。俺は演奏が終わったことを遅れて認識し、静かに拍手を送った。

「……繋」

 涙声の北原が、ピアノに視線を落としたまま俺を呼んだ。

「アタシさ、憧れの人がいたんだ」

 北原はそう言うと、置いてあった楽譜を手に取って抱きしめた。小さな子供がお気に入りのぬいぐるみを抱きしめている時みたいだった。

「幼い頃からずっとピアノやってたから、必然と憧れはピアニストだったよ。有名な人でね、実力があって人望も厚い、おまけに優しくてカッコイイから、ピアノ界隈では名前を知らない人がいないくらいの人だった」

 北原が楽譜を抱きしめたまま、ゆっくりと振り返る。
 その顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。目元は赤く、透明な涙が頬を伝っていく。それでも、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。

「アタシ、あの人と一緒にピアノが弾きたかったんだ。ずっと、昔からそう思ってた」

 北原がそう言って、涙を流しながら笑った。

「……それが、北原の大切な記憶?」
「きっとそう。あずが言ってたみたいに、温かい気分だから。こんなに簡単に思い出せたんだって驚いてるけど、今すごく幸せな気分だ」
「良かった。大切なことを思い出せて……」
「うん。その夢は叶わなかったけど、思い出せただけでも幸せだな」

 北原は腕でゴシゴシと涙を拭う。俺がそっとハンカチを差し出せば、北原は照れくさそうに笑ってハンカチを受け取った。

「……この夢、叶えたかったな」
「今からでも遅くないんじゃない?」
「え? あー……うん」

 俺が言えば、北原が曖昧な返事をした。歯切れの悪い様子に首を傾げると、北原が窓の外を一瞥した。

「なんか、もう叶えられないって気がしたんだ。その人が今どこで何をしてるかは知らないけど、なんとなく無理だって気がした。失踪したとかじゃなくて、むしろアタシ自身の問題で無理かなぁって……特に理由はないけど思った」
「そうなの? 北原ならできると思うけどなぁ」
「アタシも今からでも当時の感覚を取り戻せばいけるってハッキリ言いたいけど、なんか変な感じ。ま、思い出せたからいいか」

 楽譜に刻まれた名前をもう一度しっかり見つめると、北原はふと優しい微笑を零した。

「……いつか、叶うといいね」

 遠くを見つめる北原の横顔にそう呟いてみれば、「そうだな」と白い歯を見せて彼女は破顔した。

「繋は、何か思い出した?」
「……いや、あんまり」
「そっか。でも繋なら絶対思い出せるさ」

 北原は俺の肩に手を置き、励ましてくれた。
 正直、ほぼ思い出していると言えば思い出している。ただ、俺にとって大切な記憶が一体何なのか、それが曖昧だ。
 死んでいるという確証もない事実のことなのか、病院で誰かと話したあの夢なのか。
 どちらにせよ、自分には身の覚えのないことで不思議な気持ちだ。早く記憶を取り戻して、行くべき世界とやらに行ってみたい気持ちもあるが、俺にはたぶんあずや北原が記憶を取り戻すきっかけとなったようなアイテムが存在していない。
 たぶん、どこかにはあるのだろうけど。

「何かあったら協力するからな。そして、皆でこの世界を抜け出してやろうね」

 北原が気を引き締めるように拳を突き出してきた。
 そうだ。俺達はこの世界を飛び出して、まだ見ぬ世界へと行きたいのだ。俺達の仮説が正しければ、この世界に留まるのは危険だ。一刻も早く、外へと踏み出したい。

「うん。絶対、皆でね」

 俺は微笑んでその拳に自らの拳をコツンと重ねた。音のない何かが波紋のように広がって、遠くまで駆けていく。外の世界へ行くという約束が、朝の校内に響いていった。
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