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束の間の幸せと凌駕する絶望 2
しおりを挟むそれでも脳天から落ちるような壮絶な出来事に、足元がふらつきトレイが揺れる。
イリエははっとなり、近くの人がいないカウンターに移動して何とか飲み物を溢さずにトレイを置いた。
脳内が絶望と悲鳴で埋め尽くされ、今見た光景がこびり付いて離れない。
震える喉を手で押さえながらイリエは何度も何度も深呼吸を繰り返す。
頭の中を暴走する感情を渾身の力で押さえ込むようにイリエがぐぐっと瞼を閉じた。
(落ち着いて、…落ち着いてったら!……その時が、…今、…今訪れただけ。前から変わらないことなの!)
未だに荒れ狂う醜い感情を何度も何度も咎めて責め続け、脳内に大好きな大好きな人を思い浮かべる。
(彼に…彼に迷惑を、かけない為、には……私が最後に出来ることは、……)
目の裏がどうしようもなく熱くなるが、絶対にそんな身勝手なものを溢してなるものかとイリエは全身全霊を込めてきつく目を閉じる。
(…今まで幸せな時間をくれた彼に、私が出来ることは……今のことを知らないフリをして、いつも通りに接して潔く去ること)
それを何度も何度も頭の中で反芻し、自分に暗示をかけていく。
今まで培った接客の術を、今ここで使わずに、何時使う。
暴れる下劣で卑しい感情を少しずつ奥に押し込め重しを乗せ、ようやく呼吸が安定してくる。
ゆっくりと瞼を上げたイリエは肩を少し上げてからすとんと息を吐く。
トレイを持ち直し、ゆっくりとフェリウスの方に歩いて行くと、ちょうど相手の女性が微笑み手を振りながら老紳士と共に去っていくところだった。
再度嫌な音を立てる心臓を完全無視しながら、そっとフェリウスの死角に移動して再度呼吸を整え、イリエはここ一番の『接客モード』に切り替えた。
イリエに気づいたフェリウスははっと気づき、珍しく動揺を隠せないようだ。
それだけで心が四方八方から鋭利に刻まれる。
「お待たせしました。ちょうど混み始めて思ったより時間がかかってしまって」
「…あ、ああ」
イリエはフェリウスのどもった声に対し噯気にも出さず、向かい側に腰掛けてコーヒーを彼の前に置いた。
「そう言えばもうお昼時ですけど、何か軽食を購入しておかなくて良かったですか?」
「ああ、…商店街のどこかで買うか食べようかと…思っていた」
「そうなんですね」
歯切れの悪いフェリウスの言葉に何も気づいていない風を装って、イリエはミルクティーに口を付ける。
「温かくて美味しいです。だいぶ暖かくなりましたけど、朝晩はまだ冷えますね」
「そうだな」
コーヒーを一口のんだフェリウスはようやく少し落ち着きを取り戻したようだ。それでも心ここに在らずな彼の態度に幾度も斬りつけられるような胸の痛みをイリエは見て見ぬ振りで流す。
そして何も知らない風でこてんと首を傾げた。
「レオダッドさん?」
「っ、…ああ」
「もしかして体調が優れませんか?明後日から遠征とおっしゃってました」
「…そうだな」
「もし当日に体を崩したら大変です。良ければ今日はもう帰りませんか?」
「…は?」
「ふふ。私は今日ここで待ち合わせして、こうして一緒に美味しいお茶が飲めただけで十分です」
まだ待ち合わせをして半刻たらず。
それでもイリエはにこりと微笑む。
ちゃんと笑えているだろうか。
「…体調は問題ない」
「本当ですか?」
「ああ」
「わかりました。もし体調が悪くなったら無理せずに言ってくださいね」
「ああ」
あまりに幸福で驕ってしまっていた。
あまりに嬉しくて忘れていた。
調子に乗った罰が下っただけ。
それに僅かな猶予は慈悲で与えられたではないか。
これから最初で最後のデートが出来るのだから。
その後移動する間も話は弾まず、だが何故かフェリウスはイリエの手を取って繋いで歩く。
嬉しさと切なさと辛さがいっぺんに押し寄せたが、イリエは何とか持ち堪えた。
街並みを散歩がてら歩き、フェリウスから昼食は何が良いか聞かれた。正直なところ何も食べたくなかったが、それが原因であの光景を見たと知られたくない。
憐れみの銀色の瞳で見られたくない。
直接その薄く綺麗な唇から終わりの言葉を紡がれたくない。
だからイリエは今度も自己保身に走る。
卑怯な人間だ。
だからこそこういう結末になったのだろう。
イリエは中央の大きな公園周辺の露店で売られているものをベンチに座って食べたいと我儘を言ってみると、聞き入れられイリエは微笑んだ。
露店で売っていたホットサンドと飲み物を購入して公園のベンチに向かう。食べ終わればゴミ箱に捨てられるもの。食べ物だとしても、もう間違っても残るものを買うわけにはいかない。
大きな木の下にある日陰のベンチに座り、イリエはホットサンドをフェリウスに渡した。その頃にはフェリウスもある程度動揺が治まったのか、いつも通りになっていて僅かに安堵が胸に広がる。
食欲は無かったが、怪しまれないように何とかお腹に詰め込む。美味しいホットサンドだろうに殆ど味が感じないことに申し訳ない気持ちになった。
食べ終わってもすぐに動かずに、暫くベンチで周りの広大な噴水や木々をみて休憩する。
そよそよと春らしい風が心地良く、イリエの醜く汚い心を微かに清めてくれているかのよう。
そよぐ風を浴びながら目を閉じたイリエは、少しずつ諦観の念を刻んでいく。
「イリエの髪は柔らかいな」
ふとフェリウスが呟き、隣を見るとイリエのベージュ色の髪の一房をくるくると人差し指で巻き付けていた。イリエの髪質はさらっとしていて真っ直ぐだ。巻き付けてもさらさらとすぐに解けてしまう。シュルルっと解けては揺れるイリエの髪をフェリウスは何度か繰り返すのをイリエは黙って見ていた。
そんな仕草の姿でさえ絵になるくらいに素敵で、イリエの心を狂わせて満たしてくれる大好きな人。
その姿をイリエは目に、そして心に焼き付けた。
「この後はどうしましょう」
「…考えてないな。イリエは?」
「ふふ。私も考えていません」
少し日が傾き始める時間になっていた。
「じゃあ、早めに家に戻るか」
「…はい」
楽しい時間はここまでのようだ。
最後はいつも通りの笑顔で別れよう。
「今夜の食事は何?」
「…え?」
「ん?」
何か話が噛み合っていない。
「何も準備していないなら何か買ってく?」
「え、あの、明後日からの遠征の為に早めに帰るのでは?」
「まだ明日も休みだし。……昼頃には予定があるけど。何、帰って欲しいの」
「いえ!…いえ、全然帰って欲しくはないです」
「行くか」
フェリウスが立ち上がりイリエに手を伸ばす。
そっか。まだ一緒に居られるのか。
まだイリエに想い出をくれるのか。
イリエは微笑みながら節くれだった長い指先を持つ大好きな手に自分の小さな手を重ねた。
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